(先週の説教要旨) 2013年9月22日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「罪の持つ重さ」 レビ記5章1-6節
謝ることは難しい。謝り方一つで問題がこじれることが多い。誰にでも失敗はある。しかし、失敗した時に正直に自分の非を認め、どんな相手であれ素直に頭を下げることができれば、誠意が認められ多くの場合、問題解決へと進んで行く。そのようにできる人こそ、真の意味で自由な人なのだろう、と思う。
私たちは何か小さな失敗をすると「すみません」と謝る。それですめばいいが、「すみませんですむと思うのか」となどと言われると困惑してしまう。こんな時は口答えができないので黙っているしかないが、内心「それじゃ、どう言えばいいんだ」と反問したりする。
しかし、「すみません」という言葉は、よく考えると「これではすみません」という意味なのだから、この言葉を言っただけですまそうとする方が間違いであり、「すみませんですむか」と言った方が正しい。だから、「すみません」という言葉ほど、不誠実な言葉はないのではないだろうか。しかも、この言葉にはもう一つ「すみません」と言いさえすれば許されるという、失敗に対する不真実さがある。
レビ記5章には、証言の黙秘とか、汚れた物に触れたことによるケガレとか、軽々しい誓いなどについての贖罪の捧げ物のことが記されている。こうした日常生活の小さな過ちに対しては、私たちは「すみません」と謝りさえすればよいと考えやすい。しかし、聖書はそれがどんなに些細なことであっても、罪である以上は、謝っただけでは消えないこと、神の前に罪として残ることを教えている。そして、この罪のためにも、贖罪の捧げ物を神にささげることなしには済まされることはなく、「犯した罪の代償として、群れのうちから雌羊または雌山羊を取り、贖罪の献げ物として主にささげる」と規定されている。貧しい人のためには「二羽の山鳩または二羽の家鳩」、あるいは「小麦粉十分の一エファ」でもよいとされているが、これは罪というものはどんな人でも何かをもって償わなければ決して赦されるものではない、帳消しにされるものではないことを示している。
私たちはこうした罪の持つ重さを知らない。その故に、このような規定を読むとき、一種の驚きさえ感じる。しかし、神の前に生きるとは、人間の側だけではことはすまされない世界に生きることである。いつも神の求めに対して生きていくことである。この厳しい現実を知らない者は、あのゴルゴタの十字架の恵みを味わうことはできない。どんなことでも、「すみません」ではすまされないのである。ただあの十字架の死によってのみ、すまされるのである。我々の喜びはここにある。
この箇所では、贖罪の捧げ物は必要だといわれているが、それだけでなく、「罪の告白」(5節)をしてから罪の代償として贖罪の捧げ物をささげるのである。詩編50編15節にも「告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ」とある。そして、その告白は「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)である。
そして、最後は神の赦し。十字架においての赦し。十字架の前に「打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心を」ささげ、罪の赦しを請うのである。その時背負いきれない、償いきれない負債、重荷、罪を代わって、私たちの罪の贖罪の捧げ物として、生ける神の子イエス・キリストが神に捧げられたのである。そこに神の赦しがある。