平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

橋渡しの主イエス

2014-02-20 10:07:26 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年2月16日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「橋渡しの主イエス」  マタイによる福音書 22章34-40節

 現代人の抱えている最大の問題は、自分の生きる根拠を見出せないことではないのか、ということがよく言われる。根無し草。どこに立って生きているのか、生きていけばよいのか。存在することの不安。

 今日の聖書の箇所で、主イエスは、神との関係、人との関係、この二つこそ、最重要な戒めであると断言している。神との関係が、いわば縦の関係とするならば、人間との関係は、横の関係にあると言えるだろう。人間は、二つの座標軸に位置づけられ、縦横に織りなされている。そのどちらかとの関係を失った時、人は宇宙の中に存在位置を失って、不安と焦燥にかられる。現代人の抱えている問題は、突き詰めれば、まさしくこの問題なのではないだろうか。

 アダムとエバは、この二つを失った。神の言葉に背いた時、「神の言葉によって創造された」という縦的な存在の根拠を失い、共同で罪を犯したことにより、二人は憎みあう仲になり、人間同士の横的関係を失った。それ以来人間は、存在の根拠を失ったまま、浮き草のような生き方をしてきた。

 それで、その失った二つの関係を取り戻すために、主イエスが遣わされた。その主イエスが、神を愛し、人を愛すること、この二つこそ、最重要なものであると教えられたのは、当然と言えば当然なことだった。また主イエス自らがそれを実践されたのが十字架への道であった。
 
 この「愛」を考える時、それは主イエスから始まり、主イエスに終わるもの、主イエスにのみその根拠を置くものではないだろうかと思う。「心全体、魂全体、思い全体」で神を愛すること。「あなた自身を愛する」ように隣人を愛すること。果たして、私たちはそんな愛し方ができるのだろうか。私は自身を振り返っていくと、まるで一枚一枚皮が剥がれるかのごとく、私自身の本性が明らかにされていくような気がする。そして、そこで明らかにされた「私の本性」とは、「自分の存在いっぱいで、神を愛しきれていない自分」だし、「自分自身を愛することでいっぱいで、ましてや、隣人までなんてとてもとても」なのである。

 このように私たちが「愛する」ということにおいて、この二つの教えの前に立つとき、私たちの本性、エゴ、自己中心の姿があらわにされるのである。「神を存在いっぱいで愛し、隣人を自分として愛する」の前に、実は、立つことすらできないのが私たちなのである。 

 しかし、そこに主イエスの言葉、「私は成就するために来た」との言葉が響き渡る。「十字架の光」が、差し込む。主イエスは全存在をかけて、「神を愛すること、隣人を愛すること」を私たちにもたらして下さった。この事実を抜きにして、私たちには「愛すること」は行い得ない。

 40節に「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とある。「基づいている」、この言葉は新約では7回使われており、そのうち4回は「(十字架に)かける」で使われている。口語訳聖書では「かかっている」。本来の意味である十字架刑に関わる動詞がここに登場することを見逃したくはない。それは、律法全体と預言者が神を愛し隣人を愛することによって立つ、その根拠を主イエスに見出すからである。この愛が旧約の根底にあり、しっかり支える。もしこの愛がなくなってしまったら、旧約は立つ場を失って崩れ落ちてしまう。「私が来たのは律法や預言者を完成するため」(マタイ5:17)、こう宣言された主イエス自らが「十字架にかかり」、その宣言を愛を持って実現して下さった。私たちが「愛せよ」との命題に取り組む根拠もイエスの十字架に「基づいている」のである。
 
 私たちはただ、主イエスが示された「愛」への応答として、「愛の業」に励むのみである。私たちはどれだけ出来るとか、どこまでできるとか言う以前に、自分にある力をどう用いていたのだろうかと問いたい。そして、主イエスがその全存在をかけて私たちに愛を示されたことに、まず自分なりに精一杯の応答をしたい。そう、まず私なりに「力いっぱい主を愛そう」から始めたい。