壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

青葉若葉

2009年05月27日 23時09分00秒 | Weblog
        三井寺や日は午にせまる若楓     蕪 村

 春になると、楓は、その切り込みのある葉をくるくる巻き込んだ、紅色のやわらかい芽を、枝先につける。
 初夏を迎えて、その若芽が美しい黄緑色の葉にかわり、木全体をおおう。

        あらたふと青葉若葉の日の光     芭 蕉

 門人曾良を、ただ一人の伴として、芭蕉が日光山に詣でたのは、陰暦で卯月の一日というから、今の5月20日ごろだったであろう。
 この句の初案と思われる「あなたふと木の下闇も日の光」は、上に葉が茂ったために下が暗くなる感じをいう季語「木の下闇」を用い、そこへも日の光がさしこんでくるという点を強調することにより、この日光山の尊さ、すなわち東照宮の神徳を感じ取ろうとしているのであって、「日の光」は地名の「日光」を意識したことばであった。
 しかし、芭蕉は、この初案に満足しなかった。日光山のご利益を、闇と光の対句にした理屈っぽさを嫌ったのかもしれない。
 芭蕉は、自然そのもののあり方を実感として生かそうとする方向で改案を試みている。そして、日光山の、自然と建築と歴史とが心に築き上げた輝かしさが、「日の光」および季の具象としての「青葉若葉」によって、比喩を超えた一世界をかたちづくり生かされているのだ。
 蕪村の句も同様に、三井寺の、自然と建築と歴史とが、蕪村の心に築き上げたみずみずしさが、「午にせまる日」および季の具象としての「若楓」によって、ひとつの世界がかたちづくられているのである。

 陰暦四月は暦の上では初夏であるが、青葉若葉には少し早かったかもしれない。たとい、山にはまだ青葉若葉が十分に輝いていなかったとしても、眼前の若葉のほぐれ、青葉の匂いから、さらに一歩進めて、「青葉若葉の日の光」を心に呼び起こすのは、芭蕉の浸透型の発想法からは、きわめて自然なことであったと思われる。

 初五の「あなたふと」が「あらたふと」と改められていることには、初案を支配した心情が、いっそう直な感動として高められていることを感じる。
 それにつづく「青葉若葉の日の光」の流動的な音声美も見落としてはなるまい。ことに、終わりの「日の光」は、青葉や若葉にきらめくそれを印象づける、みごとな効果をあげ得ている。

 「青葉」は濃い色の葉、「若葉」はやや淡いやわらかい色の葉で、ともに夏である。区別して使っているところが大切である。
 「青葉若葉」と重ねると、葉のいろどりの入り乱れた木立が感じられる。


      青葉光 坐して恩師の菩薩めく     季 己