平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

みんなも呼びな 神さまを呼びな

2019-01-30 15:11:23 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年1月27日 主日礼拝 杉野省治牧師
「みんなも呼びな 神さまを呼びな」詩編23篇1節 マタイ福音書6章25-34節

 八木重吉というクリスチャン詩人の詩に「神を呼ぼう」という詩がある。「赤ん坊はなぜにあんなに泣くんだろう /あん、あん、あん、あん/あん、あん、あん、あん/うるせいな/うるさかないよ/呼んでいるんだよ/神さまを呼んでいるんだよ/みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」。

 赤ん坊は泣き叫ぶ以外、何の手段ももっていない。しかし、赤ん坊は生まれながら神さまを知っているかのように、叫び続ける。それは私たちが手段も方法もない時、何をなすべきか、教えているかのようだ。赤ん坊は全身をもって泣き叫ぶ。言葉も知らない、歩いて取ることもできない、物を使うすべもしらない、まさに何もできない、その時、神が唯一与えたもう手段は、神に呼び求めることだった。赤ん坊は、その目的のものが与えられるまで、決して泣きやまない。神への信頼、要求の激しさだろうか。全身をふるわせて泣き叫ぶ。それは私たちの祈りに対する指針ですらある。私たちの祈りは、ぼそぼそとしていないだろうか、それは叫びだろうか。神を呼ぶと言えるものだろうか。

 有名な詩編23篇1節にこうある。「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」。これは、自分が羊であるという自覚を歌っている。羊というのは、羊飼いの守りと導きの中で生きるし、その中でしか生きることができない。その羊飼いが自分の前にいてくださる。だから自分には乏しいことがない。それで自分には十分だと歌っているのだ。人間としての満ち足りた生き方がそこに描かれている。

 しかし、私たちは、あれがあればこれがあれば満ち足れる、自分の生活は安定するのではないか、と考える。しかし、実はそうではなくて、私たちが導かれて生きるということの中に、私たちの満ち足りた人生があるということがこの短い言葉の中に歌われているのではないか。だから、私たちが何か道を開拓するというのではない。神に導かれながら私たちは歩いていくのである。導かれながら、一つひとつ前に開かれていく道を歩いていく。これが人間本来のあるべき姿。私たちはそれを信仰と言うが、信仰というのは特別なことではなくて、人間が本来あるべき姿、歩き方のことであろう。

 イエス・キリストは言われた。「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:34)。明日は私たちの手の中にはない。よく言われるように一寸先は闇。一寸先は何もわからない。何が起こるかわからない。どんな災難が待っているかわからないということ。その通りだ。私たちの人生は誰にとっても、不安といえば不安、頼りないといえば頼りない。だから、私たちは明日というものを自分のもとに確保しようと思う。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩む、のだ(25,31節)。その私たちに対して主イエスは言われる。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか」(27節)とはっきり言われる。明日の命は、私たちの手の中にはない。といって、明日のことまで思い悩んでもしょうがないではないか、と短絡的に主イエスは言われているわけではない。

 その前に、前提がある。空の鳥をよく見なさい、野の花を見なさい、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる、野の花を装ってくださっているではないか、というのである。さらにまた32節で、あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である、といわれるのである。

 これらの言わんとすることは、要するに、天の父、父なる神によって私たちは養われている、そういう存在だということである。命は私たちの手の中にはない、それは神の手の中にある。ヨブ記1:21「神は与え、神は奪う」とあるとおり。だから神は創造者としての責任と愛をもって養ってくださる。必要なものは与えてくださるお方であるということ。だからその神に求めなさい。だから「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われるのだ。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる、と約束されている。

 その前提のうえで、だから、「明日のことまで思い悩むな」と言われているのだ。そこで私たちに求められていることは「何よりもまず、神の国と神の義を求め」ること。赤ん坊のように「みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」と八木重吉が歌っている通りである。

聖句引用でお話

2019-01-30 09:34:34 | 牧師室だより

牧師室だより 2019年1月27日 聖句引用でお話

 教師という仕事は何かと生徒に話す機会が多い。朝礼や毎日の朝の会、帰りの会、学年集会、入学式に卒業式、始業式に終業式。その度に話すネタ探しに苦労した。本や新聞、テレビの話題はもちろん、手元には逸話集やことわざ・格言集なども置いて参考にした。たまに聖書の話もした(公立学校なので宗教教育にならぬよう注意を払いながら)。

 聖書の話では、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という聖句を引用して、人間は「言葉」によって成長し、言葉によって学び、言葉によって生きている、ことをわかりやすく話した。挨拶一つとっても人間関係に大きな影響を与えることなどは生徒にもよく通じた。さらに、言葉遣いや読書の大切など話を広げて話すこともあった。

 次の聖句もよく引用した。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:4)。これは生徒にはストレートに伝わった。特に3年生の受験生を励ますときに最適だった。「忍耐」して繰り返し復習して、体に染みつくまで習熟すること、それが「練達」だ、というように話すと、生徒も部活動などで、繰り返し練習しているので実感として受け止めてくれた。

 「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20:35)は、生徒自身に体験を話させて、考えさせた。誕生プレゼントやお年玉をもらった時の気持ち、逆にプレゼントをあげたり、優しい言葉をかけてあげたときの気持ち。その違いを考えさせたりした。また、「頂戴、頂戴」「欲しい、欲しい」ばかりの自分と「与えたい」「何かしてあげたい」と常に考えている自分、どちらが心豊かか、問うたりもして考えさせた。

 岩の上に家を建てる賢い人と砂の上に家を建てる愚かな人のイエス様のたとえ話もよくした。これなんかは説明はいらない。基礎、土台が大事という話。だから、小・中学校の勉強は人生の土台となるのだからしっかり学ぼうとなるわけだ。基礎が大事なのは何事も同じ。