平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

信仰告白の意義

2013-11-12 12:17:53 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年11月10日 信仰告白の意義

 私たちは、今年の3月17日の計画総会の時に、成文化した「平塚バプテスト教会信仰告白」を承認した。承認したらそれでおしまい、神棚にでも飾っておけばよいのでは困るので、4月から第一主日礼拝で、信仰告白の1項目ごとを取り上げ、ともに信仰告白の確認と各人の信仰の深化のための時を持っている。また、なくさないためといつでも読みやすいように、教会規則・細則と合わせて製本し、配布した。今、それは皆さんの家のどこにおいてあるでしょうか。

 この「信仰告白」にはどのような意義があるのでしょうか。私たちはバプテスマを受けるとき、自分の信仰が問われます。同じように、牧師を招聘したり、按手を授けるとき、自分たちの教会の信仰も問われます。そのように、常に自分たちの信仰を吟味し、確認していく必要があります。

 また、バプテスト教会は各個教会主義であり、自主独立の教会であって、他教会からの干渉を拒み、また他教会に干渉することを慎みます。もちろん他教会の連携と協力は惜しみません。そのような教会であるからこそ、独自の「信仰告白」が大事なのです。

 教会に集まって来る人たちは実に多種多様で豊かです。多種多様な豊かさがバラバラでは困ります。「バラバラでいっしょ」の教会でありたい。そこで、一致の基準が必要となります。「教会規則・細則」もその一つですが、「信仰告白」こそが教会の一致の基準です。

 私たちが伝道するときにも必要です。自分の信仰を家族や知人・友人に説明(証し、伝道)するためには、簡潔な信仰内容を含んだ「信仰告白」は大変有効です。あいまいな説明では混乱と不信を招きます。うまく説明できないときは、「信仰告白」の冊子を読んでもらうのもよいでしょう。

 「信仰告白」は賛美の言葉であり、決断の言葉であり、また悔い改めの言葉です。その意味からも、信仰の唯一の基準である聖書の真剣な解釈でもあります。

 「信仰告白」の理解を深め、教会の一致と信仰の深化を目指し、福音宣教に励みましょう。

同じいのちを生きる

2013-11-12 12:11:38 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年11月3日 召天者記念礼拝宣教 杉野省治牧師

 「同じいのちを生きる」 ヨハネによる福音書11章25節、ヨハネ黙示録7章9-12

 召天者記念礼拝は、先に召された人々をしのびつつ、残された者たちを慰めるものではあるが、それだけではない。召された者を記念することは、キリストにあって意味付けられ、「主にあって共に生き、共に主を証しする」ことが明らかにされるのである。

 今朝の聖書個所、黙示録7章9節以下は、天においても主の前で礼拝している様子が描かれている。信仰によって義人とされた者は、白い衣を着て、天の国に入ったしるしとしてナツメヤシの枝を手に持ち、神と小羊の前で賛美の声を上げている。かつて主イエスを十字架の死へと追いやった群衆が今や、いけにえの小羊であるキリストによって救われて、義人となり、小羊なる方を礼拝している。

 礼拝を守らないキリスト教会はない。礼拝こそが最高の信仰の献げ物である。天国においては、この礼拝が最も完成された形で守られている。肉において生きている間は、祈りに雑念が入り、御言葉を聞くにあたって居眠りも珍しくない。けれども、天上の礼拝は、「昼も夜も」神に仕えるのであり、小羊なるお方が牧者となってくださる(7:15以下)。天国へ迎え入れられた時、信仰者は、その礼拝に参加することが約束されている。

 天において捧げられている礼拝は、同じ信仰に生きる者によって捧げられているこの地上での礼拝の連続なのである。今、「同じ信仰に生きる」と言った。それは私たちには永遠の命が約束され、この地においても、天においても同じいのちを生きるということにほかならない。

 今朝与えられたもう一つの御言葉、ヨハネ福音書11章25節「私は復活であり、命である」という主イエスの御言葉が語られたのは、主イエスが愛された家族、マルタとマリアの兄弟ラザロが亡くなり、主イエスがその家にお出でになった時のこと。「あなたの兄弟は復活する」と主イエスが言われたのに対して、マルタは当時の人々の言うままに、あまり考えもしないで、「終わりの日に復活することは、存じています」と答えたのだった。その答えに対して、主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われたのである。これは強烈な言葉である。死んだ者も生きている者も皆同じ命を生きているということである。その命とはキリストの命。これは霊魂不滅とか、不死の賜物といったことではない。

 キリストの命を生きるとは、キリストと取り換えっこした命を生きているということにほかならない。しかも生きていて、今その命を生きており、死んでもその命を生きる、それが信仰者の復活の意味であることを強い響きのうちに私たちは聞く。永遠の命とはそのことである。私の命のことではない。キリストによって生かされている命である。

 キリストによって生かされる命に生きるとはどういうことは、御言葉に生きるということである。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)とある。また、詩編119編105節には、「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」とある。ある牧師曰く、「御言葉が照らすのは、今踏み出す足元だけでよい。一歩一歩を御言葉の光の中に踏み出す。そして生涯を振り返る時、その曲がり角であったところに、まるで自分が歩んだ旅路の里程標のように御言葉が輝いていることを感謝をもって思い起こすだろう」。

 聖書を開くと、ここでもあそこでも立ち止まって、この御言葉によって足元を照らしていただいた思い出が浮かび上がってくるだろう。そうであればこそ、これからも、同じように足元を照らす御言葉が与えられることは確かである。それは同じいのちを生きるということである。

悪人とは?

2013-11-06 17:35:07 | その他

牧師室だより 2013年11月3日 悪人とは?

 朝日新聞に連載されている「私の悪人論」が面白い。皆さんはどんな人が悪人だと考えますか。

 元大阪地検特捜部検事の田中森一氏は「本当の悪人とは、法に反すると同時に、自分の良心に反する、つまり自分自身を偽るような行動を取る人間のことだと考えています。逆に、法に反していたとしても、自分にウソをついていなければ悪人とは思いません」と語る。彼はまた次のように告白する。「検事や弁護士の仕事をする中で、法と自分が考える正義が衝突することがよくありました。法に従うか自分の信念に従うか。究極の選択をする時、判断基準にしたのが若いころから私のバックボーンだった『論語』でした。」

 元郵政・金融担当相の亀井静香氏は「今の時代、欲望だらけで、金よ、金よの利益追求が極大に達している。……政治家もその渦に巻き込まれている。そこで起きるのは事なかれ主義だ。世の中をどうにかしようという強烈な意志を持つやつなんかいなくなった。大勢に順応し、自分の利益を守ろうとする。政界もそんなのばかりだ。」と今の世相と政界をばっさりと批判。さらに「俺は違う。人間が決めた掟にかまわない行動をする。だから悪人といわれる。……でも俺は良心に恥じることはしたことがない」と言い切る。田中氏と同様、「良心」に従う生き方を貫く。ゆえに悪人呼ばわりされる。主イエスも悪人扱いされた。神のみ旨に従ったがゆえに。

 女子プロレスの「悪役」を演じるアジャ・コングさんは「私は悪役を演じてはいません」と言う。なぜなら、「バラエティー番組で屈託なく笑っているのも、不敵な笑みを浮かべて対戦相手を殴っているのも、私自身です。試合を見てお客さんが喜ぶのは、包み隠さず、悪の部分をさらけ出しているからでしょう。日常の人間は、心の闇を表には出せません」と語る。自分の心の闇ときちんと向き合って生きる強さを感じた。

 私たちは自分の心の闇(罪)ときちんと向き合っているか。聖書が生き方のバックボーンになっているか。