半農・半Xの生活

思いついたことを思いついた時に綴ります。

週末の農作業

2014年06月30日 08時00分56秒 | 日記
久しぶりの週末の晴れ間、大豆やネギの土寄せ、地這い瓜の苗を
植えたり、草取りなどをした。雑草の勢いは相変わらずで、この
ところの夕立で成長も早く、草はむしってもむしっても、次から
次へと出てくる。当然のことながらきりがない。
畑中に雑草の種は散っていて、時期毎に違った種類が顔を出す。
雑草をむしらないで、そのままにして共存共栄の栽培方法もある
らしいが、自分には合わないし、ましてや除草剤を撒くなんてこ
とは、できないし、そんなことをするくらいなら買った方が良い
くらいだ。

土寄せの作業は、作物の生育にとっては重要で、中耕とも呼ばれ
ており、倒伏防止や根の活性化を図るのが目的である。ネギの場
合は、白い部分がなるべく長くなるようにするのが目的となる。

ジャガイモの生長具合を見るために、試し堀をしてみたら、今年
は、昨年に比べて結構大きくなっているようだ。ただし、切って
みたら芯の部分が腐っているような感じだったと妻が言ったが、
何かの病気なのかも知れない。だとすればどの範囲まで蔓延して
いるのか気がかりである。

                 
    いろいろと成長が著しい    ジャガイモ表面も病気?

満蒙開拓平和記念館を訪ねて

2014年06月25日 08時00分20秒 | 日記
雨の週末、阿智村にある予てから行きたいと思っていた満蒙開拓平和記念館
を訪れた。当時の侵略政策に翻弄され、数多の人が非業の死という悲運を味
わった国策が満蒙開拓である。
五族協和・ 王道楽土などと聞こえの良いことを言い立てて、他国を侵略し、
地元の農民からなかば略奪した農地に貧しい農民等を移民させたわけだ。
軍事作戦上、ソビエトからの侵攻に備えと時間稼ぎのために、血気盛んな15
歳から18歳の子供を満蒙開拓青少年義勇軍という軍人に仕立て、ソ連国境
付近に入植させた。

こんな侵略が世界的に見て許されるべくもなく、破綻は目に見えていたのだろ
うが、そのことは国民にひた隠し、ソ連が侵攻する前に軍隊は我先に開拓移民
を棄てて逃げた。一方で残された移民の逃避行は壮絶を極めたらしい。
集団自決、恨みをもつ地元住民らによる虐殺、逃げる途中での衰弱死、病死、
特に幼子や乳飲み子を抱えての逃避行も凄惨を極めたらしい。
現地の人に預けたり託したりし、後に残留孤児として日本に帰国を果たした人
もいる。残留孤児を描いた山崎豊子の「大地の子」は有名である。
移民数32万人で帰国できたのは半数以下の11万人程度だったらしい。

とにかく、時の政府(軍部)は、甘言を用いて国民を瞞したこと、情報を隠した
こと、我先に安全なところに逃げたことなどは、安倍が、目指し、これからなる
であろう軍事国家の国家運営にそのまま当てはまりそうだ。そう言えば、安倍が
尊敬してやまない岸信介が、若手官僚だった頃に中心になって日本の資本を注ぎ
込み最先端の国家を捏造したのが滿蒙開拓であり、生前「満州国は私の作品」と
豪語していたらしい。

何れにしても、痛みが分からない安倍などは、一回この記念館に足を運び、戦争
の悲惨さを学んだ方が良いと思うが、無理な話か。
   
                  

週末の農作業

2014年06月23日 09時52分55秒 | 日記
週末は雨が降る前に急いでタマネギの収穫をした。昨年の収穫は、
冬場の凍上の影響もあり、追肥も十分にしなかったせいか、量・質
ともに近年の中では最低であったが、今年は、凍上除けに籾殻で覆
ったせいか凍上もほとんどなく、追肥もしっかりやったので量も形
も納得がいく物ができた。収穫したものは、ネットに入れて、日陰
干しを兼ねて貯蔵することになる。出来が良かったと言っても苗の
個体差や肥料あたりなど要因があると思うが、これだけの差になっ
て現れる。
 
                     

何とも健気なんだろう

2014年06月20日 15時21分57秒 | 日記
このところの雹交じりの集中豪雨に、野菜君達も受難の日々を
送っている。
今年の大豆の発芽率が悪くて播き直しをして、やっと芽が出て
きたところで、雹の直撃である。可哀想だけれどこれで自然の
なせる業で致し方ない。

 葉は雹に当たってボロボロになっているけれど、何とか甦生
して、種を保存して次代に繫ごうという姿は、まるで強い意志
を顕しているようでもある。
小生もつまらんことで落ち込んでなどいないで、見習わなけれ
ばと思う。こうやって、野菜達の強い生命力から気付かされるこ
とは間々ある。

               

やはり、清々しない

2014年06月17日 17時16分31秒 | 日記

前回の書き込みから随分と経ったが、まだ生きている。
安倍が次から次へと繰り出す、あべこべ政策やら、カルト教団創価学会の
政治部門で平和の党を標榜していた公明党が案の定、集団的自衛権の行
使容認を認めるという茶番政治を見せられた上に、この梅雨空と相まって
喪失感やら怒りやらで惨憺たる思いでいたのだが、久しぶりにねちねちと
呟きたくなった。

支持率の向上、政権維持のためならできることは何でもやるという姿勢が
見え見えでそれをマスメデイアが応援するものだからお人好しの国民は見
事にだまされる。

何故、怒らないのだ、安倍に変わってから、国民の暮らしが良くなったか?
ガソリンを始めほとんどの物が値上がりして、暮らしぶりが近年で最も悪
くなっているのではないのか。消費税増税のどさくさに紛れて便乗値上げ
した物も多いと聞く。年収にしても一握りの大企業を除いて、ほとんどの
企業が増えてはいないだろう。可処分所得は減っているのだろう。安倍の
ミクスのまやかしに何故怒らないのだ。

竹中平蔵らが牛耳る産業競争力会議などがまとめた、政府の新しい成長戦
略の素案が出たが、あれなどは、全ては、大企業の為にするもので、決し
て労働者のことを考えている内容ではない。たとえば、残業代ゼロ制度に
しても、労働者が得るべき利益を経営者や株主に付け替えるもので、労働
者をただの物や機械と同じ扱いである。残業代をゼロにすれば、効率が上
がり、素晴らしいアイデアが生まれるが如く軽薄な安倍は言うが働いたこ
とがない者だから言えることなんだろうが。

法人税減税にしても、減税に対する手立てもないくせに、国際公約にした
り、経団連と約束をし、ご機嫌とりに励み、企業献金を強請る。

とにかく株価を上げて、アベノミクスが成功しているような偽装工作に余
念がない。
幼稚で軽薄な男に弄くり回されているこの国は、今は誰も為す術もなく、
失われた20年を更に継続するように益々、国民の悲惨は続くことになる。
 ぐちぐち書いてみたものの、まだまだ気が収まらないが、今日はこの辺ま
でにしたい。

ところで、先日、高橋敏夫氏のブログで、安倍の父方の祖父のことを故三
木武夫首相婦人の三木睦子さんの講演記録を読んで知ったが、母方の祖父、
つまり昭和の妖怪とは正反対の生き方をした、立派な方だったらしい。
 是非、紹介したいので、以下に転載します。


<転載開始>
「あなたのおじいちゃまはねぇ」
三木睦子(1917年〈大正6年〉7月31日 - 2012年〈平成24年〉7月31日)
 皆さん、御機嫌よう。多分初めてお目にかかる方ばかりと思います。
今日はずいぶん大勢の方にお集まりいただいて、ありがとうございます。
私は昔の育ちで、「女の癖に立ってものを喋るなんてことはけしからん」
という時代に育っておりますので、家の中では大声で喧嘩もするのですが、
こういうところへ来てお話しすることには慣れていません。聞こえにくか
ったら前へ出て来ていただきたいと思います。私は、来月で90になりま
す。皆さんのような新時代の方たちにお話しするのには、ちょっと話が古
すぎるかもしれません。古いだけじゃなくて、少し抜けているところが多
いと思いますけれども、お許しください。
 今日は、昔、私の親しんだ方のお話をしようと思って伺ったわけでござ
います。昔々、われわれ日本人は戦争をしておりました。周り近所に背を
向けて戦争をしていた。それで、なんとかして平和を取り戻さなければい
けないというのが、私の夫(三木武夫1907年〈明治40年〉3月17日 - 1988
年〈昭和63年〉11月14日)やそのお友だちの意見でございました。
 一所懸命平和を唱えていますと、官憲の目が光って、特高警察なんて言
うのが後を付け回すんですね。それで、それをまいて、真夜中になってか
ら家にいらして、こそこそっと握り飯など食べて、また、闇の中へ消えて
いくというようなお友だちもございました。でも私は、数少ないそういう
平和を願うお友だちは非常に大事にしなければならないと思って、真夜中
でも急いで何かお腹にたまるものをと心掛けていたものでございます。本
当に、本当に苦労して一所懸命に平和のために働いている方が多ございま
した。
 いま総理大臣をやっていらっしゃる安倍さんのおじいさまの安倍寛(18
94年<明治27年>4月29日- 1946年<昭和21年>1月30日)さんという人も、
本当に熱心に平和を説いていらしたのです。
 でも、安倍晋三さんが総理になるとすぐにその系図がでましたけれども、
安倍家の方は一つも書いてなくて、お母様のお里のことばっかり。岸家の
孫だとかなんとかって書いてあるんですね。私にとっては、どうも何かが
足りない。反対なんじゃないか、やっぱり、安倍さんの息子さんなのだか
ら、安倍さんのお父さま、おじいさまのことをもっと語るべきではないか
と思ったわけでございます。けれども、新聞はそれを書きませんでした。
そうなったのは、発表がなかったのではないかと思います。新聞社の人は、
そんなに嗅ぎまわってものを書こうという態度ではない、発表されたまま
を書く―ということは、安倍家の方はもうご先祖ではなくて、岸家だけが
ご先祖として堂々と繋がっているという感じだったのかもしれません。
 でも、私は、今の安倍総理のおじいさまと親しゅうございました。仲良
しにしていただいておりました。というのは、あの方は、一所懸命平和を
説かれたのです。日本中で、こんな戦争をしてはいけないのだ、平和でな
くてはいけないのだということを一所懸命説いていらっしゃいました。特
高警察などが後を付け狙って、演説会では何かっていうと、「弁士注意!」
なんて大きな声をお巡りさんがあげるんですね。でも、そんなことをかま
っちゃいないで、一所懸命、一所懸命、大衆に向かって、いま日本はどう
あるべきかということを説いていらした安倍寛さんという人の姿を思い浮
かべます。
 背がすらりと高くって、あんまり肉付きはよくなかったのですけれども、
がっしりした体つきの方でございました。安倍さんには奥さまがいなかっ
た。だから、ご自分でお家へ帰っても誰もいないから、夜遅くなって、
「ああ、お腹がすいた。奥さん頼む」なんて言って入っていらっしゃるん
です。私のところにいらっしゃれば、すぐ三木が迎えて、二人で非戦論を
語ることができるということで、よく来て下さったのですね。三木と二人
で戦争をしないためにどうしたらよいか、この戦争を避けるためにはどう
したらよいかということを相談しておりました。
 歳にすれば私と安倍さんは、幾つぐらい違ったんでしょうか、20歳ぐ
らい違ったかもしれません。立派な安倍寛さんのお話を聞いていると、お
っしゃることはとっても判りやすくて、すばらしい方に思いました。立派
なことをおっしゃっているなと思いながら、一所懸命聞いておりました。
そして、少しでもあるものを取っておいて、明日いらしたら、安倍さんに
食べさせたいと思ったぐらいです。
 というのは、その頃はだんだん食糧が少なくなっておりまして、なかな
か美味しい牛肉も手に入らないし、新鮮なお魚も手に入りにくくなってお
りました。少しでも栄養のあるものは、安倍さんのために、あるいは三木
武夫のために、そして夜中にこそこそっと食事をして、また闇の中に消え
ていく人たちのためにとっておきたかった。私は歳が大分隔たっておりま
したから、話が分かっているような、分からないような、なんでございま
すけれども、何かそうした方々のやることに共感を覚えるというか、敬意
を表して、せめてなんとかしてお腹の足しになるようなものをと思って、
一所懸命心掛けていたものでございます。
 安倍寛さんはいつもなんにも不服もおっしゃらずに、食べてすぐに、
「さぁ行こう」と言って、また闇の中へと消えておしまいになりました。
私は、ご苦労様たなあと思いながら、どうぞまた今晩、また明日っていう
ようにしてお見送りしたものでございます。あの方が、一旦口をついたら
本当に凛々しくて、素敵な演説をなさっているのはよく分かっておりまし
たから、安倍先生のいらっしゃる時には、本当にできるだけのことをして
差上げなければならないと思っておりました。
 安倍さんは奥さまもいらっしゃらず、孤独で一所懸命日本中を走り回っ
て、国民のために、あるいは、将来の日本ために働いた人でございます。
帝国議会の衆議院議員でしたが、1942年の翼賛選挙では、三木と同じく翼
賛政治体制協議会の推薦を受けずに当選し、当時の軍部主導の国会を厳し
く批判してがんばられた方です。それを、今の新聞社は何も書いてくれな
い。私はもう腹が立って仕方がありません。もっともっと新聞社の人がそ
こまで書いてくれれば、何も安倍さんの系図から岸家を抹殺されなくても
いい。おじいさまの安倍寛さんがこういう方だったということを、この平
和な日本をつくるためにどんなにかご苦労なさったのだということを、書
いてほしかったのです。
 いまの私たちに戦争も知らない本当に平和な時代を作ってくださったの
は、安倍寛さんだったと思うのですけれども、新聞はそれを一つも書かな
い。私は、新聞社の人は、若いから何も知らないんだ、どうしてこれを教
えてあげる人がいなかったのか、と考えてみました。でも、今や新聞社の
社長だってなんだって、みんな戦後に生まれた若い人ばっかりなのですね。
戦後60年ですから、そろそろ定年退職しなければならない人たちが新聞社
を支配している。それじゃどうにもならない。私は、少しでも声を大にし
て安倍寛さんのことを申し上げたい。でも、私もその頃は、ただ家の中の
用ばかりしていて、安倍さんの実績もなんにも存じあげません。それでも、
こういう人が立派な言葉で、国民のために平和を説いたことを、皆さまに
も知っていただきたいと心から思います。
 あの方は、本当に、姿形がそれは素敵な方でしたよ。背がすらりとして
ほんとに素敵な人でしたけれども、姿形以上に、言動が本当に立派だと思
いました。いいことをおっしゃる人でした。そして、決しておごることな
く、毎日、足を棒にして日本中に平和を説いたのです。いまのこの戦争は、
本当に日本人のとるべき戦争じゃないのだと、もっと平和でなければなら
ないのだということを一所懸命説いていらした安倍さんの姿を思い起こし
ます。
 三木も一緒に一所懸命働いていたには違いないのですけれども、早く世
を去られた安倍さんのことを考えますと、本当に残念に思われます。安倍
さんのお子さんも亡くなり、お孫さんは天下を取って総理大臣になってい
らっしゃるのに、おじいさまのことをご存じないのですね。生まれていな
かったから、それは当然です。当然だからこそ、他人の私でも、声を大き
くして、「安倍さん、安倍さん」って言わなければ、多分教えてくださる人
ももう殆どいないだろうと思うのです。安倍寛さんのことを思い描きなが
ら、教えてあげなくてはいけないとしみじみ思うのでございます。
 近々、私は大臣のお招きで―安倍さんのお招きじゃないんですね、あれ
は何大臣でしょうか、官邸へ行けることになっておりますので、その時に
うまく安倍総理にお目にかかったら、「あなたのおじいちゃまはねぇ」っ
て言って話をしたいと思うのでございます。
2007年6月9日、『9条の会』学習会の挨拶

三木睦子略歴
1917年7月31日千葉県に生まれる
1940年三木武夫と結婚
1941年に第1子、44年第2子を産み、戦火を避けて家族別々に生活。
1951年第3子誕生
1988年三木武夫氏逝去
国連婦人会など多くの団体の要職を務めると同時に、陶芸など趣味に親し
み、活動的な生活を送る。憲法9条改憲の動きに毅然たる態度で対峙し、
「9条の会」のほか「憲法行脚の会」の呼びかけ人も務めた。
2012年7月31日95歳の誕生日に死去
〈転載終わり〉