牧師室だより 2014年9月21日 証しをしよう
先日、ある求道者の方から、今日の伝道礼拝の案内を読まれたのでしょう、「証しってなんですか?」と聞かれた。「証し」は証明、証拠という意味で一般的に使われている。「身の証しを立てる」「友情の証しとして」などと使われる。必ずしも「証し」は教会用語ではない。しかし、教会で使われると通じない。異教の地日本での伝道の難しさを思い知らされる。
そこで、今日は証しについて考えてみた。証しにはいろいろな定義があるが、簡潔に言うならば「イエスが救い主であることを隣人に身をもって証言すること」と言えるだろう。言葉だけでなく、身をもってというところが大切。
ザビエルが、マカオに漂流して滞在していたヤジローという漁師に、「これからあなたの国に行って伝道するのだが、どういう点に気をつけたらよいか」と問うた時、ヤジローは率直に、即座に次のように言ったという。「私たちの国民は良い教えは耳からではなく、目から入ると存じております」。
だからといってあまり見える面だけを強調すると、表面だけ、外見のみを気にし、裏と表がつながらなくなったりする危険性があるから、程度問題なのだが、言行一致による証しが相手に通じることは昔も今も変わらないだろう。
神が今も生きて働いておられることを身をもって証言することが証しだから、言葉で証しする、行いで証しする、そこに居続ける存在をもって証しすることが考えられる。言葉や行いで証しできなくても、礼拝に出席し続けることは大切な証しである。
また、自分を通して主イエスを指し示す証しはあの将軍ナアマンの妻の召使いのようで良いのだと聞いたことがある。捕虜として連れられて来られた少女は、「ご主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」と女主人に神の人エリシャを紹介したのだ(列王紀下5章3節)。主イエスを紹介する証し人になろう。紹介するのが苦手な方は、教会へ誘いましょう。