平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

苦難を越えて

2011-08-16 16:10:42 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年8月14日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「苦難を越えて」 使徒言行録27章13-26節      
 
 ローマへと向かう船旅の途中、パウロたちは「嵐」という困難、死と直面した。このような嵐は、何を意味するのだろうか。それは自然現象であると言えば、それまでのことであろう。こう考えると、自然そのものには、何も意味はないように見える。しかし、そこに信仰の人がいる時、それは意味を持ってくる。普通の人は、自然災害や苦難から、ただ恐れや無力感、絶望を引き出すのみである。ところが今、信仰の人パウロは、この災害から、神の摂理を導き出したのである。
 
 パウロは嵐の中、「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」(27:24)という神の声を聞く。それは、いかなる困難のなかでも実現する神の必然にほかならない。今、海に熟練した船乗りたちが、どうしようもなく、判断を誤ってしまった時、神に従う人パウロは、静かな示しを神から受けたのである。
 
 この神の御声は、だれにでも聞こえるといったものではない。それは、第一に、無欲な者に聞こえる。周りの利害や、自分の欲に捕らわれている人には聞こえない。船主は、船を少しでも早くつけたいという欲が働くから、冷静に事態を判断できない。次に、この上からの声は、使命に生きる人に聞こえる。パウロは、ローマを見るとの、ローマ伝道の使命感に燃えていたから、神の声を聞いたのである。第三に、常に望みを持つ人に、この御声は聞こえてくる。絶望する人は、悪魔のとりこになって、物の本当の姿が見えない。希望を持つパウロには、他の人々の見えない先が見えてくる。第四に、この声は、静かに信頼している人に聞こえる。あわてる人には見えないし、聞こえない。「あなたは立ち返って静かにするならば、救いを得、穏やかにして、より頼むなら力を得る」(イザヤ30:15)とあるとおりである。

 以上、見てきたように信仰の人パウロは嵐という死に直面する災難の中、神の御声を聞く。その御声は神の「必ず」という必然である。それはいかなる困難のなかでも実現する神の必然である。そのようにして神の摂理、神のご計画は実現に向かって進むということである。
 
 さて、私たち、今回の東日本大震災を前にして、何を語ることが出来るだろうか。いや、この大災害の中にどのような神の声を聞くことが出来るだろうか。それは、大震災だけに限らない。個人的な災難、困難。病気、事故、身近な者の死、リストラ、裏切り、借金、人間関係の不和などなど、そのような時にあって、神の声を聞く人は幸いである。パウロの言動から見てきたように、今この時、静まって上記の4点について我が身を振り返ってみよう。そのようにして、私たちも困難の中に「生きる意味」を神から示されていくであろう。
 
 誤解しないでおこう。神の「必ず」という必然の声は神の摂理であり、神のご計画である。私たちの「必ず」という必然ではない。私たちの思いや願いを越えた神の「必ず」であり、必然である。それを聞くことのできる人は幸いである。自然災害や困難に出会い、恐れと無力感と絶望の中にある時も、迷うことなく神の示された道を行くことが出来る。元気と勇気とやる気をもって前へ一歩歩み出していける。この信仰が与えられている恵みに感謝して歩み出そう。