半農・半Xの生活

思いついたことを思いついた時に綴ります。

母に思うこと

2012年02月07日 08時06分37秒 | 日記
母親が認知症と宣告されてから10年が経った。
当時は、母の行く末をある程度想像はできた。それが、今まさに現実のものとなっている。

母はとにかく、しっかり者で、目配り、気配りができた人だった。
貧農に嫁いで来たから、野良では朝から晩まで牛や馬のように働き、家では、妻、母親、嫁として忙しさに明け暮れた。
それでも、本を読んだり新聞は隅々まで読むような忙しい農家の主婦にしては珍しく勉強家な一面もあった。

そんな母も今では、我が子の顔や名前は記憶の片隅にもない。全くの別人としてそこに居る。

先週末、施設に母を訪ねてみた、いつものとおり私の顔を見るなり「先生」と呼んだ。そして「先生は良くしてくれて有り難い」などと言った。私を施設の職員と思ったなのだろう。

いつものことながら、そこには母子としての愛情に満ちた会話はなく、ただ一方通行の親子関係しか存在しない。

認知症は新しい事から忘れる病気であるが、古い事は覚えていて母の過去の人生の取っ掛かりに辛うじてなっている。母は、子どもの頃の生家や近所の風景が頭に刻みこまれているらしく、そこの地名を呼びながら「帰るから連れていけ」と言う。
今度、行こうと言い納得させるが、暫くすると思い出したように行きたいと言う。
実際に生家に連れていったこともあったが、母の思い描いているその風景はある筈もなく、こんな所ではないと大いに機嫌を損ねている様子だった。

幸いにも母がお世話になっている施設は、入所者の身になってよく面倒をみてくれるので心底有り難い。以前に世話になっていたK園は、入所者を金づる同様にしか扱っていなかっただけに対応は雲泥の差である。

いつも思う、母の人生は果たして幸せだったのだろうか、今は幸せなのだろうかと。
子どもとしては、幸せだったと思うし、今も幸せであって欲しい。そして今を精一杯生きて欲しいと願うのみである。

禅に『安身立命』という言葉があるらしい。
それは、

人生に定年はありません
老後も 余生も ないのです
死を迎える その一瞬までは
人生の現役です
人生の現役とは
自らの人生を悔いなく生き切る人のことです
そこには「老い」や「死」への恐れはなく
「尊く美しい老い」と「安らかな死」があるばかりです
という意味らしい。


母には人生を全うしてもらいたい。人格(?)は変わったかも知れないが、母は母なのだから。