老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

志賀直哉の名作「城の崎にて」の中に

2013-05-11 11:51:51 | インポート

志賀直哉の名作「城の崎にて」の中に、「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた」主人公が、散歩に出かけたある午前、川のほとりで、首に魚串を刺されて助かるはずのない鼠が、必死に川を泳いで逃げようとする様子を見かける場面が描かれている。

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「鼠は石垣へ這上がろうとする。子供が二、三人、四十位の車夫が一人、それへ石を投げる。なかなか当らない。カチッカチッと石垣に当って跳ね返った。見物人は大声で笑った。鼠は石垣の間に漸く前足をかけた。しかし這入ろうとすると魚串が直ぐにつかえた。そしてまた水へ落ちる。鼠はどうかして助かろうとしている。顔の表情は人間にわからなかったが動作の表情に、それが一生懸命である事がよくわかった。」
「自分は鼠の最期を見る気がしなかった。鼠が殺されまいと、死ぬに極った運命を担いながら、全力を尽して逃げ廻っている様子が妙に頭についた。自分は淋しい嫌な気持になった。あれが本統なのだと思った。自分が希っている静かさの前に、ああいう苦しみのある事は恐ろしい事だ。死後の静寂に親しみを持つにしろ、死に到達するまでのああいう動騒は恐ろしいと思った。」
「「フェータルな傷じゃないそうだ」こういわれた。こういわれると自分はしかし急に元氣づいた。亢奮から自分は非常に快活になった。フェータルなものだと聞いたら自分はどうだったろう。その自分はちょっと想像出来ない。自分は弱ったろう。しかし普段考えているほど、死の恐怖に自分は襲われなかったろうという気がする。そしてそういわれてもなお、自分は助かろうと思い、何かしら努力をしたろうという気がする。それは鼠の場合と、そう変らないものだったに相違ない。で、またそれが今来たらどうかと思って見て、なおかつ、余り変らない自分であろうと思うと、「あるがまま」で、気分で希うところが、そう実際に直ぐは影響しないものに相違ない。しかも両方が本統で、影響した場合は、それでよく、しない場合でも、それでいいのだと思った。それは仕方のない事だ。」

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<「あるがまま」で、気分で希うところが、そう実際に直ぐは影響しないものに相違ない。しかも両方が本統で、影響した場合は、それでよく、しない場合でも、それでいいのだと思った。それは仕方のない事だ>という考え方は、一休禅師の「なるようになる、心配するな」というのと同じで、共感できるものである。

昔読んで、記憶に残っている文章なので、ここに記録しておきたい。