平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

人間の愚かさと惨めさ

2013-09-03 13:35:09 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年9月1日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「人間の愚かさと惨めさ」 エフェソの信徒への手紙2章1-8節

 私たち人間の愚かさは、神の愛とご計画を知らされながら、なおなかなか神を信頼し続けることができないところにはっきりと表れている。私たちは、いろいろと都合をつけて、神を賛美し、礼拝することを怠る。感謝をささげることも忘れてしまう。神が、まず私たちに仕えてくださったにもかかわらず、私たちは、むしろ神を思い通りに何かをしてくれる存在にしばしばおとしめる。

 ここに人間の惨めさがある。どうして私たちは、素直に神を信頼し続けることができないのか。それは、私たちが、神に信頼することも神から離れていくことも自分の意志でできるように創造されているからである。

 ルカ福音書15章の放蕩息子の譬えは、このことをよく示している。父親から財産を分けてもらった弟は、自分自身の意志で父の家を出て、遠い国へ旅立って行く。やがて、放蕩に身を持ち崩し、すべての財産を使い果たしてしまう。気づいた時には、豚の食べるいなご豆を食べて飢えをしのぎたいと思ったほどであった。やがて、弟は、我に返って、父のところに戻る決心をする。

 放蕩息子のように、私たちは自分の意志で神のもとを離れ、好き勝手な方角に赴くこともできる。神に信頼せずに、「自分は自分の力で生きているのだ」と考える自由も与えられている。しかし、同時に、私たちは悔い改めて、自分の意志によって再び神に心も体も向け、神のみもとに帰ることもできる。そのような自由も与えられているのが人間。罪を犯し、神の顔を避けていた人間は、再び神の愛を知ることもできる。神は、そのための準備をすべて整えてくださっている。神の独り子イエスの誕生とご生涯、そして十字架の死と復活は、すべて、放蕩息子が再び、天の父なる神のみもとに帰るために神ご自身が準備なさったことである。

 さて、私たちが神にしっかりと結びつくことができず、神の言うことを聞かない時、私たちは罪に囚われた惨めな状態にある。神のご命令に背いて、神から手を離してしまった時には、私たちは自分の力で生きているのだという思い上がりに陥って、罪によって支配されてしまっている。「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動している」(2:3)のである。

 「しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし」(2:4-5)、もはや罪の支配に置かれず、平和と喜びのうちに人生を歩むことができるようにしてくださった。それは、主イエスと共に歩む道であり、死に至る道ではなく、永遠の命に至る道である。主イエスは、「私は道であり、真理であり、命である、私を通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と宣言されている。
このことを聖書は次のように書いている。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(2:8)。