結婚の翌年、兄が生まれ、その5年後に私が、さらに5年後に弟が
生まれた。
父と母は、貧農の故にとにかく働きに働いた。
祖父は、ことある毎に戦死した長男と父を比較しては、「一郎(仮名)
が生きていればなあ」とあからさまに父の前でぼやいて見せたらしい。
それに加えてかなりショックキングなエピソードもあったと、この正月
に話して聞かせた。
ある日、祖父と植木屋との会話で、「二郎(仮名)よりも、この松の方
が大事だ」と祖父が臆面も無く話しているのを近くで聞いた父は、相当な
ショックを受けたらしい。
それでも、父はそんなことをバネにさらに働いた。現金収入を得るため
に農耕用に飼っていた牛を泊まりがけで連れて、山奥の伐採した木を土場
まで引き出す土引きという仕事もやった。
弟が生まれた時は、父にそのことを伝えるために、近所の電話があるお宅
まで5歳の私が走ったことをおぼろげながら憶えている。
その後、我が家は農地を開墾したり、買い求めたりして、かなりの耕作面積
となった。作物は米から得られる収入は僅かなので、りんご、白菜、レタス、
花卉、薬用人参など様々な作物を試みたが最終的には、花卉と薬用人参に
しぼった。後に、農林大臣賞など数々の賞を受賞するまでに至った。
その間の研鑽、努力は並大抵では無かった筈だ。
その影には母の大きな内助の功があったことは言うまでもない。
生まれた。
父と母は、貧農の故にとにかく働きに働いた。
祖父は、ことある毎に戦死した長男と父を比較しては、「一郎(仮名)
が生きていればなあ」とあからさまに父の前でぼやいて見せたらしい。
それに加えてかなりショックキングなエピソードもあったと、この正月
に話して聞かせた。
ある日、祖父と植木屋との会話で、「二郎(仮名)よりも、この松の方
が大事だ」と祖父が臆面も無く話しているのを近くで聞いた父は、相当な
ショックを受けたらしい。
それでも、父はそんなことをバネにさらに働いた。現金収入を得るため
に農耕用に飼っていた牛を泊まりがけで連れて、山奥の伐採した木を土場
まで引き出す土引きという仕事もやった。
弟が生まれた時は、父にそのことを伝えるために、近所の電話があるお宅
まで5歳の私が走ったことをおぼろげながら憶えている。
その後、我が家は農地を開墾したり、買い求めたりして、かなりの耕作面積
となった。作物は米から得られる収入は僅かなので、りんご、白菜、レタス、
花卉、薬用人参など様々な作物を試みたが最終的には、花卉と薬用人参に
しぼった。後に、農林大臣賞など数々の賞を受賞するまでに至った。
その間の研鑽、努力は並大抵では無かった筈だ。
その影には母の大きな内助の功があったことは言うまでもない。