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住みたい習志野

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習志野ドイツ人捕虜収容所にいたユーバー先生

2021-09-06 23:22:44 | 俘虜収容所

8月31日に「ドイツの雑誌に習志野ドイツ人捕虜収容所の記事」という投稿がありました。

ドイツの雑誌に習志野ドイツ人捕虜収容所の記事 - 住みたい習志野

「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者Hさんが、この習志野ドイツ人捕虜収容所のことに触れた次の手記を紹介してくれました。

ユーバーシャール先生の思い出、ベルリンの壁   岩本 晢

http://grosslehrer.web.fc2.com/06.5.22_ueberschar.htm

(以下はその抜粋です。小見出しはブログ編集部でつけさせていただきました)

ユーバー先生は、第一次世界大戦に兵士として出兵し、捕虜収容所にいた

 我々が一年生の時に日本人のドイツ語の先生にこのユーバー先生の人となりを聞いたら、「第一次世界大戦に兵士として出兵し、捕虜収容所におられ、通訳もしておられた」と言う話を聞いて、「へーっ」と驚愕したが、それ以上は聞かなかった。先生自身の口からは捕虜収容所の話は一度も聞かなかったような記憶である。同先生は旧制・新制甲南高校、甲南大学を中心として大阪医学専門学校、大阪医大(両者は大阪大学医学部の前身である)、大阪大学、神戸大学、京都大学で永年教鞭を執られて、1970年頃に神戸で亡くなられた。初来日以来約60年の滞在であったが、1933年~40年にドイツに帰国され、自分の出身大学 ライプツィヒ大学の日本学講座開設、運営責任者になっておられた。
 同先生は声が大きく、満場をうならせる声の持ち主であり、高等学校の卒業式の茶話会では一席話をされるのが通例であった。1953年春の我々の新制甲南高校の第三回卒業式での同先生の話を私は未だに忘れられない。「卒業おめでとう」という簡単な祝意の後に堅物の同先生の口から「今の日本は一人の天皇、一つの国旗を持っているではないか。しかし僕の祖国は東西に分裂して、事毎にいがみ合っている。慨嘆に堪えない」という話が飛び出した。この話を聞いた数ヶ月後の617日に東ベルリンで暴動が起こり、ソ連軍戦車に投石で抵抗する市民も出てきた。この暴動はこの東ベルリンだけではなく、東独全土に広がり、アデナウアー首相も急遽ボンから西ベリリンに到着し、盛大な葬儀が行われた。現在でも西ベルリンの最も有名な場所、Brandenburger Torの西側は「617日通り」と言う公式の道路名になっており、その側に「ヒロシマ通り」もある。

「メシメシ オイシイデスカ」と声をかけてきたドイツ人
 1959年秋以降に私はベルリン工業大学に日独交換留学生として留学していた。1962年末に故あって私はドイツのMarburg市の有名なElisabetenkircheの前庭でお握りを食べていたら、そこへ初老のドイツ人がやって来て、「メシメシ オイシイデスカ」と言い出した。こんな所で日本語が聞けるのもビックリであり、いろんな話をしていたら、「僕は習志野の捕虜収容所にいた」と言うから、私は「僕の先生も捕虜収容所におられた」と言うと、「その先生の名前は?」と聞くので、「Überschaarと言う方です」と言うと、「憶えている、憶えている。今度帰ったら、僕の話をしてくれ。僕は○○○○という」と言って分かれた。その半年後に神戸で同先生に会って、この話をしたら、感慨深げであった。
 1961813日に東西ベルリンの間に壁ができて、東西交通を遮断し、東西ドイツ国境にも壁、有刺鉄線を張り巡らせるようなことが起こり、余りにも衝撃的事件だったので、私はこの日午後にBrandenburger Torへ行って、その物々しい光景を知って、ただ唖然とした。いつこの壁が落ちるか、一日でも早くに落ちることを願っていたが、一向に落ちる気配はなく、ますます高く、険しくなった。1987年にベルリンに行った時にも壁は厳然としてあり、がっかりしたが、198911月にこの壁が一気に崩壊した。このニュースを聞いた時には思わず涙が出た。これでヨーロッパに平和が来ると思ったら、堪らなく嬉しかった。壁を作ってまで自分達の体制を維持しようとするなどは愚の骨頂である。その後に東欧の社会主義体制の総崩れが起こり、冷戦も終了した。
 
ユーバー先生は国家間の紛争に頭を痛めておられたせいか、Goetheのこの詩をよく授業で教えられた。
  Gottes ist der Orient,         東洋は神の物なり、
  Gottes ist der Okzident,        西洋も神の物なり、
  Nord- und südliches Gelände      北の地も南の地も
  ruht im Frieden seiner Hände.     そのみ手の平和の中に憩うなり。(了)
 
以上が岩本さんの文章ですが、「メシメシ」について、Hさんはこう付け加えています。
 
メシメシ

「メシメシ」は「もしもし」だったかも知れないのですが、もう一つ「モシェモシェ」だったかも知れず、モシェモシェというのはマールブルクの方言で「やぁ、どうも!」といったことらしい。もしそうだったとしたら相手は、生粋のマールブルク人だったのでしょうね。

(編集部より)

なお、このユーバー先生、習志野市のホームページでも紹介されています。

https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/kanko/bunkahistory/narashinosinobunkazai/GermanPOW_Historical-Materials.html

ヨハンネス・ユーバーシャール博士旧蔵写真

 習志野俘虜(ふりょ)収容所に収容されていた捕虜ヨハンネス・ユーバーシャールが所蔵していた白黒写真126点(附、封筒1点)。東京俘虜収容所(浅草本願寺)・習志野俘虜収容所で撮影された写真60数点をはじめ、戦時の青島(ちんたお)周辺と思われる写真、撮影地不明ながら日本で撮られた写真、人物写真などを含んでいます。
 平成30年(2018)、ユーバーシャールの教え子であった方から習志野市に寄付されました。

 その由来が明確であるとともに、習志野俘虜収容所の写真としてまとまったものであり、捕虜の暮らしぶりや収容所のようすを伝える貴重な資料です。

■ヨハンネス・ユーバーシャール博士

(Dr. phil. Johannes Ueberschaar:1885-1965)

 明治44年(1911)、ドイツ語及びラテン語の教師として来日、大阪高等医学校に在職しました。第一次世界大戦の際には志願兵として従軍。降伏(こうふく)の際の日独の交渉では通訳を務め、捕虜となった後は収容所でも通訳として活躍しました。日本通(つう)であることから、収容所内で日本に関するテーマの講座をたびたび開いています。
 戦後は大阪高等医学校に復職、以後、京都大学、浪速(なにわ)高校、甲南(こうなん)高校の講師を歴任し、昭和7年(1932)、ライプチヒ大学の日本語学教授に就任、日本文化研究所を設立して初代所長となりました。
 昭和12年(1937)、再来日して天理外国語学校、甲南高等学校講師を歴任、第二次世界大戦後は甲南大学教授となり、昭和40年(1965)に神戸で亡くなりました。日本においてドイツ語・ドイツ文学の教育、海外への日本文化の紹介に尽力した人物です。

 

 

 

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ドイツの雑誌に習志野ドイツ人捕虜収容所の記事

2021-08-31 08:03:35 | 俘虜収容所

ドイツの雑誌に習志野ドイツ人捕虜収容所の記事

市内在住の小畠(こばたけ)さん(詩人・小説家として有名なシュトルムなどドイツ文学研究家、故 小畠 泰さんのご夫人)から「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者Hさんに「ドイツの雑誌に習志野ドイツ人捕虜収容所の記事が載っている」というご連絡があったそうです。(下の画像は小畠 泰さんが訳されたシュトルムの小説です)

Frieden(平和)に載った習志野収容所の記事

習志野ドイツ人捕虜収容所のことが載っている雑誌の名は「Frieden(平和)」

 

記事の内容は2019年に習志野市を訪問された

メルバー・琢磨博士(ハイデルベルク大学)へのインタビューでした。

記事の内容をご紹介します。(「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者Hさんに翻訳していただきました)

ドイツ人捕虜収容所跡にある「ドイツ捕虜オーケストラの碑」(東習志野4丁目)の写真が掲載され、習志野ソーセージについても触れられています。

 

日本研究

ベートーヴェンの第九と収容所病

日本におけるドイツ捕虜は、第一次世界大戦史の知られざる一章である

ハラルト・ヨーン

 

中国・チンタオのドイツ植民地が失われた後、何千人ものドイツ兵が日本の捕虜収容所に送られた。その日常生活はどのようなものだったか?
そして、第一次世界大戦のこのあまり知られていない一章について、日本の見解はどうなのか?

研究者のメルバー琢磨(たくま)博士にインタビューしてみた。

背景: 第二次世界大戦はドイツにとっては1945年5月8日に国防軍が降伏して終ったが、戦闘は夏の終わりまでアジア太平洋地域で続いた。

1945年9月2日、アメリカによる広島・長崎への原爆投下後になってやっと、日本は降伏文書に署名した。

1945年のこの終戦のイメージは、日本が第一次世界大戦で果たした役割を忘却に追いやってしまう。

すでに19世紀から20世紀にかけて、日本は新しい大国として世界の舞台に加わった。

早くもこの帝国は、その拡張主義者の努力で中国やロシアと対立した。

1904-05年の日露戦争では、日本の海軍がロシア艦隊を沈めた。

初めて、西洋以外の大国が白人勢力に対して軍事的に勝利したのだ。

日本は今や、国際社会の主要な大国の地位に上っていた。

また、中国におけるドイツ植民地の夢を一撃で終わらせたのも、太平洋における日本の軍事力であった。

1914年11月7日、ドイツ皇帝の部隊は中国の港町・チンタオ(今日のQingdao)で降伏した。

約2ヶ月間の包囲の後、中国におけるドイツの植民地化の歴史は数百人の死者を出して終った。

その歴史は、1897年に2人のドイツ人宣教師が殺害された事件から始まったものだった。

その結果、ドイツ軍は黄海に面した膠州湾を占領した。

ベルリンは中国に、山東半島の地域とその主要都市チンタオを99年間、皇帝ヴィルヘルム2世に貸し与えるよう強要した。

ドイツ帝国海軍は東アジアに駐留する兵士を黄河の下流に移し、その結果、貿易業者と行政スタッフがチンタオに定住した。

しかし、大都市の台頭は、第一次世界大戦の勃発直後に終った。

イギリスと、それに同盟していた日本帝国は、皇帝ヴィルヘルム2世に、チンタオを日本帝国に引き渡すよう要求したが、皇帝はこれを拒否した。

こうして、1914年8月23日、日本はドイツ帝国に宣戦布告した。

その後、1週間の包囲の末、ついにチンタオの町は占領された。

11月7日午前6時20分、ドイツ軍は最後の砦であった信号山に白旗を掲げたのだ。

その結果、何千人ものドイツ兵が日本によって捕虜とされた。

彼らの歴史と日本の捕虜収容所の役割を、若き学者であるメルバー琢磨博士は、彼のプロジェクト、チンタオ・デジタルアーカイブで調査している。

彼の目標は、日本で捕虜となったかつてのドイツ兵が残した個人の遺品から、手記や写真を体系的にコレクションすることだ。

 

メルバー博士、なぜ日本にいたドイツ捕虜の足跡をたどり始めたのですか?

第一次世界大戦から100年という国際的にも記念すべき時期を迎え、有名な歴史家たちは、読む価値がある第一次世界大戦の歴史の総括的な著作をいくつも出版市場に持ち込みました。

それらを読んだとき、私はアジアの戦争局面はせいぜい端役の役割しか与えられていないことに気づきました。

ドイツ帝国によって、またはチンタオの最後の総督アルフレート・マイヤー・ヴァルデックの名によって租借されたドイツの保護地域チンタオについては一言も触れられていないのです。

日本が第一次世界大戦で連合国の側にいたこと、また地中海の制海権をめぐってさえも戦争に参加していたという事実は、この国ではほとんど知られていないのです。

これは、第一次世界大戦中の日本におけるドイツ兵の歴史に、さらに当てはまります。

 

日本の捕虜収容所の中に何人のドイツ兵がいたのですか? そして、彼らはどのように扱われたのですか?

数字は情報源によって異なりますが、ドイツとオーストリア・ハンガリーの戦闘員を合わせて4,500人以上が捕虜になったことは確かです。

日本軍の捕虜については、第二次世界大戦の時の連合軍兵士への扱い、あるいはよく言われる虐待のイメージが、常に思い浮かびます。

それに比べると、第一次世界大戦では待遇が良かった。例えば、第二次世界大戦とは対照的に、日本では強制労働者として捕虜を組織的に搾取することはなかったのです。

日本におけるドイツの捕虜の話になると、今日に至るまで板東収容所の話が一番取り上げられます。

この収容所は1917年4月に稼働し、それからしばらくしか使われなかったが、日本にとっては一種の模範収容所でした。ドイツ人は、日常の収容所生活の中で創造的な自由を享受し、多くのスポーツや文化活動を自由に追求することができ、ドイツの囚人と日本人の警備兵、そして地元の人々との間で本当の交流がありました。

 

それはどこでもそうでしたか?

日本には12以上の収容所がありました。

他の収容所からは苦情の報告があります。すなわち郵便のやり取りは一部機能せず、兵士は食べ物について不平を言い、収容所病に苦しみ、うつ病もありました。

また、ドイツ兵の残した文書には、時には日本人に関する軽蔑的な発言も見られます。

だから、日本での捕虜暮らしは、板東が私たちに信じさせているほどバラ色で牧歌的ではなかったようです。

私の懸念の一つは、全体像をまるで大幅に灰色で描いてしまうことです。

 

これらの収容所をどのように想像することができますか? ドイツ人はどのような条件の下でそこに住んでいたのですか? そして、この時期はいつ終ったのでしたか?

かなり長い間、兵士たちは兵舎の収容所に収容されました。

兵員や将校のための宿泊施設に加えて、後期には住居はもう少し豪華になり、キッチンやダイニングルームが、少なくとも多少のプライバシーを与えていました。

動物を飼ってすることができ、収容所印刷室、図書館、それに広場があって、そこでは例えばテニス、体操、綱引き、競技、フィールドホッケー、そしてもちろんサッカーなど、スポーツを実践することができました。

兵士たちは文化活動を追求し、オーケストラ、合唱団、劇団、あらゆる種類の学習とワーキンググループを設立しました。

こう言うとまるで非常に牧歌的に聞こえるかもしれませんが、兵士が何よりも一つのことを望んでいたという事実を隠してはいけません。それは収容所の中から、彼らの愛する人の家へと思いを寄せていたということです。

しかし、兵士たちは翌年のパリ講和会議の後にやっと送還されることになり、第一次世界大戦が終った1918年にはまだまだ収容所の中でした。

 

勝者と敗者の間には文化的な関わりもありましたか?

実際のところ、日本人とドイツ人の間には、勝者と敗者、囚人と警備員との関係を超えた接触があったのです。

すなわち、収容所はどこも日本の商人によって支えられており、ドイツ捕虜も日本の工場で働くことが許されていました。

ドイツ人から何かを学ぶことは、大いに興味を引くことでした。例えば、今でもドイツ風に作られた「習志野ソーセージ」は、東京に近い千葉県習志野市の名物です。そこには、最大の収容所が存在しました。

また、収容所の中で展示会が開催され、地元の人々がそこを訪れました。

これらの中で、ドイツの兵士は絵画、技術機器や職人技を示しました。

ドイツ人も日本文化を知りました。収容所を訪れる力士の写真があります。

また、ドイツ人と日本人の間でスポーツの出会いもありました。

例えば、日本サッカーのルーツの一つは、これらの収容所にあります。

また、日本の観客の前で演劇やオーケストラを結成し、演奏を行いました。

ベートーヴェンの第九は、ドイツの収容所オーケストラによって日本で初演されました。

 

日本はこの歴史をどのように扱ってきたのか。その問題に関する博物館や展覧会はありますか?

第一次世界大戦は、日本では歴史の授業でもほんの端役しか演じられていません。

その他のテーマは、明治維新、大国としての日本の台頭、日露戦争(1904/05)、アジア太平洋戦争/第二次世界大戦、原爆などです。

特に、今日の日本の大都市やその近くにあった収容所の話はほとんど知られておらず、日本では忘れ去られています。

 

具体的な研究はどのようなものでしょうか?

私の研究の良いところは、子孫からの手紙が私に届くということです, 特に元チンタオ人の孫の世代から,私が彼らの遺品を吟味したりデジタル化したりできるよう、貸し出してくれるのです。メール送信や、持参してくれる人もいます。

日本の専門家との意見交換や、アーカイブや図書館の研究など、日本への旅行も私の研究に役立ちました

一方で私は、その場で手がかりを探し、もしそうなら、収容所の何かが今日でも見ることができるかどうか、収容所の物語が地元で何がどのように提示されているのかを調べるのです。

 

第一次世界大戦は今や100年前です。あなたの研究の話題になる理由は何ですか?

私の視点から見ると、グローバリゼーションは政治、メディア、社会における私たちの時代の流行語です。

グローバルな相互依存性がはるかに早くから存在し、例えば知識と知識の特定の交換プロセスが行われたことを、私の研究が非常によく示していると思います。

ちなみに、今年75年前の第二次世界大戦の終結を記念しているという事実そのものが私のテーマとして残っています。

私たちの中には、世界大戦を経験し、それについて話すことができる人々がまだいます。

第一次世界大戦は第二次世界大戦とは全く違い、話すことができるのはドイツ兵の子孫であり、ドイツ兵は彼らにとって、個人的で、感情を持って思い出される自分のおじいさんです。

しかし、この世代の孫たちは、自分の死に近づいています。

次の世代はもはやこの遺産をどうするか分からないでしょうし、ドイツ兵だった先祖との個人的で感情的なつながりもないので、個人の思い出も消されてしまうでしょう。

歴史家としての私にとって、これは今、ほぼ最後のチャンスです: 私は21世紀の技術的方法、すなわちデジタル化によって、第二次世界大戦の歴史家の後世と将来の世代のために保存したいと思います。

 

研究を背景に、太平洋の現在の緊張をどのように評価しますか? 新たな武力紛争の脅威はありますか?

日本と隣国のロシア、中国、南・北朝鮮との間の太平洋の緊張は数十年前から続いています。

今のところ日本にとって深刻な戦争の危険は見当たらないが、第一次世界大戦を見れば、長年にて蓄積する緊張と、ちょっとした出来事と政治的意思決定者による無謀なアプローチで山火事が起きてしまう、ということが良くわかります。

紛争当事者の側で、賢明かつ慎重に行動し、日本が今後も戦争を免れることを切に願っています。(了)

 

○メルバー琢磨博士の紹介

 日独関係史の歴史家。ハイデルベルク大学の異文化交流研究センターで教え、研究を行っている。takuma.melber@hcts.uni-heidelberg.de

○フリーデン(平和)誌、2020年2月号

 同誌はVolksbund Deutsche Kriegsgräberfürsorge e. V.(ドイツ戦争墓地維持国民同盟)の発行。

Volksbund Deutsche Kriegsgräberfürsorge e. V. | Gemeinsam für den Frieden

Der Volksbund ist eine humanitäre Organisation. Er widmet sich im Auft...

 

 

この団体は第一次世界大戦直後の1919年12月に設立され、ドイツ国外に残るドイツ人戦没者墓地の維持管理を行っている。維持管理する墓地は26か国832か所に及ぶという。事業費はほとんどが会費、寄付金、募金で賄われており、その他は連邦と州からの交付金である(Wikipedia)。

(編集部より)
メルバー琢磨博士が2019年に習志野市を訪問された時の「住みたい習志野」の記事です。

第一次世界大戦と習志野―大正8年の青きドナウ― - 住みたい習志野

習志野市役所ホームページに掲載されました。以下市HPよりhttps://www.city.narashino.lg.jp/citysales...

第一次世界大戦と習志野―大正8年の青きドナウ― - 住みたい習志野

 

今回ブログにこの雑誌記事を載せるにあたっては、メルバー琢磨博士のご協力のもと、インタビュアーのハラルト・ヨーンさん、Frieden編集部の皆さんの特別のご配慮をいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

 

 

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習志野ソーセージの恩人、西郷寅太郎と飯田技師

2021-06-10 21:08:39 | 俘虜収容所

6月8日の投稿

習志野ソーセージ 独軍捕虜の技を再現(毎日新聞) - 住みたい習志野
について、「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者Hさんから以下のご指摘をいただきました。

新聞の記事では「当時の農商務省は、畜産試験場の飯田吉英(よしふさ)技師を派遣、ヤーン氏らの製造技術をマニュアル化し、全国の食肉加工業者に広がったとされる。」と書いてありましたが、厳密に言うと、「農商務省の発意で飯田技師を派遣した」のではなく、「飯田技師の権限で直接西郷所長に頼みに来た」というのが事実です。

飯田技師は早速習志野に飛んできて、西郷所長に面会を求めました。西郷所長もうなずいて、捕虜になっている5人のソーセージ職人を呼び出しました。しかし、前にもお話しましたように、むやみに「秘伝」を他人に教えてはいけないことになっていますから、ドイツ兵は首を縦に振りません。西郷所長と飯田技師は熱心に説得を続けましたが、だめなものはだめ、と頑固に断られるばかりでした。

こんなエピソードが残っています。困り果てた飯田技師と西郷所長が構内を歩いていると、あるドイツ兵がベンチに座って、はるばる故郷から届いた小包を開けて涙ぐんでいるところに出くわしたそうです。「あの兵隊は、何を泣いているのだろう」と飯田技師が首を傾げると、西郷所長はその兵隊の持っている靴下を取り上げて、こう言ったそうです。「飯田さん、この靴下をご覧なさい。ちょっと見ると新品のようだが、こうして一針一針きれいに直したものです。ヨーロッパ中を相手に戦っているドイツでは、物資も底をつき、新品など手に入らないのに、息子を案じたお母さんがこうして届けて来た。だからこの兵隊は泣いているのです。我々も、それをわかってやらなくては…」。

日頃から、ドイツ捕虜に温情を忘れなかった西郷所長のこんな言葉が、ドイツ側にも伝わったのでしょう。西郷の頼みならば仕方がないか、ということで、とうとうソーセージの実演をやってくれることとなりました。大正7年の2月のことだったと言います。

この辺の事情は飯田さんの「豚と食肉加工の回想」という本に詳しく書かれています。

Hさん、ご指摘ありがとうございました。「豚と食肉加工の回想」という本を見てみたところ、Hさんのご指摘のとおり、以下のような記述がありました。(読みにくい語句には、「住みたい習志野」編集部がふりがなをつけました。)


(飯田吉英さん)

ソーセージ試製の好機

 大正初期欧州戦争は東洋に波及し、日本軍は独乙(ドイツ)軍を支那青島において攻略し、その捕虜を内地各所に収容した。その中、千葉県習志野俘虜収容所へ収容されたもののなかにソーセージ製造を業としたものが5人もあった。その中のカール・ヤン(Karl Yahn)というものが最もその技術に長じていたので、これを利用してその技術を獲得することが絶好のチャンスだと判断し、同所では頻(しき)りに牛豚を購入してヤンに解体加工をさせて、日常の兵糧(ひょうりょう)に供し、又貯蔵用の兵糧などを製造させていた。これを聞いた私は直ちに同所へ出張し、所長と面接して来意を告げたところ、大いに賛成されて次のような条件で製造試験を実施することを取り決めた。
(中略)
 習志野俘虜収容所長は陸軍歩兵大佐西郷寅太郎氏(大西郷の令息だと伝聞した)であって、痩身長躯(そうしんちょうく)容姿端麗の愛嬌ある外交官タイプの好紳士であった。曾(かつ)て独乙国へ駐在したことがあると語られた。
(中略)

(左から山口陸軍通訳官、竹内陸軍通訳官、カール・ヤンドイツ俘虜、飯田畜産試験場技師)
「住みたい習志野」編集部注:上の写真が下のロゴの元になった写真です


西郷所長の人格

(習志野俘虜収容所長、西郷寅太郎)

 西郷所長とは私は全くの初対面である。前以(まえもっ)て許可を得たのでもなく突如訪問した。勿論(もちろん)官姓名の名刺を差し出して面会を願ったのである。所が所長は直ちに副官を通じて所長室へ私を招かれ、私の用務を詳しくきいて下さった。而(しか)しておっしゃるには、あなたのお話はまことに結構なことだからあなたの都合のよいように計画して実施して下さいと、即座に承諾なされて兵糧担当官たる竹内陸軍主計官、独乙語通弁(つうべん)山口陸軍通訳官を呼入れて会談、約1時間で試験製造日程をきめたものである。所長の即決には深く感激させられた。
 その後所長とは屡々(しばしば)会食も致し種々の話も聞いて、その談笑の間に従容迫まらざる※態度と親切丁寧であることに大いに敬服させられた。又折々戯談(ぎだん)をとばして人を笑わせるような話術にも長(た)けていることも知った。
※(「従容迫まらざる」⇨「悠揚迫らざる」が正しい?)

(中略)

俘虜生活の実態

 捕虜生活の実態などというと何だか酷(むご)たらしいことであろうと想像される方もあろうが、実際はそんなものでなく戦争に敗れて已(や)むを得ず捕虜となった勇士は十分丁寧に待遇されていることがうかがわれた。かって日露戦争において露軍に捕虜となったものは月給(日本軍に相当する額)までも支給されて優遇されていたということを聞いていたが、今回のソ連軍のように日本将校までも苦役(くえき)に服させたというような残酷なことは絶対なかったのである。そこで習志野収容所では原野の真中に1区画を定め、その中にバラックを造り簡単な兵舎の態(てい)を整い、周囲には柵を回(めぐ)らして外界との接触を絶ったのである。
 これは当然のやり方でこうでなくてはならぬのである。しかし日常の兵士の生活は実に平静なもので、健康第一を旨(むね)とし彼等の作った日程に依(よ)って自由の生活をさせていたのである。丁度日本の兵営生活と略(おおよそ)同様な仕組となっていて、只(ただ)軍事教練をやらせないだけであった。従って読書、音楽、娯楽、遊戯、演劇、園芸工作等あらゆることを自由にさせて日々を楽しく暮らさせるようにさせていた。彼等の造った遊園地を見ると実に巧妙にして雅致(がち)に富んだ意匠であって全く感心させられた。関西出張の序(ついで)に徳島県における俘虜収容所※も見学したが大体習志野収容所と同様の状態であった。

※ここに書かれている「徳島県における俘虜収容所」については下記をご覧ください:「住みたい習志野」編集部

鳴門市ドイツ館|徳島県鳴門市『第九が日本で初めて演奏された地』

 

独乙(ドイツ)魂とは何か

 欧州のように種々の国が密集している所では、所謂(いわゆる)四面敵という言葉のある通り呑気(のんき)にしてはいられない。生れ落ちると自分の国ということから始め、外の国には敗けないという教育を受けるからどうしても勝気になる。体を丈夫にそだてる、精神をしっかりさせる、勤勉を勧める、奉公心を養うというように何から何までやかましく鍛錬される。こんな風にして育てられた独乙人は体が頑丈で、勤勉で、頭脳は緻密で、創造力に富み、強烈な奉公心を持っているから立派な兵士が出来る。この兵隊がこの原に集合しているのだから、西郷さんが毎日見ていて褒(ほ)めるのも尤(もっと)もである。或日(あるひ)兵士の蹴毬(ケマリ)を見せられたが。その猛烈な奮斗力と隙のない団結力には感心させられた。そしてその堂々たる巨大な体を働かすことの機敏なのにも驚かされた。それで私は西郷さんに尋ねた。「あの兵士の食料であんなにエネルギーが出るのですか。あの大渦の豚のスチューとパンだけではあんなに動けないと思いましたが。」と不思議そうにいったら、「いやあれで十分にカロリーが取れるように軍医が計算してあるのだ。豚の体をブツ切りにして大鍋に煮たスチューは栄養がたっぷりであれをたらふく食べては元気が出てたまらない。フットボールでこれを消化させるのだ。」と笑われていた。

家族からの慰問品

 戦場で自国からの慰問品ほど嬉しいものはない。私も日露戦争では2年間も満州で奮闘したから、その昧はよく体験している。独乙捕虜もその家族からの慰問品では自分で造った遊園地のベンチに腰をかけて涙を流してよろこんでいるのを見た。そのとき西郷さんは某兵士のおかあさんから送られたという靴下の数足を見せてくれた。
 それは一寸見ては新品のようにきれいであったが、よく手に取って見た所、その1足1足が皆丁寧に修理されていて決して新品ではないことが分った。これには実に驚いた。私の体験では日本の兵隊にはこんな慰問品はなかった。皆新品許(ばか)りであった。ここで私は西郷さんに尋ねた所「独乙人はこんな所が違うのだ。仮に古品でも修理すれば立派に1足の代用をするのだから物資不足の独乙国では1物でも無駄にしないというように国民全体が一致してこんな倹約の行動を採っているのだ。この兵士もこのお母さんの心底を汲(く)んで嬉し涙に咽(むせ)んでいるのである」と語られた。真に御尤(もっと)もの次第であった。このように西郷さんは独乙の国情をよく承知していたので俘虜に対しては勇士の体面を保たせるように待遇してやったので皆西郷所長の入格に感銘していたという話であった。
(以上、「豚と食肉加工の回想」から一部引用)


ソーセージについて、「ドイツ兵士の見たニッポン」の著者Hさんにインタビューした時の記事です。

OGPイメージ

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習志野ソーセージ 独軍捕虜の技を再現(毎日新聞)

2021-06-08 12:05:23 | 俘虜収容所

(6月8日毎日新聞で「習志野ソーセージ」が紹介されています。以下、その記事の抜粋です)

ぐるっと東日本・食べる・つながる:習志野ソーセージ 本場の味、100年の伝承 独軍捕虜の技を再現 /東京 | 毎日新聞

習志野ソーセージ 
本場の味、100年の伝承 
独軍捕虜の技を再現

 千葉県習志野市は、約100年前に本場・ドイツのソーセージ製造技術が伝えられた「伝承の地」だ。100年前の製法を再現した「習志野ソーセージ」をご当地グルメとして定着させるため習志野商工会議所などが中心になって取り組んでいる。そのおいしさと伝承の歴史を知るため現地を訪ねた。【岩嶋悟】

 なぜ、習志野がソーセージ伝承の地なのか。習志野商工会議所中小企業支援室の原田真一郎さん(42)が説明する。「習志野市内にあったドイツ人捕虜収容所から、ソーセージの製造技術が伝えられたのです」

 約100年前、第一次世界大戦で捕虜となったドイツ兵を収容した「習志野俘虜(ふりょ)収容所」があった。1918(大正7)年、独国内のソーセージ職人だったカール・ヤーン氏らがそこでソーセージを製造していたことがきっかけらしい。当時の農商務省は、畜産試験場の飯田吉英(よしふさ)技師を派遣、ヤーン氏らの製造技術をマニュアル化し、全国の食肉加工業者に広がったとされる。

 2013年、習志野青年会議所の有志メンバーらが100年前の味を復刻する企画を考え、隣接する八千代市のハム・ソーセージ専門店「デリカテッセンDANKE」の蜂谷正さん(68)が復刻レシピを完成させたという。

 15年10月から、同商工会議所が冷凍食品メーカーの日東ベスト(本社・山形県寒河江市)に製造を委託。同社の工藤貴浩さん(58)は「100年前のレシピを再現することで、肉そのものを食べているようなソーセージになりました」と話す。

 京成本線実籾駅近くの「イープレイス イングリッシュ&カフェ」では、マッシュポテトとクラッカーのセットで販売している。

 オーナーの瀬戸口真弓さん(47)は「ドイツ兵の記念碑がある実籾で習志野ソーセージが食べられるお店がなかったので、地域を盛り上げるためにメニューに取り入れました」と言う。

(以上、毎日新聞記事から抜粋)

ブログ「住みたい習志野」の記事もご覧ください。

OGPイメージ

習志野はソーセージ発祥の地って本当? - 住みたい習志野

習志野はソーセージ発祥の地って本当?19日テレビ東京放映の「出没!アド街ック天国」で紹介された「習志野ソーセージ」。SNS上では「初めて聞い...

習志野はソーセージ発祥の地って本当? - 住みたい習志野

 

毎日新聞の記事の中にある、実籾のドイツ兵の記念碑」の除幕式のときのようすです

 

 

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絵本「バウムクーヘンとヒロシマ」似島ドイツ人捕虜収容所で誕生したお菓子の物語

2021-05-14 13:02:16 | 俘虜収容所

絵本「バウムクーヘンとヒロシマ」(あるブログ記事より)

すてきな本を紹介したブログをご紹介します。習志野にもドイツ人捕虜収容所がありましたが、これは広島市似島(にのしま)収容所のお話。

バウムクーヘンとヒロシマ

「バウムクーヘンとヒロシマ ドイツ人捕虜ユーハイムの物語」 作:巣山ひろみ 絵:銀杏早苗 発行:株式会社くもん出版 ● 洋菓子のユーハイムと...

子どもの本はいい。

 

「バウムクーヘンとヒロシマ ドイツ人捕虜ユーハイムの物語」 作:巣山ひろみ 絵:銀杏早苗 発行:株式会社くもん出版

洋菓子のユーハイムといえば私でも知っている有名菓子店だ。
そのユーハイムさんが日本で初めてバウムクーヘンを作ったそうである。
しかしそこには秘められた話が…。

ドイツ人のユーハイムさんは第1次世界大戦で捕虜として日本に連れてこられた。
広島県の似島収容所に入ったユーハイムさんは、
戦争が終わったのち、「捕虜による作品展覧会」でバウムクーヘンを焼いた。
その時日本人が喜んでバウムクーヘンを食べてくれたことに気をよくしたユーハイムさんは、
日本でドイツ菓子の店を出した…。

ちなみにユーハイムさんが「展覧会」を行ったのは広島市の物産陳列館。
のちに産業奨励館と名前を変え、
昭和20年8月6日を境に原爆ドームと呼ばれることになった。

物語は、現代の子どもたちが似島でキャンプをしながら、ユーハイムさんの作ったバウムクーヘンを試作するという
体験と、秘められた歴史を学ぶことで、戦争や原爆のことを考えていこうとする。

著者が、ニュースでバウムクーヘンが日本で初めて販売されたのは原爆ドームだった、とやっていたのを見て、
この物語になった、とのことである。(著者は広島出身)
バウムクーヘンをきっかけにして、平和を考えることができる良書。
大人も勉強になります。
(以上、ブログ「子どもの本はいい」より引用)

【似島にのしま】(大阪から広島の似島に向かう)捕虜たちは…宇品(うじな)駅プラットホームに到着しました。宇品には、ドイツ兵捕虜をひと目見ようと、たくさんの見物人がおしかけました。

【広島県物産陳列館】つのの立ったバウムクーヘン(※)を、お客たちがふしぎそうな顔をして見ています。無理もありません。日本人がこれまで見たことも、食べたこともない菓子なのです。小さな女の子が、おずおずと手をのばします。そして、ひと口食べると、うっとりした顔になりました。「おいしい」それを合図に、次つぎと試食に手をのばしたお客は、みんな、まよわずバウムクーヘンを買ってくれました。

「おやじが陳列館で食べたのも、この味じゃったんかもしれんの」
「陳列館って……、物産陳列館?」
「ありゃ、物産陳列館いうよびかたを知っとるんか。今じゃ、原爆ドームとしかよばれんのに

この時のバウムクーヘンはピラミッド型だった

上の絵本に「つのの立ったバウムクーヘン(※)」という表現があります。
「つのの立った」(?)と奇妙に感じた方もいると思います。
この本のイラストでは、ユーハイムが丸太を切ったような、丸く年輪の重なったバウムクーヘンを焼いたように描いていますが、この時のバウムクーヘンは「ピラミッドケーキ」と記録されており、角材状に焼いてから、三角形にカットして客に供するものでした。

これを三角形にカットして「ピラミッドケーキ」

軸をグルグル回してバウムクーヘンを焼くあの機械を作っている暇はなかったのでしょう。


習志野市のドイツ人捕虜収容所には、有名人がこんなにいた!

習志野市のドイツ人捕虜収容所の歴史や収容されていた有名人など、お隣の船橋市が資料にまとめてくれています。https://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0002/0008/0002/p022513_d/fil/2-003.pdf
この資料の中には習志野収容所にいた有名人の一覧もあります。少し例をあげると

カール・ ビュッティングハウス  
目黒に東京で最初のソーセージ工場と店舗、後に神戸に進出。横浜・本牧の矢島八郎、 ビュッティングハウスの指導で自らハム・ソーセージ造りを手がけ、いまは三代目の孫が茅ヶ崎市で「ハムエ房 ジロー」を営んでいる。

「住みたい習志野」でも紹介されています。
習志野はソーセージ発祥の地って本当? - 住みたい習志野
カール・ブッチングハウス - Wikipedia


ヘルムート・ ケーテル
東京・ 銀座並木通りにバー「 ラインゴール ド」を開業。 昭和 5(1930)年にはその隣にドイツ レス トラン ・「ケテル」を開業

(かつて銀座ケテルの厨房があった)という記事
http://swimy.biz/jiho/fudoki/fudoki_20.html

ハンス・ミリエス 

ミリエスが習志野時代に書き残した「 閉じておくれ僕の眼を」の楽譜が、子孫の手で平成14(2002)年に習志野市に届けられ、市の依頼で ソプラノ歌手餃島有美子による演奏が実現した。
ハンス・ミリエス - Wikipedia

フリッツ・ルンプ



「 浮世絵」「 日本の演劇」「 日本の民話」等日本に関する多数の著作を遺 した。

フリッツ・ルンプフ - Wikipedia

https://www.eajrs.net/files/happyo/Yamamoto_Tokuro_12.pdf

フリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf)年譜について (oo7.jp)

 

この記事に関連のある、これまでの「住みたい習志野」の記事です。
習志野市では「消されてしまう」ドイツ人捕虜収容所の歴史ですが、広島市では逆に、大事な郷土の歴史として語り継がれているようです。郷土の歴史を大事にする広島市や鳴門市の姿勢、見習いたいですね。

読者からの情報:広島市似島ドイツ人俘虜収容所とバウムクーヘン - 住みたい習志野

習志野から消される?ドイツ人捕虜収容所の歴史(菩提樹、聞き書き民話、西郷寅太郎) - 住みたい習志野

ドイツ人捕虜収容所の歴史保存、鳴門市と習志野市でこんなに違います - 住みたい習志野

ドイツ人俘虜収容所のあった鳴門市では盛大に100年行事。でも習志野市では? - 住みたい習志野



 

 

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