平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

詩編を通読して

2014-09-15 10:55:44 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年9月14日 詩編を通読して

 水曜日午前の祈祷会で「詩編」1編から読み始めたのが2011年9月14日。今週の祈祷会で最後の150編となるので、まる3年かかったことになる。当初は、あまりに長いので途中で飽きるかもしれない。そのときは50編ぐらい読んだら、他の預言書などを読んで、また詩編に戻るのもいいかなと考えていた。ところが、毎週毎週1編づつ読み進めていくうちに、そのような考えはどこかいってしまった。詩編の魅力に引っ張られてきたというべきか。

 神学校時代、旧約の授業で、小林洋一先生から「皆さんが旧約聖書の中で一番好きな『愛読書』をレポートするように」と宿題が出された。私はためらわず「詩編」を選んだ。ところが、取りかかってみて、後悔した。なにしろ分量が多い。そして1編1編の詩の中には、それぞれに豊かで深いメッセージが込められている。精読し、釈義し、内容をまとめ、さらにそれへの応答の感想を書くとなると、とても1カ月の締め切りに間に合わない。でも、乗りかかった船、今回消化不良で終わっても、将来じっくり詩編と取り組む機会があるだろうと、そのための予備学習と位置づけ、最善を尽くした。その機会が今回だったのである。

 私のように「詩編」の愛読者は多い。それだけ魅力があるのだろう。詩編の言葉は、私のために書かれたかのように語りかけてくる。詩編によって私たちは、不安や試練の体験を語り始める。魂が傷つき、痛んでいることを単純に無視せず、悲しみを表明させてくれる。詩編は、こうして自分の魂と対話をすることができるようにしてくれる。義務や押しつけではなく、魂から生まれる賛美の言葉を与えてくれる。詩編ほど慰めと励ましと賛美の力を与えてくれるものはないだろう。

 詩編の最後150編の締めくくりは「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」である。150編では、神を賛美せよとのフレーズが10回にわたって繰り返される。賛美するとは、信仰者が当然行う信仰の応答や表明の行為。喜びと感謝をもって賛美しよう。

べてるの家

2014-09-15 10:51:28 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年9月7日 べてるの家

 北海道の浦河に、「べてるの家」と呼ばれる精神障がいをもつ当事者と地域の有志によって1984年に開設された共同生活と事業の拠点がある。最初は教会の古い会堂を借り受け住居として活用しはじめ、牧師夫人と5人のメンバーが日高昆布の袋詰めの下請けを始めた。

 今は社会福祉法人として、日高昆布の産地直送や出版事業などの就労支援とグループホームなどの住居の提供(15か所)と「福祉ショップべてる」など、様々な障がいをもった当事者の社会参加のための多種多様な事業を展開している。

 「べてる」は旧約聖書・創世記28章10-22節にある、ヤコブが天に達する階段の夢を見て神の祝福を受けた土地に命名した「ベテル(神の家)」に由来している。

 この「べてるの家」の取り組みは大変ユニークで、今、精神医療の世界で注目を集めている。例えば「三度の飯よりミーティング」といって、ことあるごとにメンバー同士で集まり病気や共同生活の事について会議をしている。特に「当事者研究」が盛んで、障がいをもつ当事者が自分の病気にオリジナルの病名をつけて毎日の経過をまとめ、報告するのが定例化している。例えば統合失調症の場合、幻聴(何者かの声で自分の悪口を言ったり行動を指摘するもの)が症状として現れるが、この幻聴の声の主を「幻聴さん」と呼び、尊重する事で、幻聴の内容が改善したなどの報告がなされている。

 また、「べてるの家」の理念の一つに「降りてゆく生き方」がある。この施設のリーダーである向谷地生良(北海道医療大学教授)さんが学生時代に読んだ神学者、思想家のP・ティリッヒが著した『ソーシャルワークの哲学』の「愛するとは、降りてゆく行為である」という趣旨の言葉に由来する。以来、向谷地さんは今日までソーシャルワーカーとして、「降りてゆく実践」をされている。「降りてゆく生き方」はまさにイエス・キリストを指し示す。興味のある方は『べてるな人びと』第1,2集(向谷地生良 一麦出版社)をお読みください。