半農・半Xの生活

思いついたことを思いついた時に綴ります。

障害者自立支援法で思うこと

2012年02月24日 07時44分25秒 | 日記
小泉改革の時にできた、あの悪名高い障害者自立支援法が廃止にならずに
名前を変えて延命するらしい。

確か、この支援法は民主党が政権を取った時に廃止すると明言をしていた
はずである。
しかし見事に官僚にしてやられた。全くの官僚主導政治である。まあ、口先
番長ぞろいの民主党であるから、仕方の無いことではあるが。

政治とは生活であると、いみじくも小沢一郎氏の言葉が強く印象に残ってい
るが、今は、その共生を云う小沢氏も外野に追いやられてしまっている。

人間は一人では生きて行けない、自助、共助、公助の何らかの力を得て暮
らしが成り立っている。
小さな政府が叫ばれ始めて、公助の部分が希薄になってきた。そして、全て
自己責任において、力の無い者も力のある者と同様な扱いを受けてきた。

障がい者が生きて行くには、障がいに応じた何らかの介助を必要とする。
ところが、この支援法は、生きていくのに必要な手助けを一律にサービス
と称して、まるでエステやマッサージの料金でも支払うような思想でできた
ものと思わざるを得ない悪法なのである。

そして、ここへ来て財務官僚の操り人形と化し、国民生活にとっての重要政策
をほったらかしにして、狂ったように税と社会保障の一体改革を連呼して、消
費税をあげることに血道をあげている。

この、消費税の増税こそが、自助の部分に重きをおいた政策であり、自己責任
の強制的に強いるものではないのか。
生活力に余裕のある人、その日の生活もままならず、爪に火を灯すような生活
困窮者からも一律に搾取するわけだから。
つまり、自分の支援費は自分で払って下さいね。ということになるわけだ。

今、妙な絆を国民に強いるなら、まず、諸外国に比べて低い法人税率を上げたり、
高所得者の所得税率を見直すなどして、恵まれた境遇にいる者たちの博愛精神
に縋ってみたら如何か。

ある障がい児のお母さんが言ったという「法律とは生きていることを励ます
ものではないですか」という心からの訴えが政治家や厚生官僚達には届かない
冷酷な国家に、成り下がってしまったのか。

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2012年02月23日 07時37分24秒 | 日記
我が家にTVが来たのは小学生の頃の東京五輪が行われる年の
春だった。
それまでは、ラジオが家族の傍らにあって真空管ラジオが存在感
を示していた。
ラジオドラマなどは幼いながらとても楽しみで、夕方になると兄
と一緒に昨日の続きに聴き入った。
ラジオは読書と並んで想像力を形成するのに大いに役だった気が
する。

やがて、TVが生活の中心に居座るようになると、当然のこと
ながらラジオは忘れ去られた存在となった。
それでも、ラジオは深夜放送として生き残り、受験生達の深夜
の友となった。自分も受験勉強などは無縁であったが、真空菅
ラジオをイヤホーンで聴けるように細工して寝床で聴いた。

当時はレモンちゃんこと落合恵子、土井まさる、みのもんた、
キンキンこと愛川欣也、野沢那智と白石冬美のナッチャコパック
などなど挙げればきりが無い。

社会人になると高価なHIFIステレオなどを購入し、音質の良い
FM放送をよく聴いた。
その後、家庭を持つと子育てや仕事の忙しさに追われ、ラジオは
ほとんど聴かなくなった。

数年前に夜中に目覚めた時に、何気なく入れたラジオからNHKの
「ラジオ深夜便」を聴いた時に内容の面白さに文字通り目覚め、最近
は夜中に目覚めるとラジオのスイッチをONにする。
”ミッドナイトトーク”や”明日へのことば”など、意外な人の意外
な生き方が聴けるので、この深夜便から得るものは多い。
たまに聴き入ってしまい、そのまま夜明けを迎え、職場で睡魔と格闘
することもある。

置いてあれば薄っぺらのただのプラスチック片が、スイッチを入れると、
まさに情報の泉、知識の宝石箱、娯楽の殿堂に変わるのがラジオである。
恐るべしラジオ君。

死刑判決をみて思ったこと。

2012年02月21日 07時55分08秒 | 日記
山口県光市の元少年が起こした殺人事件の死刑が確定した。

先ずは、亡くなった母子に対してご冥福をお祈りしてから感じた
ことを書いてみたい。

死刑判決について、評価が二分されるのは当然だろう。

ただ、最近気になるのは裁判員制度になってから、刑の厳罰化が目立つように
なってきたことか。目には目を、歯には歯を的な判断では、人を裁くなどどい
う重い責任は果たせないことは十分に理解しているつもりだ。

今回の件は、残虐なことをすれば、このような結末が待っているのだと国民や
特に世の未成年に知らしめるメッセージ性を持っている重い判決だろうと思う。
一方で、18歳であれば判断力が備わっていたはずと考えたとしてもおかしくな
いものの個人の生育過程、家庭環境等を考えれば、重大犯罪イコール死刑という
短絡的な判決であってはならないだろうと思う。


今、国民の中に流れる雰囲気が、政治の停滞等の様々要因から不満がマグマの
様に溜まり、いつ爆発してもおかしくない状況にある。そんな中で、少しでも
溜飲を下げてくれるような物言いをする人を支持したり、例え真っ当な人達で
あっても自分と違う恵まれた立場にいる人達には厳しくバッシングをする傾向
がある。
また一方で、自分より弱い立場の人の存在を確認することで安心をするような
傾向がないだろうか。

目の前にある嫌な事から、逃避したい、そのためには自分を変えようとせずに
自分の目の前にある煩わしさが消え去って欲しい、抹消されて欲しいという風
潮がないだろうか。
ゲームのようにリセットすれば、生まれ変われるほどに、人間の命は軽いもの
ではない筈だ。

先ず、自分たち大人がしなければいけないことは、自分の身体は自分だけのもの
ではなく、先祖代々受け継がれてきた大切な借りもので後生に伝えていく大切な
ものだと教えることができる教育・社会環境を整備することが刑の厳罰化の前に
することのような気がしてならない。

酒のことなど1

2012年02月20日 07時47分44秒 | 日記
酒は好きで、若い時から結構飲んだ。
酒に目覚めたのは、高校の時の修学旅行で飲んだ時かも知れない。
京都の古い旅館で、こっそり飲んだ酒はリキュール類だったかも
知れないが、酒に酔うという感覚が新鮮で自分にはとても心地よいものに思われた。
 
酒の好みは年代とともに変わった。若い時はウイスキーの水割りをよく飲んだが、
あれは、綺麗なお姉さんが甲斐甲斐しく水割りなど作ってくれたせいかもしれない。
六本木のクラブで会社の付けで飲んだが気取った店よりも格安なサントリーバーで
一級酒のなホワイトのボトルをキープしておいて通った、つまみの定番はレーズン
バターだった。

 そう言えば、30数年前のこと、焼酎は世間一般には飲まなかった時代、後輩が
正月に鹿児島へ帰省した際のお土産で芋焼酎の白波を1升瓶でもらって家へ
帰って栓を開けてみたらあまりの臭さにそのまま、ベランダに放置しておいた。
今から考えれば何とも勿体ないことをしたのだろうと思う。

就職した年の大晦日の晩には、父、兄、私の3人で痛飲し、朝起きたら炬燵の
周りに空の一升瓶が2本転がっていたこともあった。
それでも、その朝には二日酔いにもならず、お屠蘇を頂いたのだから若いとは
言え、胃も肝臓も強かったのだろう。無類の酒好きは父親譲りかも知れない。


若いときの酒にまつわる失敗談は挙げればきりがないが、特に憶えているのは、
成人式の打ち上げ(?)で、友人宅に数人で押し掛けて正体を無くす程に飲んで
しまい夢の中で寝ながら吐いたが、実際に吐いていて友人や家人に大変な迷惑
をかけた。
また、一人の友人などは、泥酔して仏壇の前で小便をしたということを翌朝に聞いた。
それでも、友人の親は厭な顔もせずに、帰り際に、また遊びに来いと言ってくれ
たが、この時が酒で人に迷惑をかけた最初かも知れない。

また、特に貴重な経験をしたのは警視庁のパトカーに乗せて頂き、ご丁寧に警察
に三日程ご厄介になり、一般人には馴染みの少ない臭い飯と言うのを初めて味わった。
ご飯、お新香、味噌汁だけのまさに精進料理である。
この時に、警察、検察、裁判の一連の役割について身を以て学んだ。
今、思えば楽しい思い出の一コマになっている。・・・

父のっことなど2

2012年02月17日 08時01分42秒 | 日記
結婚の翌年、兄が生まれ、その5年後に私が、さらに5年後に弟が

生まれた。

父と母は、貧農の故にとにかく働きに働いた。


祖父は、ことある毎に戦死した長男と父を比較しては、「一郎(仮名)

が生きていればなあ」とあからさまに父の前でぼやいて見せたらしい。

それに加えてかなりショックキングなエピソードもあったと、この正月

に話して聞かせた。

ある日、祖父と植木屋との会話で、「二郎(仮名)よりも、この松の方

が大事だ」と祖父が臆面も無く話しているのを近くで聞いた父は、相当な

ショックを受けたらしい。

 それでも、父はそんなことをバネにさらに働いた。現金収入を得るため

に農耕用に飼っていた牛を泊まりがけで連れて、山奥の伐採した木を土場

まで引き出す土引きという仕事もやった。


弟が生まれた時は、父にそのことを伝えるために、近所の電話があるお宅

まで5歳の私が走ったことをおぼろげながら憶えている。


その後、我が家は農地を開墾したり、買い求めたりして、かなりの耕作面積

となった。作物は米から得られる収入は僅かなので、りんご、白菜、レタス、

花卉、薬用人参など様々な作物を試みたが最終的には、花卉と薬用人参に

しぼった。後に、農林大臣賞など数々の賞を受賞するまでに至った。

その間の研鑽、努力は並大抵では無かった筈だ。

その影には母の大きな内助の功があったことは言うまでもない。