平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

主イエスのいのちを生きる

2013-11-14 11:19:22 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年11月10日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

「主イエスのいのちを生きる」 コリントの信徒への手紙Ⅱ5章16-21節

 救いとは何か?という問いよりも、救いを自分との関係で考えるような問いをしてみたい。そうするとその問いは、次のようになるのではないか。「神さまを信頼しない私たちがどのようにして救われるのだろうか」。その答えとしては、「神さまが、私たちに与えてくださった、御子イエス・キリストによって救われる」ということになる。ヨハネによる福音書3章16-17節を思い起こす。
 
 さらに、問うてみよう。先ほど「御子イエス・キリストによって救われる」と答えたが、「惨めな私たちが、救われるとはどのようなことだろうか」。さらに「私たちに与えてくださった、御子イエス・キリスト」と答えたが、「イエス・キリストを私たち与えてくださったとはどういうことだろうか」。
 
 私たちがどれほど神さまから遠く離れていても、あるいはアダムとエバのように、木の間にうまく身を隠していても、神さまは、ご自分の方から私たちに近づいて、私たちを見つけ出し、救ってくださる。だから、私たち救われた者は、神さまから見出された者、引き上げられた者、さらに言うならば選ばれた者ということができるだろう。あのモーセが赤ん坊の時、エジプトの王女から助け出された時、王女は彼をモーセと名付けた。なぜなら「水の中から私が引き上げた(マーシャー)のですから」(出エジプト2:10)とあるが、そのことである。
 
 神さまのこのような徹底した愛は、神さまが一番大切にしていた御子イエス・キリストを、私たちの世界にプレゼントとしてくださったことに最もよく表れている。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)という御言葉にあるとおりである。
 
 神さまから遠く離れ、惨めな状態にある私たちが救われるのは、御子イエス・キリストが、私たちの罪に満ちた世界に来られたからである。そして、私たちは、イエスさまの誕生とご生涯、死と復活によって、神さまが私たちを本当に愛しておられることを知ることになり、神さまが惨めな状態から救い出し、神さまから遠く離れてしまった罪を赦してくださることを信じることができるようになった。神さまから罪を赦していただいた私たちは、神さまが与えてくださった和解のうちに生きることができる。
 
 神さまの愛を信じて救われるとは、私たちがもはや罪の奴隷にならず、死の恐れに支配されることなく、神さまの恵みの下で神さまの時を生きるということである。それは、神さまのまなざしの中に生きると言い換えることもできる。神さまのまなざしと恵みのうちに生きる人間は、喜びと感謝の生活を送る。神さまの時を生きる人間は、いつも信仰と希望に満ちている。
 
 しかし、惨めな人間が救いへと導かれた時、罪赦された感謝と神の憐れみに応える私たちの側の応答と責任が生まれる。私たちが救いへと選ばれ、再びイエスさまとしっかり手を握り合うことができたなら、私たちは新しく生まれ変わったも同然。なぜなら、神さまから離れ、背いていた私たちの罪が赦され、神さまと結ばれて、私たちは義とされ、イエスさまのいのちをいただくからである。さあ、ここでもう一度、今朝与えられた御言葉を読んでみよう。第2コリント5章16‐21節。