平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

人生の断絶を埋める十字架

2013-11-20 07:58:34 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年11月17日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「人生の断絶を埋める十字架」 ヨブ記1章13-22節
 
 ヨブ記の1章13節以下は、ヨブのもとに悲報が届くという内容。悲報は突然であり、しかもその日一日のうちに、4回立て続けに届いたというのである。この内容を通してヨブ記のテーマが鮮やかに示される。正しい人がなぜ苦しまなければならないのか、という疑問。ヨブは神を畏れる「無垢な人」であった。しかし、ヨブは財産、使用人、愛する子どもたちを失う。聖書は、「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」(1:22)と伝える。ヨブは試練の中で神を信じようとしている。
 
 そのヨブの信仰を言い表した、「主は与え、主は奪う」という一行と「主の御名はほめたたえられよ」という一行、この二行の行間に「無限の断絶」があると言われた旧約聖書の神学者がおられる。「ヨブに託して語ったヨブ記詩人の呻き、言葉にならない無限の断絶に気づかされた」と書かれている。
 
 ヨブ記はこの後、3章から詩の部分になり、そこでヨブの嘆き、呻き、神への問いかけなどが記されている。友人たちのたしなめの声や忠告も彼の耳には入らない。そして38章になって全能の神が創造の主であることに直面する。そして神が神であるという厳粛な事実に打たれて、神に対して「あなたは全能の神」(42:2)、つまり、「すべてをなし得る方」と告白する。ヨブが告白する神は契約の神であり、私たちを選び、知ってくださり、そして憐れんでくださる神である。
 
 ヨブが直面し告白した創造の神は、新約聖書では、救済の神であることをイエス・キリストを通して伝える。「主は奪う」という経験を言えば、誰よりも父なる神から奪われたのは、主イエスご自身である。主イエスは十字架においてすべてを失った。この世の人はもちろん、弟子たちも皆主を捨て、さらに主イエスは「神から捨てられた」(マタイ27:46)。それは喪失の極みに身を置いたということである。しかし主イエスはその最中も父なる神への純粋な信頼と服従を貫かれた。
 
 私たちの人生にあの行間の断絶があるとしても、つまり「大切なものが奪われ失われる経験」と「主の御名はほめたたえられよという信仰」を生きることとの間に越え難い断絶があるとしても、主イエスの十字架による身代わり、主による贖罪によって埋められていない断絶はない。人生の現実が神への信仰をどんなに生きにくくしようとも、どんなに越え難い断絶があっても、すべての溝は主イエスの十字架と復活の間に収まる。主イエスによって支えられて越えられない溝はない。
 
 主イエスが「主の祈り」を教えられたとき、真っ先に「主の御名が崇められるように」と祈ることを教えられた。どんな時にも無条件で「主の御名が崇められるように」と祈る、それはヨブの純粋な信仰の表現と同じである。主イエス・キリストがいて下さり、主の十字架による救いがあるから、「主の御名が崇められるように」と祈ることができる。
 
 「主は与え、主は奪う」、その私たちの人生の経験の中に、十字架の主イエスご自身がいてくださる。そして「主の御名は崇められよ」と言い表わす純粋な信仰へと導き、支えてくださる。私たちの信仰生活、この世の現実を生きる信仰生活のどんな行間の裂け目も主イエスが共にいて下さり、その溝を埋めてくださる。それ故に、主の御名はほむべきかな。