牧師室だより 2012年4月22日 平塚バプテスト教会信仰告白(試案) 9 主の日②
私たちは、イエス・キリストが復活された週の初めの日を主の日として覚え、礼拝をささげる。主の日の礼拝は、霊とまこととをもって神を讃美し、祈り、み言葉に聴き、罪を悔い改め、感謝の献げ物をし、神の恵みを共に喜ぶ。私たちの生活は、この主の日の礼拝から始まり、キリストを証しつつ、隣人と祝福を分かち労苦を共にする。
私たちの生活は主の日の礼拝から始まるということが大切です。私たちの生活全体はその出発点において、神様からの祝福された生活であります。
どんなに困った、つらい生活であっても、神様は私たちと一緒に、このつらさを味わって下さいます。それによって、私たちがこれ以上、困難の中にとどまるところがないようにです。
また、生活の中で喜んでいたら、神様も一緒に喜んで下さいます。私たちがこの世の喜び以上のものを知るようにと、神様はそうして下さいます。
そうですから、私たちの生活は、「キリストを証しつつ、隣人と祝福を分かち労苦を共にする」という点に、根本的な意味があります。
パウロは、「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者……と全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる」(第1コリント5:9-10)と言っています。
ここにキリスト者の社会との関係が示されています。私たちは社会の中で、キリストを証しつつ、社会の問題と取り組み、奉仕するようにと、押し出されています。私たちの生活は、礼拝において、神様によって進むべく、祝福されて、この世へと遣わされていくのです。
<余録>礼拝に参加するには心の備えが必要です。「お前は自分の神と出会う備えをせよ」(アモス書4:12)、「何も持たずにわたしの前に出てはならない」(出エジプト記23:15)とあります。また、礼拝後も大切です。この世での礼拝への派遣なのですから。礼拝前は私が神に、礼拝中は神が私に、礼拝後は私が隣人に語りかけるのです。
キリストが答えました。
端的に言うとこうです。
「あなたの敵」です。
「見ず知らずの人」と言ってもいいかもしれません。
朝鮮動乱の時、北の兵士が捕まりました。
南の軍人が言います。
「こいつは我が軍の若い兵士二人を殺しました。その二人とはあなたの息子です。さぞ憎いでしょう。さぁ、あなたが射殺してください」
年老いた父親は言いました。
「私は息子二人を失いました。見れば、この若者も息子と同じくらいの年。私には殺せません。」
軍人は言いました。
「では、私が代わりに射殺しましょう。」
そこで老人は言いました。
「私はキリストを信じている。キリストは敵を愛せ、と言った。この若者にも私のような老いた父親がいる。殺さないでやってくれ!」
北の兵士の前に立ちかばった老人に免じて、兵士は捕虜として改心して、やがて韓国で牧師をした、と聞いています。