(先週の説教要旨) 2011年11月20日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「信仰の天窓」 フィリピの信徒への手紙1章15~19節
時々自分の信仰生活を振り返ると、長い間信仰が守られてきた不思議さを思うことがある。弱く、いたらない、欠点だらけの自分がである。結局神さまに愛されている、主が共にいてくださったからにほかないないと思わされる。同時に牧師はじめ多くの方々から祈られていたことも思い至る。そのような時、感謝としみじみした喜びとでもいうような思いが湧き上がってくるのである。
さて、パウロは18節で、今、喜んでいるというだけではなく、続いて「これからも喜びます」(18節)と言っている。パウロの未来はどうなるかわからない。殉教の死さえ予感していた(2:17参照)。しかし未来にどんなことがあろうとも、喜びが失われない、いつまでも喜びが継続するというのである。それは空しい楽観ではなく、はっきりとした根拠がある。「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、……」(19節)である。
フィリピの信徒たちの背後には、パウロの祈りがあり(3節以下)、パウロの背後には、フィリピの信徒たちの祈りがある。お互いの間には、祈りの包囲網がある。そのような祈りとイエス・キリストの霊の助けによって、「このことがわたしの救いになる」(19節)と言うのである。「このこと」とはパウロの監禁。またそれを通して実現された福音の前進、すなわち人々が救われること。これがパウロにとって救いとなるのである。
河野進牧師の『母』という詩集の中に「天窓」という詩がある。岡山のハンセン氏病の療養所で伝道された先生で、詩人でもある。
部屋が暗いから/屋根に小さい天窓を作った/太陽の光がさしこんで/ふしぎなほど明るくなった/そうだ 心がうっとうしいとき/すぐ祈りの天窓を開こう/天窓とはうれしい名だ 私たちの祈りが、たとい小さく貧しいものであっても、それが信仰の天窓を通して、天に向かい、天に届く。今ここでなされる私たちの小さな祈りが、天において大音響となる。祈りの天窓を通して、神は私たちの祈りを聞いてくださる。そして今度は祈りの天窓を通して、イエス・キリストの霊の助け、まさに私たちのために十字架の死をとげ、愛を貫いてくださったキリストの救いといのちの霊、神の生ける力と助けが、天からくだってくるのである。
私たちはパウロのように獄にあり、監禁されているわけではない。しかし日常の生活で様々なものに、束縛され拘束されている。多くの苦しみや悩みがあり、難しい人間関係がある。背負いきれないような人生の重荷もある。むしろ私たちが気づいていない深い罪もあり、また死を避けることができない。このように見てくると人生の一面ではあるが、この世の地獄、暗闇の中にあると言ってもいいのではないか。そして八方ふさがりの状況。
しかし上から、信仰の天窓、祈りと霊の天窓が開かれ、神からの光が差し込み、この世の地獄を愛の満ちあふれる世界とされる。地獄のような世の中にありながら、「キリストの中で」存在している。本当に素晴らしい現実、十字架において示された神の愛の中にある。こうして私たちは、祈りと霊の天窓を通して、神を礼拝し、神との平和をもち、その恵みと生命と喜びに満たされる。そこに思いがけない明日が開かれ、希望にあふれた意外な未来が展開されていく。
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