半農・半Xの生活

思いついたことを思いついた時に綴ります。

天は吾に味方せず

2013年07月30日 07時47分35秒 | 日記
先週予定していて雨で本日に順延した上高地の現地踏査を
やむなく本降りの中、実施した。
しかし、何とも間の悪いことだろう。それにしても今年の
気まぐれな読めない天気は何なんだ。梅雨明けした途端に
すっきりしない天気が続き、このところは梅雨の戻りのよ
うな感じだ。自然現象に毒づいてみたところで詮無いが。

上高地は、信州に住んでいる身ながら、一度も行ったこと
が無く、出来れば天気の良い時にということで、本日に延
ばしたのだが、朝から雨であったが、これ以上の延期が難
しいため、雨天決行したが、最悪の現地踏査に相成った。

青い空に突き抜けるようにそびえる山々、木々の緑を水面
に映す大正池などを想像しワクワクしていたけれど叶わぬ
夢となってしまった。
何とも運の無い男だこと、天も吾を見放したか(笑)
            
           空も水も鉛色の大正池

と雨の中、多くの国内外からの観光客がいたが、考えて見
るとお金を払って来ている彼らこそ可哀相な存在であって、
私などは、ある意味、会社からお金を貰って来ている身分
であるので、彼らよりは恵まれているではないかと同僚と
慰め合った。

不徳の致すところ?

2013年07月24日 08時57分35秒 | 日記
古い話題になるが、参院選挙は、予想以上の結果で終わった。

原因の主なものは
① マスメデイアのプロパガンダ
② 人からコンクリートへの利権に簇がる団体や経済界
などの組織票
③ 勝ち馬に乗る集団心理
④ 民主党への恨みによる反動
などなど

しかし、何時も思うのだが、公明党って政党なのだろか。どう見て
も創価学会=公明党だろう。この党から出れば、少し頭の回転が速
く、弁が立つ人間なら誰でも国会議員になれるということか。(笑)
 一方で小生が期待する、権力に真っ向から物を言う人達が国会の
場に戻って来られなかったことは残念・無念の極みである。

早晩、この結果から派生する現象は、我々の生活の中にキリキリとし
た痛みを伴って現れるだろう。国民の間に自覚症状が出た時には、手
の施しようの無い程の惨状になっているのだろう。
まあ、主権者国民が望んだ結果だから例え悲惨な結果になったとして
も自業自得ということだろう。
言いたくないけれど、被虐を好む浅慮な有権者が多いことか。最もそ
のことに気づかないことが問題なのだけれど。


先日、育児・教育ジャーナリストの おおたとしまさ氏のブログに考え
させられる記事があったので一部転載する。

(転載はじめ)
「投票率の低さは教育の結果」
投票率の低さは、今の日本の教育の「結果」でもあるといえると思う。
本来、教育の成果が現れるのは数十年後。
それなのに、日本では、「今すぐ、効果が得られる」教育が求められて
いる。
そういう価値観で教育をされれば、
「今すぐ、効果が得られない」ものには価値がないと思いこむ人が育つ
のは当然だ。
で、そういう人たちが選挙に臨むとどうなるか。
1票を投票しても、「どうせ何も変わらない」=「今すぐ、効果が得ら
れない」。だから、「投票しても意味がない」となる。
即効性を求める教育の結果である。
たしかに何も変わらない。
でもそもそも選挙とはそういうものだと思う。
選挙のたびに革命が起こるようでは、社会はもたない。
毎回毎回の選挙で、みんなが気付かないくらいの小さな変化が積み重なっ
て、数十年経ってから見ると、「あら、いつの間にかだいぶ変わったのね」
というくらいの時間をかけた変化が、社会の変化のしかたとしては望まし
いと私は思う。
たった1票で社会が動かせるわけではない。
1回の選挙で社会を変えるのではない。
選挙は革命ではないのだから。
-以下省略-

(転載おわり)

最後のおねがい

2013年07月20日 03時56分59秒 | 日記
いよいよ、明日に投票日が迫った。
候補者は、本日の午後八時まで、必死になって、自分の名前を連呼し、
最後のお願いをするのだろう。
このように、名前を連呼して、投票を依頼するようなやり方は、日本
固有のシステムらしく欧米人達から見れば非常に珍しくて剽軽に見え
るらしい。

確かに、車に乗って、「〇〇です、よろしくお願いします」とふれまわ
って、票が入るようなら苦労はないが、自分が候補者だったとしても、
きっとそうやるだろう。(笑)

投票する際の決めては、候補者の訴え、党の方針、顔、声、しがらみ等
様々あるのだろうが、結局は好き嫌いで決まってしまうのだろう。

ところで、今回の選挙は、マスメディアが垂れ流す情報によれば、与党
が過半数を優に越す勢いらしい。投票前にこのような事を言う意味は何
だろう。投票者に勝ち馬に乗るように促しているのか、それとも、だか
ら選挙に行っても無駄ですよと言っているのか。
仮に、マスメディアが望むような結果になった場合には、TPPの批准、
原発再稼働、沖縄基地の県内移設、憲法改正、消費税増税などが現実
味を帯びて来ることになる。
まあ、このことは、以前からしつこい程に書いているが、そら見たことか
言う悲惨な結末が到来することは想像に難くない。以前にも書いたように、
自業自得と言うことだろう。それは、それで、被虐的な立場を唯唯諾諾と
甘受することを厭わない日本国民には相応しい結果である。

もし、まだ、選挙に行っていない人がいたら分って欲しい。TPPのこと、
改憲のこと沖縄のこと、原発のことを良く考えて投票先を決めて欲しい。
安易に景気だ、株価などと、浮世離れした事柄に振り回されないで欲しい。
そのことが、小生からの最期のお願いであります。

プチ夏休み気分

2013年07月15日 23時59分26秒 | 日記
三連休の最終日、俳人一茶の足跡を北信州に訪ねた。
先ずは、生家がある信濃町にある一茶記念館とその近
くにあるお墓と俳諧寺を訪ねた。ボランテイアガイドさん
の説明を興味深く聴いた。ところで、信濃町と言えば
昔から“信州打刃物”で有名なので、昔行ったことが
町の物産館に行ってみたが、時代の趨勢か見る影もな
く、廃館となっていたので、道の駅“しなの”に行って
みると、連休のせいかかなりの盛況であった。
お目当ての刃物類は見当たらず、草取り鎌があったの
で、これを買い求めた。今度、ゆっくりと鍛冶屋さんを
訪ね、気に入った鎌を探してみたい。

その後、一茶とゆかりが深い高山村にある“一茶ゆかり
の里 一茶館”を訪ねた。一茶が高山村に長逗留した際
に使用したという豪農の離れ、“水石亭”も移築されて
おり、当時、彼は、多くの門人達に慕われていたことを
伺い知ることができた。
              
           屋根のギザギザは、一茶の波瀾万丈の人生を現しているらしい

次に、有名観光地の小布施に寄り、名物の栗おこわで昼食
をとり、「痩せがへるまけるな一茶是に有」で有名な岩松
院に行き、一茶が詠む時に眺めたと言われる池を見た。
このお寺は、何と言っても葛飾北斎の天井の八方睨み図が
有名で、この日も多くの観光客が熱心に観覧していた。

その後、一茶にゆかりのあると言う、須坂にある“豪商の
館 田中総本家”を訪ねた。広大で贅を尽くした造りに圧
倒され、ここまで成功するには、相当な運と智恵と財力が
必要だったのだろう等と不純な思いで往時を偲んだ。
しかし、生憎と一茶ゆかりの物は不明であった。
          
        屋根が一定勾配ではなく曲線が施されている  

さすがに、1日に4箇所も巡ると疲れたので、畑仕事でも
して疲れを癒やそうと畑に直行して、早速購入した草取り
鎌を試したが、用途が限られそうであった。

このプチ一茶ツアーは、一茶の没後180余年も経過して
も、未だ、多くの人に影響を与えている彼の功績と壮絶な
生き様をあらためて、確認することができた。
まだ、信州にはゆかりの地が数多くあるので、今度は少し
涼しくなったら、吟行を兼ねて訪ねてみたいと思う。

自業自得

2013年07月12日 09時27分39秒 | 日記
どうやら、日本の終焉となる7月21日に向けて、時限爆弾の秒針の如く
刻一刻と時が刻まれている。
この選挙が、今後の日本に行方を大きく左右するターニングポイントに
なるかも知れない。
近い将来、あの時に取った無知や無関心から来る行動から取り返しのつ
かないことになってしまい、後悔先に立たずという思いをする人も少な
からずいるかも知れない。しかし、多くの国民がマスメデイアの評論よ
ろしくアベノミクス(アホノミクスと識者に呼ばれている)が評価され
たんだと感じるだけかも知れない。或いは、ねじれが解消されて良かっ
たなどと思うかも知れない。そのことの重大さに気づきもせずに。

コイズミ構造改革の郵政選挙よりはるかに重要な選挙だと言うのに、
ほとんどの国民は、能天気に構えており、やがて訪れるであろう様々な
棄民政策による困窮であったり、懐古主義的で王政復古的な憲法であっ
たり、地域のコミニュテイーの消滅だったり等々、気づいて慌てふため
いても二進も三進も行かない状態に陥いることが想像できないのだろう。

毎度、書いていることだが、この国の国民は、既得権益者がやろうとし
ていることに対して、真剣に考えられないし、此の国の行き先、延いて
は自分や家族の将来のことなど考えられないのだろう。

ここへ来て、全てのお任せの弊害が出ている。政治家にお任せ、行政に
お任せ、司法にお任せ、彼らの為すことにあまり関心や疑問を持たずに
やってこれた右肩あがりの経済成長の時代は、自分達が毀損するものに
頓着しなくてもそれは良かったかも知れない。ましてやマスメデイアは、
既得権者の代表であり、プロパガンダである訳で、マスメデイアが垂れ
流す情報を金科玉条のごとく何の疑いも持たずに信じ込み洗脳され続け
てきたツケがきている。

「ギブミーチョコレート」の時代から、米国の為すこと全てに畏敬し、
憧れの存在で、追いつけ追い越せでやってきた。先の大戦で非戦闘員の
30万人以上が虐殺された相手であるにも関わらず、戦争を早期に集結さ
せるためには、あの原爆投下は仕方なかったなどと言い出す始末である。
実際は、蔑むべく劣等国日本人、イエロー・モンキー達の住む国だから、
米国の都合や思惑で投下された、原爆なのに。テレビ、スポーツ、セッ
クスの3Sで洗脳、去勢され国民の矜恃や誇りさえ持てずに今に至って
いる。
未だに、あの負け癖や卑屈なまでの米国への忖度で、彼らとの交渉では、
負け犬よろしく尻尾を巻き、振り、国民が手にすべき巨万の報酬や財産
を彼の国の富に付け替えてきた。
以来、市場原理、グローバリズムなるものの波に抗うことも出来ずに、
結いの文化に見られるような、共生の文化を失いつつあり、正に壊国に
向かっている。
「日本を取り戻す」などと、意味不明なことを宣っているが、彼は、彼
らは何をだれの為に取り戻そうと言うのか。よもや、「日本を米国に差
し出す」の誤りではないことを祈る。
 
内田樹氏のブログに脱グローバリズムについて目から鱗の記事があった 
ので長いですが以下に転載します。

 (以下転載)
今、私たちの時代はグローバリズムの時代です。世界は急速にフラット
化し、国民国家のもろもろの「障壁」(国境線、通貨、言語、食文化、
生活習慣などなど)が融解し、商品、資本、人間、情報があらゆる「ボー
ダー」を通り越して、超高速で自由自在に行き来しています。このままグロ
ーバル化が進行すれば、遠からず国民国家という旧来の政治単位そのもの
が「グローバル化への抵抗勢力」として解体されることになるでしょう。
国民国家解体の動きはもうだいぶ前から始まっていました。
医療・教育・行政・司法に対する「改革」の動きがそれです。これらの
制度は「国民の生身の生活を守る」ためのものです。怪我をしたり、病
気をしたり、老いたり、幼かったり、無知であったり、自分の力では自
分を守ることができないほど貧しかったり、非力であったりする人をデ
フォルトとして、そのような人たちが自尊感情を持ち、文化的で快適な
生活を営めるように気づかうための制度です。ですから、これらの制度は
「弱者ベース」で設計されています。当然、それで「儲かる」ということ
は本質的にありえません。
基本「持ち出し」です。効率的であることもないし、生産性も高くない。  
でも、この20年ほどの「構造改革・規制緩和」の流れというのは、こう
いう国民国家が「弱者」のために担保してきた諸制度を「無駄づかい」で
非効率的だと誹るものでした。できるだけ民営化して、それで金が儲かる
システムに設計し直せという要求がなされました。その要求に応えられな
い制度は「市場のニーズ」がないのであるから、淘汰されるべきだ、と。  
社会制度の適否の判断は「市場に委ねるべきだ」というこの考え方には、
政治家も財界人もメディアも賛同しました。社会制度を「弱者ベース」か
ら「強者ベース」に書き替える動きに多くの国民が喜々として同意署名し
たのです。  
それがとりあえず日本における「グローバル化」の実質だったと思います。
社会的弱者たちを守ってきた「ローカルな障壁」を突き崩し、すべてを「市
場」に委ねようとする。  
その結果、医療がまず危機に陥り、続いて教育が崩れ、司法と行政が不可
逆的な劣化過程に入りました。現在もそれは進行中です。この大規模な社会
制度の再編を通じて、「健常者のための医療、強者のための教育、権力者に
仕えるための司法と行政」以外のものは淘汰されつつあります。
驚くべきことは、この「勝ったものが総取りする」というルール変更に、
(それによってますます収奪されるだけの)弱者たちが熱狂的な賛同の拍手
を送っていることです。国民自身が国民国家の解体に同意している。市民た
ち自身が市民社会の空洞化に賛同している。弱者たち自身が「弱者を守る制
度」の非効率性と低生産性をなじっている。倒錯的な風景です。 「みんな」
がそう言っているので(実際には自分の自由や幸福や生存を脅かすようなも
のであっても)ずるずると賛同してしまう考え方というものがあります。
マルクスはそれを「支配的なイデオロギー」と呼びました。グローバリズム
は現代における「支配的なイデオロギー」です。
人々はそれが自分たちの等身大の生活にどういう影響を及ぼすのかを想像し
ないままに、「資本、商品、人間、情報があらゆるローカルな障壁を乗り越
えて、超高速で全世界を飛び交う状態」こそが人類がめざすべき究極の理想
だと信じ込んでいます。どうしてそんなことが信じられるのか、僕にはよく
わかりません。  
高速機動性が最高の人間的価値だとみなされるような世界においては、機動
性の低い人達は最下層に分類されることになります。
この土地でしか暮らせない、この国の言葉しか話せない、伝統的な儀礼や祭
祀を守っていないと不安になる、ローカルな「ソウル・フード」を食べてい
ないと生きた心地がしない……そういったタイプの「地に根づいた」人たち
は、グローバル社会では最底辺の労働者・最も非活動的な消費者、つまり
「最弱者」として格付けされます。能力判定の基準が「機動性」だからです。
グローバル化というのは「そういうこと」です。自家用ジェット機で世界中
を行き来し、世界中に家があり、世界中にビジネスネットワークがあるので
「自分の祖国が地上から消えても、自分の祖国の言語や宗教や食文化や生活
習慣が失われても、私は別に困らない」と言い切れる人間たちが「最強」に
格付けされるということなのです。  
もちろんそんな非人間的なまでにタフな人間は現実にはまず存在しません。
でも、それが「高速機動性人格」の無限消失点であり、グローバル社会にお
ける格付けの原基であることに変わりはありません。 あるグローバル企業の
経営者が望ましい「グローバル人材」の条件として「英語が話せて、外国人
とタフなビジネスネゴシエーションができて、外国の生活習慣にすぐ慣れて、
辞令一本で翌日海外に飛べる人間」という定義を下したことがありました。
まことに簡にして要を得た定義だと思います。これは言い換えると、その人が
いなくなると困る人がまわりに1人もいない人間ということです。
「グローバル人材」であるためには、その人を頼りにしている親族を持って
はならないし、その人を欠かすことのできないメンバーに含んでいる共同体
や組織に属してもならない。つまり、その人が明日いなくなっても誰も困らな
いような人間になるべく自己陶冶の努力をしたものが、グローバル企業の歓迎
する「グローバル人材」たりうるわけです。  
これは「地に根づいた」生き方のちょうど正反対のものです。「地に根づいた
人」とは、その人を頼る親族たちがおり、その人を不可欠のメンバーとして機
能している地域の共同体や組織があるせいで、「私はこの人たちを置き去りに
して、この場所を離れることができない」と思っている人間のことです。
そういう人間はグローバリズムの世界では「望ましくない人間」であり、それ
ゆえ社会の下層に格付けされることになる。  
繰り返し言いますけれど、どうして日本人たちがこんな自分たちに圧倒的に不
利なルール変更にうれしげに賛同したのか、「支配的なイデオロギー」の発揮
する魔術的な効果ということ以外に私には理由が思いつきません。
(転載おわり)


いずれにしろ、いずれ批准されてしまうであろうTPPによって市場原理主義の
餌食にされる社会的共通資本の破壊によってこの国は、貧困大国への凋落の道を
歩まされることになる。それは、被虐的な言い方だが、自業自得というこ
とだろう。