ドイツ人捕虜収容所の歴史を大事にする徳島県・鳴門市
第一次大戦の時、日本に連れて来られたドイツ人捕虜について、当時の日本は「国際法を遵守(じゅんしゅ)する文明国として列強に認められ」ようと、比較的人道的に扱った、と言われます。
特に会津(あいづ)出身の「松江豊壽(まつえとよひさ)」が所長を務めた鳴門市の板東収容所と、13年間ドイツ留学もしていた「西郷寅太郎(さいごうとらたろう)」(西郷隆盛の嫡男)が所長を務めた習志野収容所には多くの共通点があり、良く比べられます。
板東収容所のビデオ
その板東収容所について徳島新聞の藤長さんが語るビデオをYou Tubeで見ることができます。
徳島大学オンライン講座のこのビデオ、ちょっと長いですが、習志野市民にとってもとても興味深い話がたくさん出て来ます。
ビデオの中で紹介されたドイツ人と日本人の交流
洋菓子づくりを学ぶ婦人会の人たち
徳島オーケストラ
捕虜の子孫の人たちと一緒に「第九」合唱
ドイツ兵捕虜に囲まれた松江所長(真ん中で和服を着たヒゲの紳士)
敗者に心を寄せる2人の所長
板東収容所の松江豊壽所長は、明治政府によって「賊軍」とされた会津出身
習志野収容所の西郷寅太郎所長の父親、西郷隆盛も「西南の役」で明治政府と戦い、「賊軍」として非業の死をとげました。
2人とも「賊軍」側の人間だったため、「敗者への温かいまなざし」を持って捕虜の人たちに接した、と言われています。とりわけ西郷所長は13年にわたりドイツ留学していた経験もあり、「圧倒的劣勢の中最後まで戦い抜いた」ドイツ兵へのリスペクトの気持ちを持っていたのではないでしょうか。
習志野収容所でも、日本人との交流、スポーツ、コンサート
習志野収容所でも板東収容所と同じく、住民との交流が行われ、スポーツやコンサートを楽しんでいました。
収容所の歴史を大事にする鳴門市
➀鳴門市ドイツ館
鳴門市ドイツ館|徳島県鳴門市『第九が日本で初めて演奏された地』
➁映画にもなりました(「バルトの楽園」)
➂ドイツのテレビでも、捕虜の子孫と鳴門市民が歌う「第九」が取り上げられました
収容所の歴史に関心を示さない習志野市
一方習志野市は歴史の保存にあまり関心を示さず、収容所の写真を市で購入、保存しようともしないため、千葉県日独協会が習志野市のかわりに写真を購入してくれたり、鳴門市ドイツ館が習志野収容所の写真を保存してくれたりしています
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ポツンと立つ「ドイツ捕虜オーケストラの碑」
ドイツ人捕虜収容所跡を偲(しの)ぶもの、と言えば、東習志野四丁目児童遊園の中にポツンと立つ「ドイツ捕虜オーケストラの碑」だけ。目立たないので、そばを通る人もあまり気づきません。
市長がドイツまで行って捕虜の子孫との交流を今も続ける鳴門市。一方歴史や文化に無関心な習志野市の宮本市長。
こうして市長の姿勢一つで習志野市の大事な歴史が消されていく現状、残念でなりません。
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貴重な「高輪築堤」も開発を進める側にとっては邪魔者でしかありません。工事を止めれば1日いくらで金利負担がのしかかる。それを補償せずに文化財保護などと言われてもおかしい。コロナ対策の無策と同じだ、
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