住みたい習志野

市内の情報を中心に掲載します。伝わりにくい情報も提供して行きます。

八五郎の時空旅行:鷺沼源太と藤原氏の言い伝え

2020-08-20 18:38:12 | 歴史

「ニート太公望」さんの「習志野歴史散歩」シリーズ、ご好評をいただいていますが、今回からは習志野の長老「八五郎」さんが新たに歴史談議に参戦。独自の切り口で習志野の歴史を語ってくれます。題して、「八五郎の時空旅行」シリーズ。「習志野歴史散歩」と合わせてお楽しみください。
今回のテーマは、

鷺沼源太と藤原氏の言い伝え
※テーマが重なる
習志野歴史散歩:室町時代、30年も続いた関東の内戦と七年祭の起源 - 住みたい習志野
の記事もご参照ください。

藤原師高(ふじわらのもろたか)本人は習志野市に来ていないが、その一族が習志野に流れ着いた

藤原師高という人は、お寺を焼き討ちした罪で島流しにされ、最後は処刑されてしまった人です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E9%AB%98

 

 その藤原師高の一行が習志野の久々田浦に漂着し、鷺沼源太光則(さぎぬまげんたみつのり:千葉氏の家臣)が迎え、その後、菊田神社を経て三山神社まで送った、との話が伝承されているが、これは後々の付会(こじつけ)である、ということが、次の二つの理由で納得できる。

1 師高は尾張に、弟、師経(もろつね)は備後(びんご:広島県東部)にそれぞれ配流(島流し)されている、という史実が「玉葉集」という本に書いてあり、二人は久々田浦に来ていない。

この流罪のいきさつは、

 兄の藤原師高が加賀の守(かがのかみ)の頃(治承元年)その目代(もくだい:代理人のこと)をしていた弟師経が、加賀・白山(はくさん)の湧泉寺(ゆうせんじ:日吉[ひえ]神社の末社)の僧といざこざを起こしその坊舎を焼き払って京へ戻ってしまった。

 この暴挙を本社の日吉神社に訴え、後白河法皇はやむなく二人を流罪にした。というのも彼らは「白山事件」の当事者だからです。

2 また藤原師高、師経兄弟の父師光(もろみつ:僧としての名は西光[さいこう])は、この2か月後、藤原成親(なりちか:伯父)及び僧俊寛(しゅんかん)らと平家打倒の謀議を鹿ケ谷(ししがたに:俊寛の別荘)でしたことが(密告により)発覚し、この首謀者として成親は備中(びっちゅう:岡山県西部)に配流、師光は斬殺された、との説もある。

この「鹿ケ谷事件」の史実がある。

以上2つの理由から、師高が習志野に来た、とは考えられない。

 では、久々田浦に漂着した者はだれか?

 この藤原一族は歴史上の大事件の首謀者であり、それぞれ処断された悲運によって都(みやこ)を追われるように、上総(かずさ)の方に船で逃れてきたのではなかろうか。

 その船旅の途次、運悪く暴風にあい、これを避け、やむなく久々田浦に漂着した(東京湾の潮流は西から東に流れる)

 途中、もう一つの一行(師高、師経の姉の一行、とも言われる)の船を見失い、その安否を気づかいながら、自分たちはなんとか漂着したことを知らせるために、久々田浦の小高い砂丘(の一角)から焚火を焚いた

 そして苦難の船旅であったが、この久々田浦に安着できたのは、他ならぬ神の加護と感謝し、神之台(火ノ口)と言われるようになったのではないか。

 この一行の騒動を、河口の台地に館を構えていた鷺沼源太光則の一族が知り、村人と共に「都」の高貴な藤原家一行を歓迎し、菊田神社(久々田大明神)を経て川(菊田川)をさかのぼり、二宮神社まで案内したのではないか。

(青い線が「菊田川」で、この川をさかのぼり、久々田から二宮神社まで藤原氏一行を案内した。地図は明治15(1882)年のもの)

 この時、途中ではぐれた他の一行は、おそらく目的地の上総の地に辿り着いていた。

 この不幸中の幸いを喜び、かねてより崇敬していた藤原一族の誇り、藤原時平(ときひら)を複数の神社が祀り、安着した他の一行とも交流を深め、七年祭りへの参加へと繋がって今に至っている、と考えられる。

 

 なお「姉埼神社は、船で久々田浦を経て七年祭りに参加していた」という古老の話があるが、当時の地形から(枝状の入江が広がっていた)説明できると考えている。

 

藤原一族の系譜

 

 藤原一族は四家あり、「房前(ふささき)」の北家(ほっけ)が繁栄した。この北家には更に四家あり、時平(ときひら)は「真楯(またて)又の名は八束(やつか)」が祖である。師光一族は「魚名(うおな)」が祖である。
 したがって時平と祖先は一緒だが、直系ではない。

 

 時平神社

 菅原道真(すがわらのみちざね)を大宰府に左遷させた時平(延喜九年―九〇九年、39歳で没す)は道真の祟(たた)りで死んだ「悪役」にされ、その時平を祀(まつ)る神社は全国でも珍しい。一方菅原道真を祀る「天満宮(てんまんぐう)」は全国各地にある。

出典

1 習志野市史 1

2 史料が語る千葉の歴史 千葉県高等学校教育研究会歴史部編

3 七年祭り 九社が寄り合う安産子育て祈願の大祭り(氏子版) 七年祭り保存會 平成25年

4 語り継ぐふる里 三田歴史研究会

(八五郎)

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 習志野歴史散歩:騎兵旅団の... | トップ | 石川佳純、習志野高校吹奏楽... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。