むしつてはむしつては捨つ春の草 来 山
出典は、『われ貝』。季語は「春の草」で、季は春である。
「春の草」は、「若草」よりもやや春たけた感じで、色も緑が濃く、匂いの高い草をいう。また、「芳草(ほうそう)」「草かぐはし」という季語もあるが、これは、いわゆる雑草までいとおしみ、なつかしむ心を表わしたものであろう。
『今宮草』には、「長柄」と前書きのある句の次に、
「わづか三里にたらぬ所ながら、旅の心地せられて、何もかもめづらし」
と前書きして、この句を掲げている。
この句も、大坂の北はずれにある長柄川堤での詠と思われる。
「町の中にあっては気づかないのに、ここ長柄の川堤に来てみると、いつ
の間にか緑も色濃く、今や春たけなわ。春の息吹を胸いっぱいに吸い込ん
で、草の上に座っていると、いつとはなく、自然の中で透明になっている
自分を発見する。
忘我の境地の中で、自然との対話を繰り返すように、無意識の内に草を
むしっては捨て、むしっては捨てしていることであった」
春のおだやかな長閑さを、うまくとらえた句であると思う。
山の辺の道にみささぎ春の草 季 己
出典は、『われ貝』。季語は「春の草」で、季は春である。
「春の草」は、「若草」よりもやや春たけた感じで、色も緑が濃く、匂いの高い草をいう。また、「芳草(ほうそう)」「草かぐはし」という季語もあるが、これは、いわゆる雑草までいとおしみ、なつかしむ心を表わしたものであろう。
『今宮草』には、「長柄」と前書きのある句の次に、
「わづか三里にたらぬ所ながら、旅の心地せられて、何もかもめづらし」
と前書きして、この句を掲げている。
この句も、大坂の北はずれにある長柄川堤での詠と思われる。
「町の中にあっては気づかないのに、ここ長柄の川堤に来てみると、いつ
の間にか緑も色濃く、今や春たけなわ。春の息吹を胸いっぱいに吸い込ん
で、草の上に座っていると、いつとはなく、自然の中で透明になっている
自分を発見する。
忘我の境地の中で、自然との対話を繰り返すように、無意識の内に草を
むしっては捨て、むしっては捨てしていることであった」
春のおだやかな長閑さを、うまくとらえた句であると思う。
山の辺の道にみささぎ春の草 季 己