壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

喜田 直哉 個展

2008年09月15日 21時55分25秒 | Weblog
 期待以上に“進化”していた。無心に、ひとすじの気持ちで描かれているのが、うれしかった。

 「喜田直哉個展」に行って、楽しんできた。
 大は30号Sから、小は0号まで、全部で14点の展覧である。
 この一年、色々なことがあったと思う。ご自身の結婚、そして、義父の死などなど、この個展が延期になるのでは、と思っていたが、杞憂に終りホッとした。

 喜田さんは確実に進化している。それも期待以上に……。
 喜田さんの作品は、一見、水墨画のようだが、“俳句”だと思う。
 大多数の画家は、“足し算”で描くが、喜田さんは、“引き算”で描いている。
どういうことかというと、まず、画面に墨を塗り、真っ黒にする。次に消しゴム等を使って消していき、ライオンならライオンを形作っていくのである。濃淡、陰影すべて消しゴムを使っての消し具合にかかっている。どうしてこんな“しちめんどくさい”ことをするのかは、知らない。
 だが、“足し算”の水墨画とは格段に違う。一言で言えば、喜田さんの作品は、リアルでやわらく、あたたかい。“いのち”がある。
 俳句も、余分なものを削って省略し、単純化することが大切なのだ。そうして対象物の“いのち”をつかみ出せたとき、その句は名句となる。
 変人が、喜田さんの作品に心ひかれるのは、こうした共通点があるからかもしれない。

 坂村真民の詩の一節に、こんなのがある。
        むねに光を!
        くらしに夢を!
        それはわたしたちの
        祈りであり
        願いである
 忙しい中にも、少しでも心を静めようと、書画に親しむようになったのだが、喜田さんの作品には、その「むねに光を! くらしに夢を!」の祈りがあり、願いが感じられる。
 在職中は、職場の部屋に、よく喜田さんの作品を掛けて置いたものだ。

 期待以上に“進化”した、と書いたが、モノクロの世界に今展では、色彩の世界の作品が増えたのだ。もちろん、こちらは“足し算”で描いている。これがまた素晴らしい。
 とりわけ、「古代風景・森人」が佳かった。小品ではあるが、大きく見える。第一、古格があるのがいい。古格があるのに新しい。
 画面中央に大木の塊があり、その左は一面の雲、右側は遠景と空だ。
 喜田さんは、どんな祈り、どんな願いを込めて描かれたかわからない。けれどもそれは、鑑賞者が、それぞれ自由に観ればよいと思う。
 変人には、昔のよき時代の鎮守の森が見えてくる。画面中央の大木は、神様がこの世に降りて来られるときの依代(よりしろ)だ。その依代を荘厳するのが、画面左の雲なのだ。

 禅語に「一水四見」という言葉がある。これは、一つの水も、天人は瑠璃に、人間は飲料に、餓鬼は血に、魚は住処にと、それぞれ自分中心の立場で見ると、見方が異なるのを言う。
 作品鑑賞は、これでいいと思う。むしろ、「一水四見」の作品のほうが好きである。誰が見ても同じに見える「絵葉書」作品だけは、買いたくないし、見たくもない。

 “引き算”の作品も、どれも甲乙つけがたいほど、魂のこもった快作である。そのうえ、どうしてこのタイトルをつけたか、という謎解きの楽しみがある。
 たとえば、DMに使われた作品「理の公式」。ライオンの頭上に、宝飾品が輝いている作品だ。
 変人の解釈のヒントだけを書いておくので、実際に会場へ行って、作品と対峙して謎解きを楽しんでいただけたら、うれしい。
  [ヒント]①ライオンは百獣の王といわれる。
       ②「理」には、次のような意味がある。
         ア、宝石の模様のすじめ
         イ、動植物の表面にあるきちんと整ったすじめ
         ウ、治める
       ③「公式」には、次のような意味がある。
         ア、おもてむきの儀式
         イ、数や式の間に成り立つ関係

         喜田 直哉 個展
      9月15日(月)~9月20日(土)
      午前11時より午後6時まで(最終日は5時まで)
         画廊 宮坂
      中央区銀座7-12-5 銀星ビル4階
        ℡(03)3546-0343


      敬老といふ日の海の雲まろし     季 己

十六夜の月

2008年09月14日 21時54分26秒 | Weblog
 今宵は十五夜、仲秋の名月である。午後六時ごろは見えていた月が、今はまったく雲に隠れて見えない。無月である。
 ただ、今日は、月齢十四日で、本当の十五夜は、明日。十五夜の次は、「十六夜」と書いて「いざよい」と読む。

 陰暦八月の月は、とりどりに愛でられている。
 月の形は、太陽との位置関係によるもので、「二日月」は、日没直後のなかに淡く見えて、角を左に向けている。「三日月」は、それよりもやや高く見えるようになる。
 以後、一日に五十分ほど遅れて沈むようになり、十四日の「待宵の月」は、日没時に東の空低く現れて、下部がやや欠けている。
        待宵や女あるじに女客     蕪 村

 「十六夜の月」は、日没後五十分ほどで東の空にのぼってくるので「いざよひ」といい、上方がやや欠けている。
        十六夜のきのふともなく照しけり     青 畝
 前夜の満月が、日の暮れるのに先立って、東の空に真丸い姿を見せたのに比べ、十六夜の月は、日の入りに少し遅れて姿を現わす。その日の入りと月の出との僅かなずれに、月がちょっとはにかんで、姿を見せかねている、つまり「いざよふ」ためらっているという言葉から、十六夜の月を「いざよひの月」と呼ぶこととなったのである。

        いざよひはわづかに闇のはじめかな     芭 蕉
     十六夜の月がさえざえと照りわたっている。昨夜の仲秋の名月にくら
    べると、わずかではあるが、さびしいところがある。やはりこれが闇へ
    向かうはじめなのだという気がしてくることだ。
 あたりまえの理屈のようであるが、明るい十六夜の月ではありながら、どこか十五夜とちがったかすかなさびしさが感ぜられる。それが闇への第一歩であることが予感せられ、一脈のさびしさを覚えているのである。
 初案と思われる「とりわけ」の形であると、欠けはじめたことが殆んどわからない十六夜の月に、かえって闇の兆しがはっきり感ぜられる意味になるが、少し言葉が際立つので、「わづかに」と改めたものであろう。

        十六夜やたしかに暮るる空の色     去 来
 といったところが、正直な描写であろうか。昼の太陽と入れ替わりに輝いた十五夜の名月と、十六夜の月との僅かな時間のずれを見逃していないのは鋭い。

 ところで、次の十七夜となると月の出はさらに遅くなるので、待ち兼ねた気の早い人は立ち上がって庭先に出て、東の空を眺めることとなる。こうして、立って待っているうちに月が出るというので、「立待月」という。
        古き沼立待月をあげにけり     風 生

 次の十八夜ともなると、月の出はさらに遅くなるので、腰を落ち着けて縁側の座布団に坐って待つ「居待月」と変わる。
        暗がりをともなひ上る居待月     夜 半

 十九夜の月は、日の入りから二時間近くも遅れて上るので、身体を横にして気長に待つという「寝待月・臥待月」となる。
        常臥(とこふし)のわれに出でたる寝待の月     草 城

 さらに、二十日夜ともなると、夜も更けた頃に上るので、「更待(ふけまち)月」という。また、亥の正刻(午後十時)に出るので、「二十日亥中(はつかいなか)」ともいう。
        更待や階きしませて寝にのぼる     きくの

 月を待つ間の宵闇もだんだんと長くなっていって、二十三夜の月は、子の刻(十二時)に出るので、「真夜中の月」という。
        雨やんで真夜中の月に起きいづる     青 淵
 待宵から真夜中までの十日間、秋の夜の月は、話題に事を欠かさない。


      たしかめて母また仰ぐ無月かな     季 己 

仲秋の名月

2008年09月13日 21時46分49秒 | Weblog
        月々に月見る月は多けれど
          月見る月はこの月の月
 と昔の戯れ歌に歌われているほど、陰暦八月十五夜、すなわち仲秋の名月というものは、観月に絶好の夜として喜ばれていた。
 しかし、台風が日本列島に最も多く来襲してくるシーズンでもあり、毎年、当てが外れて、がっかりすることが少なくない。
 今年の陰暦八月十五夜は、九月十四日であるが、実際の月齢の満月は十五日である。また、台風十三号が沖縄で大暴れしているが、次第に日本列島の方に進路を変えるようである。ところによっては、観月どころか台風に備えねばなるまい。

 ともかく、太陽と太陰との運行について言えば、十五夜満月の月の出が、日の入りと、きわめて僅かの差しかないということが、その絶好の条件となっているのである。
 「暑さ寒さも彼岸まで」という諺の通り、暑からず寒からずという気温も、観月という夜の行事には、見過ごすことのできない好条件である。蛇足ながら、雷がめっきり減るのも、秋の彼岸ごろからである。

 名月の句で最もよく知られているのは、芭蕉の次の句であろう。
        名月や池をめぐりて夜もすがら
   今夜は仲秋の名月。その清らかな光の池水に映えるあたりを独り徘徊し、
  夜通し佳境に酔ったことである。
 芭蕉が実際に池をめぐって夜を明かしたかどうかは不明であるが、それはどうでもよい。俳句は事実を述べるものではなく、また、事実を報告することでもないのだから。
 「夜もすがら」は、良夜の清影を愛する芭蕉の心の深さを言おうとして工夫された、俳諧の曲節として評価すべきであろう。ちなみに、「夜もすがら」は、一晩中、夜通しの意で、その反対は「ひもすがら」・「ひねもす」である。
 中七の「池をめぐりて」に、昔から今までを思い、古今の詩歌をうそぶく余情が感じられる。

        名月や神泉苑の魚躍る     蕪 村
 日没とともに、東の空にこうこうと冴え昇る大きな大きな月の光には、神泉苑の鯉でなくても、ふと真昼かと疑ってみたくなるだろう。

        名月や八重山吹の返り咲き     一 茶
 一輪二輪、いじけた山吹の花の返り咲きも、この夜の月の光には、晴れがましい思いのすることであろう。
 有名さでは、「名月を取てくれろと泣く子かな  一茶」が勝るであろう。


      名月や土偶に耳と眼(まなこ)あり     季 己

杜窯会陶芸展・金大容

2008年09月12日 21時54分52秒 | Weblog
 日本橋三越本店へ行く。
 特選画廊で、「雨宮 淳 彫刻展」を観る。
 先生は、日本芸術院会員で、日展・日彫展を中心に早くから具象彫刻界の中で頭角を現し、ライフワークともいえる“あるがまま”の女性の美を表現し続けておられる。
 今展の副題に「気韻生動を求めて」とあるように、女性の内なる生命と精神の輝きに溢れた作品、およそ30点が一堂に展覧されているのは、“お見事”の一語に尽きる。
 しかし、貧乏人の悲しさ、「観るだけよ」の高嶺の花の彫刻展であった。

 眼福をしっかり心に刻んで、工芸サロン・アートスクエアの「杜窯会 陶芸展」へ。
 東京藝術大学工芸科陶芸教室の学生・研究生・教官・卒業生による恒例の展覧会で、今年、第45回を迎える。
 杜窯会は、東京藝術大学1期生からの陶芸展で、卒業生も280人と大きくなり、多種多様の陶芸作家に育っているとのこと。喜ばしい限りである。
 使いやすさと創造性を兼ね備えた“うつわ”を中心に約300点の出品である。

 教官と卒業生の作品は、ガラスケースの中に鎮座していて、触れることはできない。ガラス越しに観た感じでは、やはり、教官の島田文雄先生の作品がピカ一。あとは変人の琴線に触れる作品は皆無だった。
 つぎにアートスクエアの研究生・学生の作品を観る。
 こちらには、琴線に触れた“作家の卵”が5名。学部4年生の学生が1名、あとの4名は大学院の研究生。この5名のうち、日本人が2名、あとの3名は韓国人であった。

 中でも、金大容(キム・デヨン)さんの「粉青窯変面取壺」には、心を奪われてしまった。
 作品を穴のあくほど見つめていたら、「裏側もご覧になりますか」と、ひとりの青年に声をかけられた。聞けば、作者の金大容さんだった。
 裏側を見せていただいたついでに、色々とお話を伺った。
 彼は、東京藝大大学院研究科博士後期課程の研究生で、日本の陶芸を学ぶために5年ほど前に来日したとのこと。彼は、日本に来る前にすでに、韓国で若き陶芸家として活躍していた、とは彼の後輩の研究生の話である。
 粉青沙器が専門のようだが、「面取」に心魅かれて、それを学ぶために韓国からわざわざ東京藝大の大学院の研究生になった、ということらしい。

 粉青沙器は、灰色の素地に白土を用いて、さまざまな装飾を施した陶磁器のことで、日本では三島、刷毛目、粉引などと呼ばれ、古くから茶人に愛されてきた。
 技術的には高麗の象嵌青磁を受け継ぐもので、自由闊達で親しみやすい文様表現が魅力といわれている。
 金大容さんの作品でもう一点、気に入った作品がある。それには竹の文様がさらっと描かれている。これも彼の自信作で、彼自身おそらく手元に残しておきたい作品ではないかと推察する。
 いま彼は、文様なしの作品に挑戦し続けている。文様の代わりに面取で、光の陰影を楽しめる作品を生み出しているのだ。
 4年前に学生・研究生が共同で穴窯を作ったという。けれども今は、薪を焚いて穴窯で焼くのは、彼と日本人のOさんの二人だけだという。

 「粉青窯変面取壺」は、素焼きをした面取壺を、白土を溶かした液の中に、どっぷりつけて、化粧を施す。それを穴窯で三昼夜焚いて、火を止める。そのタイミングが難しいという。
 火を止めるタイミングが、グッドタイミングであれば、“窯変”がとれる。だが窯変のとれる確率は非常に低い。窯変どころか、普通の作品もとれず、一窯全滅ということもあるそうだ。
 三昼夜、薪を焚くと、薪代だけでも七万五千円ほどかかるとのこと。
 まろやかな器形、清らかな釉肌が独特の美しさを放つ「粉青窯変面取壺」は、李朝以上に李朝らしく、変人を魅了してやまない。
 「粉青窯変面取壺」の何気ない姿に、「無垢の美」をひしひしと感じる。

 ぜひ、会場へ出かけ、お気に入りの作品を見つけて、購入していただきたい。価格は非常に安く設定してある、と確信する。生活は大変だが、それよりも、多くの人たちに使って欲しい、喜んでもらいたい、というのが、彼ら・彼女らの願いなのだ。
 そうすれば、お気に入りの作家の卵の成長を見守る、という楽しみもできるはず。
 「杜窯会陶芸展」は、9月15日(月・祝)まで。最終日は午後5時30分閉場。


     秋光の粉青窯変面取壺     季 己

いなづま

2008年09月11日 20時49分53秒 | Weblog
          稲妻  道与興行に
        いなづまや秋きぬと目にさやの紋     立 圃
 季語は「いなづま」で、秋。
 稲妻(いなづま)は、稲光(いなびかり)ともいい、雷雨に伴なった電光のことではない。秋の夜、空いちめんに光が走って、うす桃やうす紫の妖しい色に染まる。稲を実らせるものとして、「稲妻・稲の殿」と呼ばれ、そのはかない美は“無常観”と連結されていた。

 「さや」は、「さやか」と「紗綾(さや)」を言い掛けている。
 「紗綾」は絹織物の一種で、表面がなめらかで光沢がある。
 『和漢三才図会』に、「按ズルニ紗綾ハ綾ニ似テ、文、稲妻ノ如シ」とあり、稲妻や菱垣、卍などの模様を織り出したものが多い。
 稲妻と紋は、俳諧辞書『御傘(ごさん)』にも「紋の稲妻」とあり、「稲妻のうつるは紋か波のあや」や、「稲妻ひかる紗綾の手覆 / 鎌つかむ軍は秋の野にあれて」などの例によって、縁語と考えられる。

 この句が、『古今集』の藤原敏行の、
        秋きぬと 目にはさやかに 見えねども
          風の音にぞ 驚かれぬる
 を、本歌取りにしたことはいうまでもない。
 句は、闇夜の「いなびかり」が紗綾の紋のように思われ、そのあざやかさが秋の訪れたことを一目でわからせる、ともとれるし、また、『をだまき綱目(こうもく)』に「織物の紋の稲妻も秋なり」とあることから、呉服屋の店頭へ新しく並んだ稲妻模様の紗綾の稲妻紋に、秋の訪れをあざやかに感じ取った意とも、双方にとれよう。

 詞書の道与は、よくわからないが、『小町躍』に五句入集し、立圃門の人と思われる。この句からして呉服商であったかも知れない。
 ともあれ、本歌取りの歴然とした句だが、あざやかなイメージを与える句として評価されよう。


      文机の屋久杉てらす いなびかり     季 己

萩の花

2008年09月10日 23時00分05秒 | Weblog
        高円の 野辺の秋萩 この頃の
          あかとき露に 咲きにけむかも
 『萬葉集』巻八に見える、大伴家持の歌である。
 萩の花は、日本各地の山野に自生するほか、寺や庭園などにも植えられている。
 秋の七草の筆頭に数えられ、「萩」という日本製の漢字が作られたほど、昔から日本人に愛されてきた。古株から新芽を出す「生え芽(はえき)」が、その語源だという。

 初秋のころ、真白に咲きこぼれる白萩、つつましやかな紅紫色に、点々と秋の野の錦をつづる赤萩。朝露にしっとりと濡れて、頭重げに垂れている枝ぶり。
 万葉の昔から、こよなく萩の花を愛し、萩の花を讃えた数々の歌を残してきた。

        我が岡に さを鹿来鳴く 初萩の花
          妻問ひに 来鳴くさを鹿
 これも、『萬葉集』巻八に見える、大伴旅人の歌である。旅人は家持の父であった。萩の花と鹿と、和歌の世界では、切っても切れない縁の深いものであった。
 萩の花が次から次へ、次々に咲いては、ほろほろと散る秋の深まりとともに、妻を求める鹿の声が、峰から峰へこだまして、聞く人の涙を誘うのも、自然を愛する人にふさわしい秋の感傷であった。「鹿鳴草」と書いて、「はぎ」とさえ読ませたほどであった。

 清少納言も『枕草子』第六十四段に、
    萩、いと色深う、枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れて、なよなよと
   ひろごり伏したる、さを鹿の、分きて立ちならすらむも、心ことなり
 と述べて、和歌的世界において、萩がかもしだす情趣を余すところなく言い尽くしている。

        一つ家に遊女も寝たり萩と月     芭 蕉
 俳句の世界にあっても、萩は、また清らかな色めかしさを残している。

        黄昏や萩に鼬の高台寺     蕪 村
 京都の高台寺は萩の名所。そこへ鹿の代わりに鼬(いたち)を登場させた蕪村の句は、まさしく俳画の世界である。

 葉先の尖っていなく、穂の短い丸葉萩、茎が太くなる木萩などもあるが、やはり七草に数えられるのは山萩である。
 俳句では「萩」と総称して詠まれているが、みやま萩・つくし萩・にしき萩・みやぎの萩・黄萩など種類は多い。


      山萩のなだるるところ観世音     季 己

虫の秋

2008年09月09日 21時46分57秒 | Weblog
 暑い!暑い!と言い暮らしているうちにも、ここ二、三日、チチチチチチと鳴く虫の音が聞けるようになった。
 台風13号が発生したと聞くと今度は、秋も最中なのだなと感じてしまう。
 
 鈴虫・松虫・轡虫・機織・馬追・きりぎりす・こほろぎ・鉦叩など、深まる秋と共に鳴く虫の数も殖えて、風情がいちだんと増してくる。
 『江戸職人尽歌合』の中に、虫売りという職業をあげて、
        秋の虫の あはれを月と 眺むれば
          荷(にな)へる虫の 音にぞ恨むる
 という歌があるし、
        宵過ぎや虫売り通る町外れ
 という句があるように、秋の訪れとともに、市松格子の障子をつけた荷い屋台の虫売りが、そこここの町角に荷を下ろして、鈴虫・松虫・きりぎりすなど、鳴く虫を商うのが、江戸時代からの都会の夜店風景であった。
 今は、縁日の夜店などに、鈴虫・松虫・轡虫の類を、きれいな籠に入れて売られている。江戸時代の振売りが、座して客を待つ、という形態に変わってきたのだ。

 ところで、平安時代の昔には、リーンリーンと鳴く今の鈴虫を松虫、チンチロリンと鳴く今の松虫を鈴虫と言っていた。
 松籟といって、松の梢を吹き渡る風の音が、リーンリーンと聞こえるので松虫というわけなのであろう。斎宮女御徽子の和歌にも、
        琴の音に 峯の松風 通ふなり
          いづれのをより 調べ初めけむ
 と、松籟を琴の音に喩えて詠んでいる。
        松虫のりんとも言はず黒茶碗     嵐 雪
 は旧称の方で、謡曲にも松虫をリンリンと鳴かせているが、
        松虫や素湯もちんちんちろりんと   一 茶
 は近称である。この中間の時期で倒錯したものであろう。
 来歴はともかく、どちらも涼しげなよく透る声で、なつかしい。
 松虫の姿は、「つるれいし」の種に、鈴虫の姿は、西瓜の種に似ているというのも面白い。

 また、「きりぎりす」と「こほろぎ」も、昔と今では反対であった。
 『百人一首』で有名な、後京極摂政良経の、
        きりぎりす 鳴くや霜夜の 狭蓆(さむしろ)に
          衣片敷き ひとりかも寝む
 とある「きりぎりす」は、決して野中の草叢に鳴く「きりぎりす」ではなく、屋内の土間や床下で鳴く「こほろぎ」でなくてはならない。
        むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす     芭 蕉
 も「こほろぎ」である。

 チョンギースの声で知られている「きりぎりす」は、鳴く虫の中では、大型で重厚な感じがする。緑色のと茶色のと二つの型があり、羽に黒紋の列があるのが特徴とされている。「ぎす」ともいう。
 「こほろぎ」のきれいな澄み透る連続音は、秋の虫の代表的なものであろう。数種類あるが、大型でコロコロコロコロ……と鳴く「えんまこほろぎ」以外はみな、リリリリ……と鳴く。「ちちろ」「ちちろ虫」「つづれさせ」とも。


      こほろぎの天に墜ちゆく壺中かな     季 己   

心の滋養

2008年09月08日 21時49分48秒 | Weblog
 深津佳子さんをご存知だろうか。
 江戸扇子の職人さんで、お住まいが拙宅の近くである。最近は、色々な雑誌の特集で取り上げられ、通販会社でも扱っているので、ご存知の方が多いかも知れない。

 深津扇子店は、江戸末期、日本橋に扇子店を開き、大正期に浅草、昭和初期に京都などに居を移し、戦後、東京で分家して、雲錦堂・深津扇子店として再開した。扇子店と称しても販売業ではなく、製造業である。
 以来、職人として、『精一杯、誠実な仕事をする』を信念に続けてこられたという。

 佳子さんの父である先代・深津鉱三さんは、男女持ち扇、舞扇など各種の扇子を製作した他、三笠宮妃殿下、高円宮妃殿下、紀宮内親王、秋篠宮妃殿下、皇太子妃殿下の、朝見の儀などに使用される儀礼扇も手がけた。
 平成元年に荒川区より「指定無形文化財保持者」を、平成三年には東京都より「優秀技能賞」を受けている名工である。
 当代の佳子さんは、江戸好みの絵付けから丁寧な仕上げまでを一貫生産し、伝統を守りつつ、他とは違った作品を生み出すべく、日々、精進・修行を続けておられる。

 深津扇子店の扇子に欠くことのできない、手描きの扇子絵は、日本画家の池上隆三さんの手によって描かれている。
 池上さんは、福田豊四郎氏に師事し、新制作に出品していたが、今は九十六歳という高齢のため、絵筆を持てなくなってしまわれたのは惜しまれる。
 本業の日本画では、馬や牛を主題とするほか、植物画などを得意としている。池上さんは、先代の深津鉱三さんとは義理の兄弟という関係で、五十年以上、本業の合間をぬって、扇子絵を描き続けてこられた。
 個人的好みでは、「かえる」「かっぱ」「かまきり」が洒脱で大好きである。もちろん、しっかりコレクションに入っている。

 きのう、「第29回 あらかわの伝統技術展」で、池上さん最晩年筆の「相撲河童」を、当代の佳子さんが、煤竹を用いて仕上げられた絶品を手に入れた。
 池上さんならではの、墨の上品な色合いの、味わい深い作品は、時代に左右されない生きたぬくもりがあり、扇子を開くたびに心を和ませてくれる。
 また、扇子の骨の煤竹は、京都西山の旧家で、二百年ほど燻されたものと聞く。
 この扇子の“限りない心の滋養”のおかげで、心安らかで、ゆったりとくつろいでいられそうだ。


      あね夏代いもうと春代 秋扇     季 己

白露・秋茄子

2008年09月07日 21時08分00秒 | Weblog
 今日も残暑厳しき一日であった。
 太陽の光も、その射し入る角度も、しかと秋である。

 秋といえば、もうとっくに飽きられている大相撲は、確実に秋の時代、いや冬の時代に突入したのではないか。
 相次ぐ不祥事に、またまた大麻問題。
 相撲協会理事長の椅子にしがみついて放さない人、あっさりと総理の椅子を放り出す人、世の中さまざまである。
 それにしても相撲協会という世界は、何と常識にない世界なのであろう。これで“国技”などと、よく恥ずかしくなく言えるものだ。そういえば皆、面の皮の厚い人ばかりだから、仕方ないか。
 これでも理事長が椅子にしがみつくのなら、財団法人の認可を取り消すより他なかろう。そうしてしっかり税金を払っていただこう。

 きょう九月七日は、二十四節気の一つ、白露山ならぬ白露である。
 陰気ようやく積もり、露凝(こご)りて白し――という時候で、「北斗は庚(かのえ=真西)を指すの節」と、古い暦書にある。
 白露は、わが国の時候にも合い、わかりやすいが、“しらつゆ”と読まれ、叙景句と思われた苦い経験がある。リズムに気をつけて句にすべき、としみじみ思った。
 雁が来たり、燕が帰るという時期で、置く露がしげくなるという時期でもある。

 大相撲の“ボケ茄子”ついでに、“秋茄子”について……。
 「親の意見と茄子(なすび)の花は、千に一つの無駄がない」という、教訓めいた都都逸がある。
 また、「秋茄子は嫁に喰わすな」という、何だか意地の悪い諺もある。
 真夏の頃の、次から次へ実が成って、日ごとに大きく成長する茄子とは違って、秋に入ってからの返り咲きの秋茄子は、成長が遅い代わりに、香りがよく、皮も薄くて味もよい、秋の味覚に欠かすことの出来ないものである。

 ここで他愛のない小咄を一つ。
   秋茄子は、香りがよく、たいそう美味いというので、毎日毎日煮て食べる母娘がいた。
  娘「かあさん、もう茄子はよしにして。飽きてしまった」
  母「なーに、お前が、秋茄子を喰うのは今年限り。たんと喰いやれ」
  娘「どうして?」
  母「来年は、嫁になるからさ」

 もっとも、学説によっては、秋茄子の成分に、若い女性の妊娠率を下げる作用があるから、それを気遣っての諺だ、ともいわれている。


      教材のひらがな まこと白露かな     季 己

別れ

2008年09月06日 23時43分47秒 | Weblog
 燕は、三月ごろ日本に渡ってきて、北は道南、南は種子島にかけて、ほぼ全国的に営巣し繁殖する。
 九月ごろになると、中国南部やフィリピン、ニューギニアなどで冬を過ごすために、海を越えて南下する。これを「燕帰る」「帰燕」「去ぬ燕」などといい、秋の季語となっている。    

        馬かりて燕追ひゆく別れかな     北 枝

 季語は「燕追ひゆく」で、秋の句である。
 作者の北枝(ほくし)は、加賀・小松の人で研刀業、のちに金沢に移る。
 元禄二年(1689)に芭蕉に入門。

 ――北枝と芭蕉との出会いは、蕉門のなかで最も劇的であるかも知れない。
 若いころ、談林に遊んでいた北枝は、新しい俳風を模索してつかみかねていた。
 そこへ元禄二年秋、『おくのほそ道』旅中の芭蕉が訪れたのである。
 北枝は、芭蕉の金沢滞在中はもちろん、小松・山中と供をして、松岡まで師を送った。その折の聞書きをまとめて『山中(やまなか)問答』を著した。
 このころから、北枝の俳風は一変している。北枝の才が、湧いて溢れたといった感がある。
 従来の俳諧観を根本から動かす「不易流行」の風雅観が、北枝にいかに深い影響を与えたか、この一事で推し量れよう。それだけに、師との別れは痛切であった。

 折も折、矢のように燕は帰り去る。客は馬をやとってその燕をさらに追いかけようとするような……。
 一瞬のうちに燕も馬も消えて、むなしく、空の青さと蹴立てた砂ぼこりが残るばかり。その中に呆然と立ちつくす残された者。涙も流し得ない悲しみの深さがそこにある。
 北枝の編んだ『卯辰集』には、「元禄二の秋、翁を送りて山中温泉に遊ぶ三両吟」とあって、「馬かりて」の句を発句として、曾良・芭蕉と三人で巻いた歌仙が載っている。
 芭蕉は松岡で別れるとき、
        物書いて扇子へぎ分くる別れかな     芭 蕉
 と書いて贈ったという。
 わずか十日ほどの出逢いではあったが、この二句がふたりの結びつきを何よりもよく示していると思う。
 しかも、この二句が予感したように、この後、ふたり相逢うことはなかったのである。
 しかし、師に対する敬慕の念は、終生変わることなく、北枝は、北陸蕉門の中心人物であった。


      秋つばめ五重塔の澄む日かな     季 己

すすき

2008年09月05日 21時53分11秒 | Weblog
 清少納言の『枕草子』第六十四段に、次のような一節がある。

   秋の野の、おしなべたるをかしさは、すすきこそあれ。ほさきのすはう
  にいとこきが、朝霧にぬれてうちなびきたるは、さばかりの物やはある。
   秋のはてぞ、いと見所なき。色々にみだれ咲きたりし花の、かたちもな
  くちりたるに、冬の末まで、かしらのいとしろくおほどれたるもしらず、
  むかし思ひいでがほに、風になびきてかひろぎたてる、人にこそいみじう
  にたれ。よそふる心ありて、それをしもこそ、あはれとおもふべけれ。

   秋の野辺の、全般的な趣というものは、薄(すすき)に限る。穂先が
  蘇芳色で随分濃いのが、朝霧に濡れてうち靡いているところは、これほど
  すばらしいものがあろうか。
   しかし、秋の終りが、全く目も当てられない。色さまざまに咲き乱れて
  いた花が、影も形もなく散ったのに、薄だけが冬の終りまで、頭が真白で
  さんばらになっているのも気づかず、いかにも昔懐かしげな表情で、風に
  吹かれてゆらゆらと立っているのは、人間の場合と全くそのままそっくり
  だ。思い当たる節があって、そのことがどうにも「やりきれない」という
  気持がするのだろう。

 野分の風に伏し靡く薄野原の眺めほど、秋の深まる思いをはっきりと印象づけるものはなかろう。
        鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉     蕪 村
 この絵画的な美しさをこめた俳句を読むとき、必ず眼に浮かぶのは、駆けていく武者たちの前景となっている群薄の、風に伏し靡き、波うっている姿であろう。
 秋の七草の中でも、薄ばかりは、その揺れ動く姿の美しさに注目されている。
 万葉の昔から平安の世を経て、わが国の詩人たちは、みな薄の揺れ動く姿に眼を引かれていたのである。
 ということは、今後そのようなさまを、句に詠むのは陳腐以外の何物でもないといえそうだ。
 そういえば、今日、観てきた「秋の院展」の、類句類想ならぬ類画類想の、何と多いことか。審査委員の力量が疑われる。

 角芽立つ早春の薄、見る眼にも爽やかな初夏の若薄、しかしながら、薄はやはり
花の穂を抽きだす秋になって、最も味わいの深い風情を示すものである。
 何事においても一際目立つ存在を、和歌の表現では、「花薄穂に出づ」という枕詞で言い習わしているのは、そのためである。

 夕べの風に伏し靡く薄もさることながら、はらりと開いた薄の穂先や葉末にたまる露が、朝の光を受けて、珠と輝いている静かな姿に見出す美しさもまた格別、新鮮な感覚にうったえるものがある。
 だが、その美しさもここまで。清少納言のいうように、「かしらのいとしろくおほどれたるもしらず、むかし思ひでがほに、風になびきてかひろぎたてる」のは、なんともやりきれない気持ちになる。


      北の湖ほうけ薄のぬけぬけと     季 己

つくつく法師

2008年09月04日 21時46分34秒 | Weblog
 今日もつくつく法師が鳴いた。まるで福田さんを惜しむかのように、「ツクヅクオシイ、ツクヅクオシイ」と。(そんなこと、ないか)

        秋風に殖えては減るや法師蝉     虚 子
 春蝉に始まり、つくつく法師に終わる、命はかない蝉の声には、自然界の暦というべきものがあるに違いない。
 九月に入り、つくつく法師の鳴く声を聞いては、秋の深まる心地さえする。つくつく法師の別名を「寒蝉」というのは、そのためであろうか。
 歳時記には、つくつく法師の傍題として、「おしいつく」「法師蝉」「つくつくし」などが、掲げられている。

 地方差もあろうが、月遅れの盆ころ、新涼の気を感じとったように鳴き始める。
 「ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、オーシーツクツク、オーシーツクツク」とくりかえす声が特徴的であるが、昔の人は「筑紫恋し」と聞き、九州の旅の僧の化身だと想像した。
「つくつく法師」および傍題の「おしいつく」・「つくつくし」は、その鳴き声がそのまま名前として定着したものという。

 ところで、大昔は、この蝉のことを「つくつく法師」とはいわず、「くつくつ法師」といっていたらしい。
 千七十年ほど前に出来た、わが国最古の百科事典には、「和名 久豆久豆保宇之」とあって、「くつくつほうし」と呼ばれていたことが知られる。
 ちなみに、円融天皇の天元四年(981)四月二十六日に行なわれた「謎々合」という歌合せの謎題にも「はきもの並べたるものにいのりの師」というのがあって、その謎解きの歌が、
        履物を 二つ並べて 勤め来し
          くつくつ法師 いづちなるらむ
 というのがあるから、もとは「くつくつ法師」であって、「つくつく法師」ではなかったようである。

 「くつくつ」と「つくつく」との転換については、江戸時代の喜多村信節(きたむらのぶよ)の『嬉遊笑覧』が、次のような説明を加えている。
   「重ねていふ声は、くつくつも、つより言へば、つくつくとなる。
    つくつくほうしも、ほうしより聞きなす時には、ほうしつくつく
    となれり」
 私たちには、この蝉の鳴き声は「つくつくほうし」「ほうしつくつく」とは聞こえても、「くつくつほうし」とは聞こえない。
 どうして平安時代の人たちには、「くつくつ」と聞こえたのであろうか。
 しかも、夏の去り行くことを、「つくづく惜しい」と思う気持ちが、「つくつく法師」の鳴き声には籠っているとさえ思われるのに……。
 

      大門の見返り柳つくつくし     季 己

此の道

2008年09月03日 23時57分58秒 | Weblog
          所  思
        此の道や行く人なしに秋の暮     芭 蕉

 支考の『笈日記』によれば、元禄七年(1694)九月二十六日に、大坂の新清水の茶店で、京の門人の泥足(でいそく)を亭主とする、十吟の連句会があり、芭蕉が発句として
    人声や此の道かへる秋のくれ
    此の道や行く人なしに秋の暮
 の二句を示し、どちらかよい方をと言ったので、支考が、
 「この道や行くひとなしにと、独歩したる所、誰かその後にしたがひ候はん」
 と申し出て、「これに所思(しょし)といふ題をつけて、半歌仙(歌仙半分、すなわち十八句)」が作られたという。
 だが、この二句の制作は、二十六日の連句会の日ではなく、まず、
 「秋暮  この道を行く人なしに秋の暮」(意専・土芳宛書簡)
 の形を九月二十三日以前に作り、ついで、九月二十五日の曲翆宛書簡に、
 「此道を行く人なしに秋の暮」
 と書き、続けて
 「人声や此道かへる、とも句作り申し候」
 とあるから、二十五日までには二句ができていて、手紙の書きぶりから見ると、芭蕉自身すでに「此の道や」の方に傾いていたように見える。
 もっとも、連句興行の当日、支考のいうようなことがあったことも、あながち否定できない。

 季語は「秋の暮」で、秋の夕暮れである。
 「自分の歩いている一本の道がずっと続いている。道行く人はひとりもなく、あたりは静まりかえり、秋の夕闇が次第に迫ってきている」
 というような意味であろう。
 「所思」と題したのだから、多くの人々に取り囲まれながら、結局は孤独な自分の気持ちを、この句に托していると見るべきであろうが、連句の発句として披露されたのであるから、門人たちを批難する意味はないと思う。
 この句の下敷きに漢詩があるとする説が、江戸時代以来あるが、直接関係はないと考える。

 日本の首相が、二代つづけて、だしぬけのハラキリ。
 芭蕉の歩いた道を行く人はいなかったが、ハラキリの二代つづいた道は、行きたい人がたくさんいるらしい。
 禅譲を約束されたと噂される人、大物政治家といわれる人の尻ばかり追う、空気の読めない人など、世も末である。
 福田さんも、内閣改造などせず、いっそのことあの時点で、「ザケンジャネー、衆議院解散ダー、解散ダー、解散ダー」と、ケツをまくった方がどれだけ格好よかったことか。惜しまれてならない。次の言葉を贈り、「お疲れ様」と言いたい。

     第9章 さっさとリタイアする
  弓をいっぱいに引きしぼったら
  あとは放つばかりだ。
  盃(カップ)に酒をいっぱいついだら
  あとはこぼれるばかりだ。
  うんと鋭く研いだ刃物は
  長持ちしない――すぐ鈍くなる。
  金貨や宝石を倉にいっぱい詰めこんでも
  税金か詐欺か馬鹿息子で消えてなくなる。
  富や名誉で威張る人間は
  あとでかならず悪口を言われるのさ。
  何もかもぎりぎりまでやらないで
  自分のやるべきことが終わったら
  さっさとリタイアするのがいいんだ。
  それが天の道に沿うことなんだ。
            加島祥造『タオ 老子』(ちくま文庫)より


      神木の注連縄そこに秋の声     季 己

二百十日

2008年09月02日 21時55分10秒 | Weblog
 陰暦八月一日を、八朔(はっさく)と呼んで特別な吉日にしていた。
 八朔とは、八月朔日(ついたち)の略で、陽暦では九月初旬にあたる。
 もともと、毎月の一日は、吉日として祝うことになっていたが、八朔は、新穀の収穫を祝う特別の吉日だった。
 これも、もとをただせば、古代の中国から伝わった農村の行事であった。
 稲の実、すなわち米のことを、「田の実」と呼ぶことから語呂合わせで、物事を依頼する「頼み」にかけて、農村に限らず、八朔の日には、上下朋輩の間で互いに贈り物をして、相互扶助のよしみを確かなものとする風習に変わっていった。
 この行事は、「頼みの節句」とも言われ、ちょうどこのころ、夜なべの始まる時期でもあった。

 鎌倉時代の『弁の内侍の日記』に、次のような一節がある。
   八月朔(ついたち)、中宮の御方よりまゐりたりし御薫物(たきもの)、
   世の常ならず匂ひ美しう侍りしかば、
     今日はまた 空だきものの 名に代へて
       頼めば深き 匂ひとぞなる

 一方、立春から数えて二百十日目を、二百十日あるいは厄日と呼ぶ。陽暦の九月一日か二日ごろにあたる。このころは気象の変化により、台風や暴風雨がやってくることが多い。
 ちょうど稲の開花期でもあることから、農村では心構えをし、厄日とした。
 実際には、この日より十日後の二百二十日ごろのほうが台風の襲来が多いという。これらの日が暦のうえに記されるようになったのは、稲作の無事を願う農民の切なる思いのためもあったのだろうが……。
 ――五代将軍、綱吉の時のことである。
 幕府天文方(暦の編纂もしていた)の能吏、安井春海が沖釣りに出ようとしたところ、品川の老漁夫が、「今日は立春から二百十日目にあたります。嵐になるといけねえから」と制止した。
 はたしてその日は大暴風雨が襲ったので、わが国最初の「貞享暦」に、これを記載したのだという。

 八朔を特別な吉日とする一方、二百十日・二百二十日と共に、八朔を農家の厄日とする習わしもあるのだから、奇妙なものである。
 今年は、七・八月に台風が全くなく、八月末にゲリラ豪雨が各地にあった。こういう年は、九月に猛烈な台風が連続してくることが多いという。
 お互いに十分注意して、なるべく被害が少なくなるよう、心構えだけでもしっかり持ちたいものである。

 ちなみに、昭和九年(1934)九月二十一日の室戸台風は、ほとんど不意討ちに等しいほどの突然の来襲で、瞬間最大風速八十数メートル以上、平均風速四十五メートルといわれた。
 その災害たるや、死者行方不明3036名、負傷者15361名、全壊家屋40301戸、半壊家屋52328戸、流失5299戸、浸水396811戸、被災学校2436校という凄まじいものであった。


      だしぬけのハラキリ 二百十日かな     季 己

―現 象― 鈴木正二展

2008年09月01日 21時56分09秒 | Weblog
 「おもしろい」ものを観た。
 20点ほどの作品すべてのタイトルが「現象」という、風変りな個展を……。

 夏季休廊、常設展が終り、銀座・画廊宮坂が、芸術の秋に向かってスタートを切った。そのトップバッターが、「鈴木正二展 ―現 象―」である。
 「新潮国語辞典」で「現象」をひくと、
  ①あらわれたさま。ありさま。状態。
  ②<仏>姿をあらわすこと。また、あらわれた姿。
  ③<哲>五感を通じて知覚される形象。主観に映ずる相。
 とある。
 わかったようで、わからない説明、語釈である。
 けれども、作品を拝見して納得した。大小さまざまな作品すべてが、何が描かれているのか、わからないのだ。そうか、「現象」というのは、「わかるようで、わからない、はっきりしないもの」、つまり③と、勝手に了解した。

 ご本人の希望もあり、“先生”ではなく“さん”付で呼ばせていただく。(先生というのは、文字通り、先に生まれた者と思っているので)
 先にも述べたように、鈴木さんの作品は、何が描かれているかわからない。見る人により、さまざまなものに見えるに違いない。
 多分、大多数の人は「樹皮」を描いたと思うだろう。あとは順不同で、「岩を流れ落ちる水」、「滝壺を出たばかりの流れの水底」、「霧の中の人の群れ」「霧の中の野原」などなど。
 おそらく描いている鈴木さん自身、何を描いているのか認識していないと思う。
 鈴木さんの魂が、血肉が、描かしているのだ。命じられるままに、絵筆を動かしほとばしり出たものが、氏の作品なのである。だから、「おもしろい」のだ。

 画家はとりあえず、絵を描くのを本業とするわけだから、「うまい」絵を描くことに努めなければならない。
 ところが、世の中、「うまい」を飛び越して「おもしろい」ところに行こうとする人の何と多いことか。こうすると必ずと言っていいほど堕落する。
 「うまい」絵は、平凡でかつ地道な鍛錬、修行を必要とし、生涯かかって出来得ないかも知れぬほど難儀なことである。
 もし、それが出来れば、その次に「うまさ」を越した「すばらしい」絵が出来得る可能性を生む。
 「すばらしさ」の中の要素として、雅趣の「おもしろさ」や拙愚の「おもしろさ」があるかも知れないし、ないかも知れない。
 最初から「おもしろさ」を設定して、ああだ、こうだと、頭の中で考えてこしらえあげてみても、表出されるものは、その時々の軽い思いつきでしかない。
 変人は「造形」を好まない。「造形大学」を信じない。「造形」とは、頭で形体を造りあげたり、でっちあげたりするものと、思っているので。
 すばらしい発想というのは、必ず地に足が着いていて背景がある。根拠がある。根拠のあるものは、文化として認めることが出来るが、根無し草であればそれはもう、絵画という文化から逸脱してしまっている。

 もう忘れてしまったが、誰か画家の言葉だったと思うが、
    芸術にとって「うまい」ということは、実はどうでもいいことである。
   しかし、この「うまさ」のなんともすばらしいことだろう。
 というのだけは覚えている。
 画家が生涯かかって求めるものが、たんなる「うまさ」だけではないことはよくわかる。しかし、「おもしろさ」や「すばらしさ」は、「うまさ」の上にあると思う。
 「おもしろさ」だけが突然、宙に浮いてそこにあるのではない。「おもしろい」冗談でも言って、人を笑わせてやろうと急に思い立ってみても、うまくはいかない。身についていない奇矯な言葉だけを探してきて言ってみても、誰も笑ってくれないあの白けた空気を知るだけである。
 これを日常駆使するには、豊かな人生体験や自然との対話、などという経験を生かしきる頭脳がなければならない。そういう頭脳をこしらえあげるまでにはどれだけの努力が必要か、言を俟たない。

 幸い、鈴木さんは、紀州・和歌山のお生まれとのこと。紀の国はまた木の国なので、氏は紀の国の、木魂や木霊に描かされているのかも知れない。
 また氏は、これまで80以上の職を体験されたという。まだお若いのに。
 こうした豊かな人生体験と、自然豊かな紀の国育ちという背景があるのだ。
 だから「現象」というどの作品も、「おもしろい」のであろう。
 さらに、このまま精進を続けられ、「すばらしさ」の頂点を極められんことを!
 
        鈴木正二 展   ―現 象―
        9月1日(月)~9月6日(土)
        am11:00~pm6:00 最終日5:00まで
        「画廊 宮坂」 ℡03-3546-0343
  作品の画像は、「画廊 宮坂」のHPをご覧いただきたい。
  出来れば、お出かけの上、実物をご覧願いたい。


      水澄めり木霊は後の世の音か     季 己