壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

十六夜の月

2008年09月14日 21時54分26秒 | Weblog
 今宵は十五夜、仲秋の名月である。午後六時ごろは見えていた月が、今はまったく雲に隠れて見えない。無月である。
 ただ、今日は、月齢十四日で、本当の十五夜は、明日。十五夜の次は、「十六夜」と書いて「いざよい」と読む。

 陰暦八月の月は、とりどりに愛でられている。
 月の形は、太陽との位置関係によるもので、「二日月」は、日没直後のなかに淡く見えて、角を左に向けている。「三日月」は、それよりもやや高く見えるようになる。
 以後、一日に五十分ほど遅れて沈むようになり、十四日の「待宵の月」は、日没時に東の空低く現れて、下部がやや欠けている。
        待宵や女あるじに女客     蕪 村

 「十六夜の月」は、日没後五十分ほどで東の空にのぼってくるので「いざよひ」といい、上方がやや欠けている。
        十六夜のきのふともなく照しけり     青 畝
 前夜の満月が、日の暮れるのに先立って、東の空に真丸い姿を見せたのに比べ、十六夜の月は、日の入りに少し遅れて姿を現わす。その日の入りと月の出との僅かなずれに、月がちょっとはにかんで、姿を見せかねている、つまり「いざよふ」ためらっているという言葉から、十六夜の月を「いざよひの月」と呼ぶこととなったのである。

        いざよひはわづかに闇のはじめかな     芭 蕉
     十六夜の月がさえざえと照りわたっている。昨夜の仲秋の名月にくら
    べると、わずかではあるが、さびしいところがある。やはりこれが闇へ
    向かうはじめなのだという気がしてくることだ。
 あたりまえの理屈のようであるが、明るい十六夜の月ではありながら、どこか十五夜とちがったかすかなさびしさが感ぜられる。それが闇への第一歩であることが予感せられ、一脈のさびしさを覚えているのである。
 初案と思われる「とりわけ」の形であると、欠けはじめたことが殆んどわからない十六夜の月に、かえって闇の兆しがはっきり感ぜられる意味になるが、少し言葉が際立つので、「わづかに」と改めたものであろう。

        十六夜やたしかに暮るる空の色     去 来
 といったところが、正直な描写であろうか。昼の太陽と入れ替わりに輝いた十五夜の名月と、十六夜の月との僅かな時間のずれを見逃していないのは鋭い。

 ところで、次の十七夜となると月の出はさらに遅くなるので、待ち兼ねた気の早い人は立ち上がって庭先に出て、東の空を眺めることとなる。こうして、立って待っているうちに月が出るというので、「立待月」という。
        古き沼立待月をあげにけり     風 生

 次の十八夜ともなると、月の出はさらに遅くなるので、腰を落ち着けて縁側の座布団に坐って待つ「居待月」と変わる。
        暗がりをともなひ上る居待月     夜 半

 十九夜の月は、日の入りから二時間近くも遅れて上るので、身体を横にして気長に待つという「寝待月・臥待月」となる。
        常臥(とこふし)のわれに出でたる寝待の月     草 城

 さらに、二十日夜ともなると、夜も更けた頃に上るので、「更待(ふけまち)月」という。また、亥の正刻(午後十時)に出るので、「二十日亥中(はつかいなか)」ともいう。
        更待や階きしませて寝にのぼる     きくの

 月を待つ間の宵闇もだんだんと長くなっていって、二十三夜の月は、子の刻(十二時)に出るので、「真夜中の月」という。
        雨やんで真夜中の月に起きいづる     青 淵
 待宵から真夜中までの十日間、秋の夜の月は、話題に事を欠かさない。


      たしかめて母また仰ぐ無月かな     季 己