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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

大庭みな子さんの絵

2009年05月13日 20時36分20秒 | Weblog
        おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな     芭 蕉

 はじめのうちこそ、華やかに篝火を燃え立たせ、「ほうほう」と呼ぶ鵜匠の声も賑やかに、鵜も競いたって活躍するので興にのって浮かれ立ったが、やがて夜も更け、篝火も衰えて、鵜舟が遠く流れ去るころともなると、寂寥感が身をつつんでくる。酒も醒め、人々も疲れて黙りがちとなり、鵜のいとなみのあわれさが身にひびいてきて、つまらぬことに興じたあとのあわれさ・はかなさが、切なく身をせめることだ。

 「鵜飼」の名句といったら、この句に及ぶものはなかろう。
 たった十八音(字余りなので)の俳句に、二百字を費やしても鑑賞しきれない。

 芭蕉真蹟懐紙には、
  「ぎふの庄ながら川のうがひとて、よにことごとしう云ひののしる。まこと
   や其の興の人のかたり伝ふるにたがはず、浅智短才(せんちたんさい)の
   筆にもことばにも尽べきにあらず。心しれらん人に見せばやなど云ひて、
   やみぢにかへる、此身の名ごりおしさをいかにせむ」
 という前書きがある。

 前書きの文句からも明らかなように、この句は、謡曲『鵜飼』を踏まえている。わけてもその見せ場といわれる「鵜の段」、シテの老翁が、鵜飼のおもしろさに狂ったあと、やがて月の出を見て、闇路に帰ってゆく哀愁の姿に変ずるところが、「おもしろうてやがて悲しき」の詠嘆を呼び起こす契機となっていると思われる。
 参考までに書くと、謡曲『鵜飼』の
   「面白の有様や、面白の有様や、底にも見ゆる篝火に驚く魚を追ひ回し、
    潜(かづ)き上げ掬ひ上げ、隙なく魚を食ふ時は罪も報いも後の世も
    忘れ果てて面白や」
 と、
   「鵜舟に灯す篝火の消えて闇こそ悲しけれ」
 の二ヶ所の調べを取ったものだといわれている。

 この句は、「おもしろう」・「悲しき」という、全く主観的な二語を重ねて表現されているが、中核をなすものが、身にひびく実感であるため、それが内から主観語を支えてみごとに句を生かしている。この《内なるもの》を失うと、弛緩して破綻を生むことになるに違いない。

 ところで、今日の読売新聞夕刊に、
       「大庭みな子さん 未発表絵画
          別荘から150点 米国滞在中の作品か」
 と、写真入りで大きく報じられた。
 作家の大庭みな子さんが、絵もお描きになるとは存じ上げなかったが、その大庭さんの描いた未発表の絵画が見つかったのだ。
 人物や動物、風景をモチーフにした油絵やデッサンなど150点を、伊豆の別荘で家族の方が発見されたという。
 このうち20点が、『大庭みな子全集(全25巻)』(日本経済新聞出版社)刊行記念として、19~24日、東京・銀座の「画廊 宮坂」(03-3546-0343)で展示される。
 大庭みな子さんがアメリカ滞在中に描いたとみられる、新発見の油絵「犬と横たわる裸婦」が、大きな写真で紹介されていた。
 「画廊 宮坂」に、月6~7回お邪魔している変人は、たまたま、その「犬と横たわる裸婦」を拝見することが出来た。
 猫と犬を好まない変人ではあるが、「犬と横たわる裸婦」を凝視していると、裸婦の視線の先の青い空間に、吸い込まれてゆくような気がしてくる。この絵には、《内なるもの》がある、と確信した。


      「犬と横たわる裸婦」愛づ 聖五月     季 己