(先週の説教要旨) 2013年11月24日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「十字架の恵みを知れ」 レビ記16章3-5節、20-22節
主はモーセに告げて、祭司アロンが聖所に入る時にしなければならないことを次のように示された。すなわち、雄の子牛を贖罪の献げ物ために取り、雄羊を焼き尽くす献げ物のために取り、そして、聖なる亜麻布の長い服を着、亜麻布のズボンをその身にまとい、亜麻布の飾り帯をしめ、亜麻布のターバンをかぶらなければならない。これらは聖なる衣服である。彼は水に身をすすいで、これを着なければならない。
旧約の時代において聖所に入るにはなんと厄介なことであろう。新約の時代に生きる私たちには異様にさえ思われるほどである。しかし、新約の時代とはいえ、神の御前に出るのに聖なる装いが必要でなくなったわけではない。神の要求が昔のように厳しくなくなったわけではない。
しかし、ゼカリヤ書の3章1節~5節に次のような御言葉がある。「主は、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしているサタンをわたしに示された。主の御使いはサタンに言った。『サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。』ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。『彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。』また、御使いはヨシュアに言った。『わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。』また、御使いは言った。『この人の頭に清いかぶり物をかぶせなさい。』彼らはヨシュアの頭に清いかぶり物をかぶせ、晴れ着を着せた。主の御使いは立ち続けていた。」
大祭司ヨシュアの衣が汚れていたように、私の衣も汚れている。私は自分を見つめるとき、その罪とけがれのゆえに、神の御前に立つを得ない自分を悲しむよりほかない。しかし、そんな私のために清き祭服を用意し、清い帽子をかぶせてくださる方がおられるゆえに、私は今日御前に立つことを許されている。私の誇りは、ただこの贖い主のあることを知り立ち上がることができたことである。
ヘブライ人への手紙に「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(4:16)と勧めているが、私たちはこの恩寵のために、主イエス・キリストの尊い贖いのあったことを忘れてはならない。旧約のあの煩雑な規定を読むたびに、「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(エフェソ2:15)と言われた主を仰ぐことを忘れてはならない。この方のゆえに私たちは今あるを得ているのである。
イスラエルの民は、毎年第7月の10日を贖罪の日として守っていた(レビ記23:27)。この日は大祭司と祭司たちのため、また全国民の罪のために犠牲を捧げることになっていた。アロンは最初の大祭司だったが、彼はまた金の子牛を造るほどの罪の人であり(出エジプト32:4)、まず彼自身罪の贖いのために犠牲を捧げねばならなかった(32:6)。ついで彼は全国民のために雄山羊二頭を用意し、一頭は贖いの献げ物とし、もう一頭には民のすべての罪を負わせて荒れ野の魔神アザゼルもとに追いやることになっていた。レビ記16章はこの箇所も含めて、罪が贖われるとはいかに凄まじい出来事であるかを教えている。私たちにとって、キリストは贖いの献げ物であり、アザゼルの雄羊である(ヘブライ10:10以下)。「キリストの十字架の死によって私の罪は赦された」と告白する時には、これほどまでに凄まじい犠牲がすべての人のために捧げられていることを銘記すべきである。