<先週の説教要旨>2019年1月13日 主日礼拝 杉野省治牧師
「無条件の赦し」マタイによる福音書6章12節
朝、目覚めて憂鬱になることがある。職場や家族、学校、友人などの人間関係による嫌な思いや心の痛み、悲しみ、悔しさによって暗く、憂鬱な気分になってしまうことはよくある。「赦すことのできない」苦々しい感情を引きずったまま、一日を始めないといけないことが私たちには時としてある。誰かのことを赦すことのできない人間関係は、私たちの生活を非常に窮屈な苦しいものとしていく。
幼いころから親に傷つけられて、親のことをずっと赦せない人がいる。その赦せない思いが、やがて自分が親になったときに、自分の親にされたと同じように、自分の子どもにしてしまうということも起こり得る。赦すことのできない思いは、赦せない罪の連鎖を生み出す。
しかし、今日の主の祈りの言葉は語る。「私たちも私たちに罪を犯してきた人を赦しますから、私たちの罪をお赦しください」。これはどういう意味だろうか?何かの取引のように見えるが、そうではない。私たちが、主の祈りに従って、私たちに罪を犯した誰かのことを赦そうとした時、そう簡単に赦せない自分に必ず出会う。そして赦せない自分の弱さにぶつかって、赦せない自分の罪に出会うのである。だから、まず何より、自分の罪の赦しを神さまに求める以外に、解決の道がないことを知らされるのである。
主の祈りを教えてくださった主イエスは、私たちが赦せない人間関係に苦しみ、赦せない自分の罪に苦しみ続けることがないように、十字架の上から「父よ。彼らをお赦しください」と祈られ、私たちの罪を赦してくださったのである。だから、私たちは、まず「赦せない」自分の罪を正直に認めたいと思う。そして赦せない自分を、神の前に差し出していく。このことから、この主の祈りは始まっていくのである。
よく言われることだが、「本当に赦されたという経験がないと、赦すことはできないものだ」ということ。それと同じことは、「本当に愛された経験がない人は愛することができない、また愛することがどういうことかわからない」ということである。人間は自分が経験したこと、いわゆる身に着けたこと、学習したことしかできないということでもある。
赦すということはなかなかできないことであり、限界がある。私たちは「もういいよ、赦したよ」と言いながら、本当のところは、その人を赦していないことがある。そして、そのことを誰よりも知っている。私たちが誰かを赦そうとしたとき、赦せない自分に出会う。その時、真の赦しは、神の赦し以外にないことを知るのである。十字架の赦しを受け取らない限り、この赦しの中に生きない限り、私たちは本当の意味で赦しを知ることができない。人を赦すことができずにもがき続けている私たちの限界の前に、神からの本当の赦しをもって、あなたを赦そうとする神の愛が、私たちの目の前に差し出されているのである。
主イエスの赦しは、十字架の上でなされた。主イエスは自分を殺そうとする者たちを前にして、祈られた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。この赦しを前にしたときに、今までの自分の赦しがどれほど小さく、本当の赦しにはほど遠いかを知る。そして、いまだに赦せない自分自身の罪深さをも知らされることになる。
この無条件の赦しが、私たちのために先立って祈られている。自分で自分をどうすることもできない私たちのために、今も祈られている主イエスの祈り。この主イエスの祈りを聞きながら、私たちは赦された安心、平安の中を過ごすことができるのである。
さらに、ここで祈られているのは「彼ら」と複数形。主イエスを十字架につけるような「彼ら」という、私たちの赦せない人間関係のために祈ってくださっている。この祈りがあるからこそ、私たちは祈ることができるのである。「私たちは赦します」「私たちを赦してください」と。主イエスの無条件の赦しの中に生きることが許されていることを覚え、感謝してこれからも歩んでいこう。