(先週の説教要旨) 2014年2月2日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「礼拝から始まる生活」 ローマの信徒への手紙12章1節
私たちは日曜日を「主の日」と呼ぶ。もともと聖書では、「主の日」は歴史の終末の日のことだが、主イエスが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教を始められた時から、すでに神の国が始まり、主イエスの復活において終末の日に起こるべきことが先取りされた。だから、「主の復活の日」(日曜日)はまさしく「終末の日」を覚える日でもある。日曜日に礼拝することによって、私たちは、この日に復活された主を記念し、またこの主が終末時に再び来られるという約束を待ち望む。
ところで、「礼拝」という言葉、「拝む」という字が入っている。神を拝むのである。だから、自己崇拝者や拝金主義者は礼拝に来ません。そして、私たちは「礼拝」と言う時、その後に、「捧げる」とか「守る」とかよく言う。それは、御言葉により恵みを受けて、祈りと賛美と献金とを「捧げる」からである。そして、「守る」というのは、神第一とする生き方から引き離そうとする悪しき力の中で礼拝を「守る」から。「礼拝を守るあなたが守られる」というわけである。礼拝から離れるとあなたは守られないということになる。礼拝が私を守る、のである。
さて、礼拝に欠かせないことは、神に栄光を帰すること。つまり神に最高の価値をお返しすること。そして神への献身を新たにすること。さらに目に見えない世界(天)に根差し、見える世界(地)に派遣されること。「霊と真理をもって父を礼拝する」(ヨハネ福音書4:23)。そのことによって、礼拝で生ける神の存在を実感し、主と出会う。
私たちの生活は主の日の礼拝から始まるということが大切である。私たちの生活全体はその出発点において、神からの祝福された生活である。どんなに困った、つらい生活であっても、神は私たちと一緒に、このつらさを味わって下さる。それによって、私たちがこれ以上、困難の中にとどまるところがないように、である。また、生活の中で喜んでいたら、神も一緒に喜んで下さる。私たちがこの世の喜び以上のものを知るようにと、神はそうして下さる。
だから、私たちの生活は、「キリストを証しつつ、隣人と祝福を分かち労苦を共にする」という点に、根本的な意味がある。パウロは、「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者……と全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる」(第1コリント5:9-10)と言っている。ここにキリスト者の社会との関係が示されている。私たちは社会の中で、キリストを証しつつ、社会の問題と取り組み、奉仕するようにと、押し出されている。私たちの生活は、礼拝において、神によって進むべく、祝福されて、この世へと遣わされていく。
1月に「遣わされて生きる」と題して3回説教した。誰に遣わされるのか。どこから遣わされるのか。私たちは神によって遣わされる。教会から遣わされる。どこへ、誰のところへ?それは私たちの生活のただ中へ。現実の社会のただ中へ、である。特に、エゼキエル書34:16で神が言われた、「わたしは失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする」と言われたように、失われた者、追われた者、傷ついた者、弱った者のところへ、である。そこで私たちは共に生きるのである。それが福音宣教の働きである。それは礼拝から始まるドラマ。