別るゝや柿喰ひながら坂のうえ 惟 然
この句は、『続猿蓑』の前書きに、「元禄七年の夏、ばせう翁の別れを見送り」とあり、『惟然坊句集』には、「翁の坂の下にて別るとて」とある。
惟然は、晩年の芭蕉のそばからほとんど離れなかった。
元禄七年(1694)閏五月に、芭蕉は嵯峨の落柿舎に滞在し、惟然も俳席を共にしている。
六月中旬に、芭蕉が大津の無名庵に移ると、惟然は支考とともにそれに従った。
七月上旬、芭蕉は、京桃花坊の去来宅に移ったが、故郷の兄半左衛門の便りで、中旬には伊賀に帰っている。
この句はその頃のもので、惟然は、師とのしばしの別れを惜しんだ。
句意は、芭蕉と柿をかじりながら坂の上まで見送ったものか、あるいは坂の上に立って、師の後姿を見送っているうちに、手にした柿を無心にほおばったのか、どちらにもとれる。
「柿喰ひながら」という無造作ともみえる振舞いが、かえって師と弟子との親しみが自然にあふれ、また、初五の「別るゝや」で、惜別の情が強いひびきとなって心を打つ。
惟然は、あまり季にはこだわらなかった。さきの『続猿蓑』には、「元禄七年の夏」とあるが、「柿」を季語とする秋の句としたほうがよいと思う。
概して、世間に気兼ねしない思いのままの、俗気のないさっぱりとした表現が、惟然の句風の特色ともなっている。
湯上りの母べつたりと富有柿 季 己
この句は、『続猿蓑』の前書きに、「元禄七年の夏、ばせう翁の別れを見送り」とあり、『惟然坊句集』には、「翁の坂の下にて別るとて」とある。
惟然は、晩年の芭蕉のそばからほとんど離れなかった。
元禄七年(1694)閏五月に、芭蕉は嵯峨の落柿舎に滞在し、惟然も俳席を共にしている。
六月中旬に、芭蕉が大津の無名庵に移ると、惟然は支考とともにそれに従った。
七月上旬、芭蕉は、京桃花坊の去来宅に移ったが、故郷の兄半左衛門の便りで、中旬には伊賀に帰っている。
この句はその頃のもので、惟然は、師とのしばしの別れを惜しんだ。
句意は、芭蕉と柿をかじりながら坂の上まで見送ったものか、あるいは坂の上に立って、師の後姿を見送っているうちに、手にした柿を無心にほおばったのか、どちらにもとれる。
「柿喰ひながら」という無造作ともみえる振舞いが、かえって師と弟子との親しみが自然にあふれ、また、初五の「別るゝや」で、惜別の情が強いひびきとなって心を打つ。
惟然は、あまり季にはこだわらなかった。さきの『続猿蓑』には、「元禄七年の夏」とあるが、「柿」を季語とする秋の句としたほうがよいと思う。
概して、世間に気兼ねしない思いのままの、俗気のないさっぱりとした表現が、惟然の句風の特色ともなっている。
湯上りの母べつたりと富有柿 季 己