「おもしろい」ものを観た。
20点ほどの作品すべてのタイトルが「現象」という、風変りな個展を……。
夏季休廊、常設展が終り、銀座・画廊宮坂が、芸術の秋に向かってスタートを切った。そのトップバッターが、「鈴木正二展 ―現 象―」である。
「新潮国語辞典」で「現象」をひくと、
①あらわれたさま。ありさま。状態。
②<仏>姿をあらわすこと。また、あらわれた姿。
③<哲>五感を通じて知覚される形象。主観に映ずる相。
とある。
わかったようで、わからない説明、語釈である。
けれども、作品を拝見して納得した。大小さまざまな作品すべてが、何が描かれているのか、わからないのだ。そうか、「現象」というのは、「わかるようで、わからない、はっきりしないもの」、つまり③と、勝手に了解した。
ご本人の希望もあり、“先生”ではなく“さん”付で呼ばせていただく。(先生というのは、文字通り、先に生まれた者と思っているので)
先にも述べたように、鈴木さんの作品は、何が描かれているかわからない。見る人により、さまざまなものに見えるに違いない。
多分、大多数の人は「樹皮」を描いたと思うだろう。あとは順不同で、「岩を流れ落ちる水」、「滝壺を出たばかりの流れの水底」、「霧の中の人の群れ」「霧の中の野原」などなど。
おそらく描いている鈴木さん自身、何を描いているのか認識していないと思う。
鈴木さんの魂が、血肉が、描かしているのだ。命じられるままに、絵筆を動かしほとばしり出たものが、氏の作品なのである。だから、「おもしろい」のだ。
画家はとりあえず、絵を描くのを本業とするわけだから、「うまい」絵を描くことに努めなければならない。
ところが、世の中、「うまい」を飛び越して「おもしろい」ところに行こうとする人の何と多いことか。こうすると必ずと言っていいほど堕落する。
「うまい」絵は、平凡でかつ地道な鍛錬、修行を必要とし、生涯かかって出来得ないかも知れぬほど難儀なことである。
もし、それが出来れば、その次に「うまさ」を越した「すばらしい」絵が出来得る可能性を生む。
「すばらしさ」の中の要素として、雅趣の「おもしろさ」や拙愚の「おもしろさ」があるかも知れないし、ないかも知れない。
最初から「おもしろさ」を設定して、ああだ、こうだと、頭の中で考えてこしらえあげてみても、表出されるものは、その時々の軽い思いつきでしかない。
変人は「造形」を好まない。「造形大学」を信じない。「造形」とは、頭で形体を造りあげたり、でっちあげたりするものと、思っているので。
すばらしい発想というのは、必ず地に足が着いていて背景がある。根拠がある。根拠のあるものは、文化として認めることが出来るが、根無し草であればそれはもう、絵画という文化から逸脱してしまっている。
もう忘れてしまったが、誰か画家の言葉だったと思うが、
芸術にとって「うまい」ということは、実はどうでもいいことである。
しかし、この「うまさ」のなんともすばらしいことだろう。
というのだけは覚えている。
画家が生涯かかって求めるものが、たんなる「うまさ」だけではないことはよくわかる。しかし、「おもしろさ」や「すばらしさ」は、「うまさ」の上にあると思う。
「おもしろさ」だけが突然、宙に浮いてそこにあるのではない。「おもしろい」冗談でも言って、人を笑わせてやろうと急に思い立ってみても、うまくはいかない。身についていない奇矯な言葉だけを探してきて言ってみても、誰も笑ってくれないあの白けた空気を知るだけである。
これを日常駆使するには、豊かな人生体験や自然との対話、などという経験を生かしきる頭脳がなければならない。そういう頭脳をこしらえあげるまでにはどれだけの努力が必要か、言を俟たない。
幸い、鈴木さんは、紀州・和歌山のお生まれとのこと。紀の国はまた木の国なので、氏は紀の国の、木魂や木霊に描かされているのかも知れない。
また氏は、これまで80以上の職を体験されたという。まだお若いのに。
こうした豊かな人生体験と、自然豊かな紀の国育ちという背景があるのだ。
だから「現象」というどの作品も、「おもしろい」のであろう。
さらに、このまま精進を続けられ、「すばらしさ」の頂点を極められんことを!
鈴木正二 展 ―現 象―
9月1日(月)~9月6日(土)
am11:00~pm6:00 最終日5:00まで
「画廊 宮坂」 ℡03-3546-0343
作品の画像は、「画廊 宮坂」のHPをご覧いただきたい。
出来れば、お出かけの上、実物をご覧願いたい。
水澄めり木霊は後の世の音か 季 己
20点ほどの作品すべてのタイトルが「現象」という、風変りな個展を……。
夏季休廊、常設展が終り、銀座・画廊宮坂が、芸術の秋に向かってスタートを切った。そのトップバッターが、「鈴木正二展 ―現 象―」である。
「新潮国語辞典」で「現象」をひくと、
①あらわれたさま。ありさま。状態。
②<仏>姿をあらわすこと。また、あらわれた姿。
③<哲>五感を通じて知覚される形象。主観に映ずる相。
とある。
わかったようで、わからない説明、語釈である。
けれども、作品を拝見して納得した。大小さまざまな作品すべてが、何が描かれているのか、わからないのだ。そうか、「現象」というのは、「わかるようで、わからない、はっきりしないもの」、つまり③と、勝手に了解した。
ご本人の希望もあり、“先生”ではなく“さん”付で呼ばせていただく。(先生というのは、文字通り、先に生まれた者と思っているので)
先にも述べたように、鈴木さんの作品は、何が描かれているかわからない。見る人により、さまざまなものに見えるに違いない。
多分、大多数の人は「樹皮」を描いたと思うだろう。あとは順不同で、「岩を流れ落ちる水」、「滝壺を出たばかりの流れの水底」、「霧の中の人の群れ」「霧の中の野原」などなど。
おそらく描いている鈴木さん自身、何を描いているのか認識していないと思う。
鈴木さんの魂が、血肉が、描かしているのだ。命じられるままに、絵筆を動かしほとばしり出たものが、氏の作品なのである。だから、「おもしろい」のだ。
画家はとりあえず、絵を描くのを本業とするわけだから、「うまい」絵を描くことに努めなければならない。
ところが、世の中、「うまい」を飛び越して「おもしろい」ところに行こうとする人の何と多いことか。こうすると必ずと言っていいほど堕落する。
「うまい」絵は、平凡でかつ地道な鍛錬、修行を必要とし、生涯かかって出来得ないかも知れぬほど難儀なことである。
もし、それが出来れば、その次に「うまさ」を越した「すばらしい」絵が出来得る可能性を生む。
「すばらしさ」の中の要素として、雅趣の「おもしろさ」や拙愚の「おもしろさ」があるかも知れないし、ないかも知れない。
最初から「おもしろさ」を設定して、ああだ、こうだと、頭の中で考えてこしらえあげてみても、表出されるものは、その時々の軽い思いつきでしかない。
変人は「造形」を好まない。「造形大学」を信じない。「造形」とは、頭で形体を造りあげたり、でっちあげたりするものと、思っているので。
すばらしい発想というのは、必ず地に足が着いていて背景がある。根拠がある。根拠のあるものは、文化として認めることが出来るが、根無し草であればそれはもう、絵画という文化から逸脱してしまっている。
もう忘れてしまったが、誰か画家の言葉だったと思うが、
芸術にとって「うまい」ということは、実はどうでもいいことである。
しかし、この「うまさ」のなんともすばらしいことだろう。
というのだけは覚えている。
画家が生涯かかって求めるものが、たんなる「うまさ」だけではないことはよくわかる。しかし、「おもしろさ」や「すばらしさ」は、「うまさ」の上にあると思う。
「おもしろさ」だけが突然、宙に浮いてそこにあるのではない。「おもしろい」冗談でも言って、人を笑わせてやろうと急に思い立ってみても、うまくはいかない。身についていない奇矯な言葉だけを探してきて言ってみても、誰も笑ってくれないあの白けた空気を知るだけである。
これを日常駆使するには、豊かな人生体験や自然との対話、などという経験を生かしきる頭脳がなければならない。そういう頭脳をこしらえあげるまでにはどれだけの努力が必要か、言を俟たない。
幸い、鈴木さんは、紀州・和歌山のお生まれとのこと。紀の国はまた木の国なので、氏は紀の国の、木魂や木霊に描かされているのかも知れない。
また氏は、これまで80以上の職を体験されたという。まだお若いのに。
こうした豊かな人生体験と、自然豊かな紀の国育ちという背景があるのだ。
だから「現象」というどの作品も、「おもしろい」のであろう。
さらに、このまま精進を続けられ、「すばらしさ」の頂点を極められんことを!
鈴木正二 展 ―現 象―
9月1日(月)~9月6日(土)
am11:00~pm6:00 最終日5:00まで
「画廊 宮坂」 ℡03-3546-0343
作品の画像は、「画廊 宮坂」のHPをご覧いただきたい。
出来れば、お出かけの上、実物をご覧願いたい。
水澄めり木霊は後の世の音か 季 己