住みたい習志野

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八五郎の時空旅行:都を追われた藤原氏の一行、船で菊田川(三代川)をのぼり、二宮神社に行った

2022-02-12 00:54:10 | 歴史

ご無沙汰しています。八五郎です。1年半前に

八五郎の時空旅行:鷺沼源太と藤原氏の言い伝え - 住みたい習志野

という投稿をしましたが、今回はその続きです。

都を追われた藤原氏の一行、船で菊田川(三代川)をのぼり、二宮神社に行った

 

河口にできた船橋の湊(みなと)と習志野の久々田(くぐた)浦は地形が似ている

「船橋市史談会」27号 2007.3の、「夏見潟を巡る湊と船橋大神宮の関わりについて」(長谷川芳夫)の中に、こんな記述があります。

 かって船橋の海老川の河口の”夏見”(南津海)には南津海潟が広がり鎌倉時代にこの湊から地方への交易があったことが記録されている。

一方菊田川(三代川)の河口にあった”久々田浦”は、この夏見潟の地形形成上(大小の差こそあれ)大変良く類似している。

河口の右に船橋は”湊町”が、一方習志野の久々田浦には”神之台”(遠山サイクルの角から国道14号に向かい、左に下っていく途中の場所)を中心とした砂丘が形成されている。

『沿線散歩 ㊱ 神之台』

菊田川、昔は船で航行ができた

つまり、かっての(平安末期~鎌倉)久々田浦も三代川(菊田川)の河口も広く、船の航行ができたと考えられる。従って船で姉埼(あねがさき)から久々田浦を経て、三代川を遡上して二宮神社の近くまで往来できたと言える。
だから
八五郎の時空旅行:鷺沼源太と藤原氏の言い伝え - 住みたい習志野
でご紹介した「昔は船で姉埼から七年祭りに来ていた」との古老の話は、事実に基づいた話、と考えられます。

(青い細い線で描いたのが菊田川、これを伝って船で二宮神社までさかのぼって行った藤原氏の一行)

鷺沼は更級日記(さらしなにっき)で「浮島」と呼ばれた場所

 東京湾の最も奥の地、およそ20メートルほどの台地周辺にある鷺沼地区は、古代より人が住み、古墳のある、市内で最も古い土地柄である。

 その昔、律令国家の成立で都城を中心に定められた七道(国道)の一つ、東山道の駅”浮島”(更級日記)の置かれた地です。

遠くから鷺沼の城址公園(緑のこんもりした所)を見ると、なるほど、浮いた島のように見えます

源頼朝が挙兵した鷺沼の旅館

(国府から国府まで四里―16キロ、ほぼ直線)また源頼朝が東国の千葉の武士団を集結し、武家政治の旗揚げをした「鷺沼の旅館」(吾妻鏡)、この武士団がなければ武家政治は開かれなかったのではないか、と考えられます。

戦国時代には鷺沼一族の兵站だった鷺沼

 そして、戦国時代、安房の里見氏と相模の北条氏の攻防を繰り広げた時の兵站(へいたん)として、人馬の行き交う騒然とした舞台になった土地
八五郎の時空旅行:国府台合戦と鷺沼一族(兵站だった鷺沼城) - 住みたい習志野

大正時代に伊藤飛行場が作られた鷺沼海岸

そして明治44年(1911)民間飛行機の日本初飛行を成し遂げた奈良原三次(ならはら さんじ)の助手となった伊藤音次郎(いとうおとじろう)氏が、大正時代に伊藤飛行場をつくったのが鷺沼海岸。鷺沼は、大空に夢をかけた民間航空発祥の地として、空の英雄たちが時代を駆けぬけた、由緒ある土地柄でもある。

今は古墳が一基と、畑の中の「殉空の碑」だけ。その碑も鷺沼開発でどうなるかわからない

しかし今は古墳が一基と、「殉空の碑(じゅんくうのひ)」が畑中に一つあるだけです。何もないのです。そしてその碑も鷺沼再開発でどうなるかわからない、という惨状です。

貴重な遺跡がまた潰(つぶ)される?(鷺沼区画整理事業) - 住みたい習志野

山縣飛行士殉空の地(やまがたひこうしじゅんくうのち)碑

「文教住宅憲章」の理想はどこへ行った?

かって習志野市の先人が「文教住宅都市憲章」なる理想を高らかに掲げた志は全て忘れ去られてしまいました。

習志野市の歴史の原点とも言える鷺沼の数々の歴史を振り返ると、「これでいいのか」とふつふつと義憤が湧き、限りなく寂しい思いでいる一人です。

 以上、文献を研究し、学習した訳でもなく、手元の資料を頼りに、余命幾許もない歴史好きの老人の嘆きにすぎませんが、習志野市の旧市庁舎のある台地の歴史を心にとめておいていただければと考え、一語一文に迷いながら綴ってみました。ご一読いただけましたら幸いです。(八五郎)

 

 

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1 コメント

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八五郎の時空旅行ー都を追われた藤原氏の一行 (佐藤 純一)
2022-02-13 17:12:44
 八五郎の時空旅行を楽しく読ませて頂いています。「鷺沼城」が、NHK「鎌倉殿の13人」にどのような形で出てくるのか、興味を持って見ています。もともと習志野の地元で育った身でないので、習志野の歴史には詳しくはないのですが、70歳を過ぎて、長らく習志野で暮らしていると、この土地がどういう歴史をもった土地なのか興味があります。
 江戸時代、大名の領地の中心で城郭を有する街には、城が残っていたり、藩校の後が高校や大学になっていたり、街づくりができていたり、独特の文化を有していたり、今でもその地方の中心地として重要な役割を果たしている都市が多いですよね。東京(江戸)、大阪、水戸、仙台、福岡、金沢、松江、高松、熊本など。習志野には、明治以降、陸軍施設がありましたが、江戸時代の雄藩のような街づくりがありませんでした。市役所は、ちょうど習志野市の中心部にあり、鷺沼城址公園がすぐ隣にあり、何とか整備をして、習志野の歴史の中に織り込んでほしいですね。周りには住宅もあり、山全体を城址公園にすることは難しいと思いますが、その一部を削って、市庁舎跡地の市有地を整備しているのはどうなんでしょうか。歴史観がないようにも思えます。残念。もう少し、配慮が欲しかった。山全体を文化的な財産として利活用して、残すことはできないものでしょうか。
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