(先週の説教要旨) 2011年12月25日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「救い主の誕生の意味」 ルカによる福音書2章1-21節
シリヤ総督キリニウスが最初の住民登録をした時にイエスは生まれたと、ルカは記しているが(2節)、ルカの意図は年代の確定にあるのではなく、むしろ救い主の誕生は歴史的な事件である、ということを主張することにある。皇帝アウグストゥス、住民登録、若夫婦の旅行、旅先でのイエスの誕生はこれを意図している。救い主の誕生は神の出来事であるが、それが私たちの歴史の出来事としてある、ということである。
イエスの誕生の場所についてみると、メシヤは旧約聖書の預言の実現である、とルカが主張していることがわかる。預言によると救い主はダビデ王の家系から産まれる(イザヤ9:6)。またイエスはダビデの町ベツレヘムで生まれる(ミカ5:1)。メシヤは全世界のために生まれたが、具体的な場所としてベツレヘムで生まれた。それは旧約聖書の預言の実現である。
生まれた幼子は布にくるんで飼い葉桶に寝かされた。それは宿屋ではなくて家畜小屋。飼い葉桶は十字架の先取りでもある(ピリピ2:6以下)。
メシヤの誕生はまず最初に羊飼いたちに告げられた。神殿の大祭司、祭司たちや宮殿の王様、貴族たちではない。羊飼いは納税の対象ではなかったので、住民登録の必要はなかった。言うなれば逆差別。彼らはいと小さき者、貧しき者の代表である。神の使いは彼らを選んだ。神の選びは私たちにとっては不思議な、神の自由な選択である。社会的な地位や宗教的身分の高さ故に、神の選びがあるのではない。また、弱さや貧しさの故に、神が選んだのでもない。強さも弱さも選びの条件ではない。神の自由な選択である。しかし、これが不思議なことであるが、神は弱い者、小さき者、羊飼いを選んだ。この不思議さを私たちは合理化してはならない。
天使の出現に羊飼いたちは非常に恐れた。彼らは自分たちを襲ってくるかもしれない狼や強盗や暗闇自体を恐れはしなかった。彼らは恐れるべき方の出現を恐れたのである。恐れるべき方が誰であるかを知るが故に、それ以外は何も恐れなかった。その恐れるべき方が、「恐れるな」と語りかける(1:30も参照)。喜ばしい知らせを聞いて、彼らは幼子の所に行き、神をあがめた。天使が救い主の誕生を羊飼いたちに知らせた後、おびただしい天使たちが大軍をなして現れ、讃美した。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)。
この世の人々にとっては意味もないように見える飼い葉おけの出来事、取るに足りない野宿の羊飼いたちに知らされたイエス誕生の知らせは、実は神の国においては大いなる出来事であった。また、神の御心を知る者たちにとっては、平安と平和の到来の出来事なのである。だから天使たちは喜びのあまり、じっとしておれなかった。彼らは歓喜の大合唱を始めた。
ボンヘッファーは獄中より婚約者のマリアと両親に宛ててクリスマスの手紙を書き、それに詩を加えた。1944年12月19日のこと。「善き御使いらに真に静かに囲まれて、こよなく護られ、慰められて、私はあなた達と共にこの時期を過ごし、新年へと歩んで行こう」と始める。第5段では「暗闇の中に置いて下さったロウソクの火を、今日ばかりは、暖かく、明るく、輝かせて下さい。御心ならば再び私たちが会えるように導いて下さい。あなたの光は夜、輝くことを、知っているのですから」と歌う。婚約者のマリアと再会することなくやがてヒトラーに殺される定めを前にして、ここでもあの天使たちの讃美への一つの応答の讃美が歌われている。
神様の御心は分かりませんが、察するに暗闇の中でこそ、神様本来のありのままのお姿であられる、と思います。
僕は初めて神様に祈った時、部屋のドアを閉め、灯りもつけず、真夜中に1人で祈りました。
真っ暗にも関わらず、確かに神様は応えて下さり、まるで光に包まれたようでした。
暗闇の中でこそ、神様の顕現が顕著に現れる気がします。
だから、灯りをともしている所にいる人々よりも、暗闇の中にいる羊飼いにまず天使のお告げがあったのではないでしょうか?