平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

映画『標的の村」平塚自主上映会のご案内

2014-09-16 11:10:17 | その他
ドキュメント映画『標的の村』 平塚自主上映会のご案内
日時:2014年10月24日(金)13:30-15:10
場所:ひらつか市民活動センター(JAビル2階)
   平塚駅南口徒歩1分(大変便利でわかりやすい)
入場料:900円(先着80名)
    入場券は事前にお買い求めください。下記の主催団体または教会で販売しています。
    0463(33)2320(平塚バプテスト教会・杉野)
主催:平和憲法を守ろう!ひらつか9条の会
   ℡:0463-24-0702

沖縄での普天間基地のオスプレイ配備反対運動の記録。
今、オスプレイは沖縄だけではなく本土の三沢、厚木、福生、岩国などの米軍基地に配備されようとしている。遠い沖縄の話ではない。
なぜ沖縄が「標的の村」なのか?
この映画を観てわかります。沖縄が置かれている現実が。

詩編を通読して

2014-09-15 10:55:44 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年9月14日 詩編を通読して

 水曜日午前の祈祷会で「詩編」1編から読み始めたのが2011年9月14日。今週の祈祷会で最後の150編となるので、まる3年かかったことになる。当初は、あまりに長いので途中で飽きるかもしれない。そのときは50編ぐらい読んだら、他の預言書などを読んで、また詩編に戻るのもいいかなと考えていた。ところが、毎週毎週1編づつ読み進めていくうちに、そのような考えはどこかいってしまった。詩編の魅力に引っ張られてきたというべきか。

 神学校時代、旧約の授業で、小林洋一先生から「皆さんが旧約聖書の中で一番好きな『愛読書』をレポートするように」と宿題が出された。私はためらわず「詩編」を選んだ。ところが、取りかかってみて、後悔した。なにしろ分量が多い。そして1編1編の詩の中には、それぞれに豊かで深いメッセージが込められている。精読し、釈義し、内容をまとめ、さらにそれへの応答の感想を書くとなると、とても1カ月の締め切りに間に合わない。でも、乗りかかった船、今回消化不良で終わっても、将来じっくり詩編と取り組む機会があるだろうと、そのための予備学習と位置づけ、最善を尽くした。その機会が今回だったのである。

 私のように「詩編」の愛読者は多い。それだけ魅力があるのだろう。詩編の言葉は、私のために書かれたかのように語りかけてくる。詩編によって私たちは、不安や試練の体験を語り始める。魂が傷つき、痛んでいることを単純に無視せず、悲しみを表明させてくれる。詩編は、こうして自分の魂と対話をすることができるようにしてくれる。義務や押しつけではなく、魂から生まれる賛美の言葉を与えてくれる。詩編ほど慰めと励ましと賛美の力を与えてくれるものはないだろう。

 詩編の最後150編の締めくくりは「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」である。150編では、神を賛美せよとのフレーズが10回にわたって繰り返される。賛美するとは、信仰者が当然行う信仰の応答や表明の行為。喜びと感謝をもって賛美しよう。

べてるの家

2014-09-15 10:51:28 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年9月7日 べてるの家

 北海道の浦河に、「べてるの家」と呼ばれる精神障がいをもつ当事者と地域の有志によって1984年に開設された共同生活と事業の拠点がある。最初は教会の古い会堂を借り受け住居として活用しはじめ、牧師夫人と5人のメンバーが日高昆布の袋詰めの下請けを始めた。

 今は社会福祉法人として、日高昆布の産地直送や出版事業などの就労支援とグループホームなどの住居の提供(15か所)と「福祉ショップべてる」など、様々な障がいをもった当事者の社会参加のための多種多様な事業を展開している。

 「べてる」は旧約聖書・創世記28章10-22節にある、ヤコブが天に達する階段の夢を見て神の祝福を受けた土地に命名した「ベテル(神の家)」に由来している。

 この「べてるの家」の取り組みは大変ユニークで、今、精神医療の世界で注目を集めている。例えば「三度の飯よりミーティング」といって、ことあるごとにメンバー同士で集まり病気や共同生活の事について会議をしている。特に「当事者研究」が盛んで、障がいをもつ当事者が自分の病気にオリジナルの病名をつけて毎日の経過をまとめ、報告するのが定例化している。例えば統合失調症の場合、幻聴(何者かの声で自分の悪口を言ったり行動を指摘するもの)が症状として現れるが、この幻聴の声の主を「幻聴さん」と呼び、尊重する事で、幻聴の内容が改善したなどの報告がなされている。

 また、「べてるの家」の理念の一つに「降りてゆく生き方」がある。この施設のリーダーである向谷地生良(北海道医療大学教授)さんが学生時代に読んだ神学者、思想家のP・ティリッヒが著した『ソーシャルワークの哲学』の「愛するとは、降りてゆく行為である」という趣旨の言葉に由来する。以来、向谷地さんは今日までソーシャルワーカーとして、「降りてゆく実践」をされている。「降りてゆく生き方」はまさにイエス・キリストを指し示す。興味のある方は『べてるな人びと』第1,2集(向谷地生良 一麦出版社)をお読みください。

いってきます

2014-09-02 07:36:36 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年8月31日 いってきます

 私の母は、現在、体は健康だが認知症が進んで、私の顔を見ても息子だとは認知できてないようだ。しかし、その母に顔を見せるために、毎年夏に帰省している。せめてもの親孝行と考えているが、会話が思うように成り立たないのは少し寂しい。

 母は大変な心配性で、子どもの頃、日が暮れるのも忘れて遊びほうけて帰ると、「心配するじゃないの」と言って、必ず叱られた。たそがれ時の薄暗い家の前で心配して帰りを待っている母親の姿を見て、飛んで帰ってきたことも度々あった。正直、そんなに心配されると、はた迷惑な気さえした。
 
 中学生にもなると、「いってきます」も「ただいま」も言わないで、黙って家を出入りしていた。すると、ある日、こっぴどくお説教された。

 「どこそこに行く」と言わなくてもいいから、「行ってきます」とはっきり言って出かけなさい。なぜなら、「いってきます」とは「行って」、そして必ず「来ます」すなわち「帰ってくる」という約束をすることだ。だから送り手も「いってらっしゃい」、すなわち「行って来っしゃい(無事に帰ってきなさい)」と願って送り出しているのだ、と言うのである。さらに、帰ってきたら、「ただいま帰りました」と報告するのは当たり前だ、ときた。

 私は、その時、叱られているというより、妙に母親の言うことに感心して、「なるほど」と納得して、それからはきちんと挨拶するようになった。挨拶することで、相手の気持ちを思いやる、また自分の行動に責任を持つことの意味を教えられたのである。

 大きくなって東京で一人暮らしを始めた時、声をかける相手もいないのに、出かける時「いってきます」とつぶやき、帰ってきた時「ただいま」と言っている自分がいた。自分で自分の行動に責任を持つ、それが遠く離れた故郷から仕送りをし、心配しているだろう親へのせめてもの応答であったような気がする。現在、毎年帰省するのもその延長線のことかもしれない。