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住みたい習志野

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瓶詰細工(びんづめざいく)=ボトルシップの由来。妻の手紙で一念発起、技術みがいたドイツ魂

2021-11-22 06:16:56 | 俘虜収容所

2013年にこんなニュースがありました。

(千葉日報の記事から抜粋)

千葉市から寄贈された、ボトルシップ

ドイツ兵捕虜が制作? ボトルシップ発見 千葉市民が習志野市に寄贈

 習志野市は24日、第1次世界大戦中に設置された「習志野俘虜(ふりょ)収容所」のドイツ兵捕虜が作ったとみられる「ボトルシップ」が見つかったと...

 

 

習志野市は24日、第1次世界大戦中に設置された「習志野俘虜(ふりょ)収容所」のドイツ兵捕虜が作ったとみられる「ボトルシップ」が見つかったと発表した。

 ボトルシップは千葉市花見川区在住の小川勝利さんが習志野市に寄贈。祖父の形見として保管されていたもので、小川さんが母親の遺品整理をしていた際、たんすの中から発見された。

 

このボトルシップについて、習志野市のホームページに以下のような逸話が載っています。

No.106 平成20年5月1日号 ボトルシップと独逸魂 習志野市ホームページ (narashino.lg.jp)

ボトルシップと独逸(ドイツ)魂

 八千代市郷土歴史研究会から、ドイツ捕虜についての珍しい資料をいただきました。大正時代のドイツ捕虜について記述がある昭和7年(一九三二)発行の「真善美しんぜんび」という本です。著者の小池民次氏は第一次世界大戦当時、長生郡一宮町で加納子爵の設立した私立女学校の校長を務めており、その縁で習志野収容所を見学したようです。

 小池氏はその本の中で次のように述べています。「欧州大戦中、余は習志野の俘虜ふりょ収容所に行って俘虜ふりょの生活状態を視察した。…余は彼らの手工品を一見したが、その中で瓶詰細工のいかにも見事なものがあった。その由来が教訓にもなるので、相当の手続をしてこれをもらい受けた。その由来とは、本国から届いた妻の手紙に『…やがて平和の日がめぐり来て、御帰国の際はぜひともお土産をご持参願います。但しそのお土産とは東洋の織物にあらず、装飾品にあらず。あなたの手に、あるいは頭の中に得られるものであります。これが御身のため、我が一家のため、また祖国のためになるのであります…』とあるのに励まされて…熟考したところ、幸いにも戦友の一人に瓶詰細工の名人があった。教えよう、教わろうということになり、瓶詰細工を習い覚えて、それを土産とすることに決定した。しかるに本人は極めて不器用で、一日たりとも怠らぬけれども、一年を経てなお細工物の恰好が取れない。二年を経ても進歩が見えぬ。我が警備兵は、最初は彼の不器用を笑ったが…しかるに本人は倦うまずたゆまず、笑われようとも罵られようとも、いっこう平気で熱心に習い続けたので、最初に笑った我が警備兵も初めて感心した。三年目にはようやく恰好が取れるまでになった。それからの進歩は目ざましいもので、あっぱれ瓶詰細工師として恥かしからぬ腕前となった。熟練は神に入ると云うのは、このことである。笑われようとも、罵られようとも我れ関せずで、四年が六年でも十年でも志を遂げざれば止まぬという独逸魂は万事に行き渡っているので、独逸俘虜ふりょの生活状態が、この瓶詰細工で代表されているように感じた…」

 瓶詰細工とはもちろん、ボトルシップのことです。瓶の中に帆船の模型を組み上げるボトルシップに小池氏はとことんやり抜くドイツ魂を感じたのでしょう。

 小池氏は遠州浜松藩士の家に生まれ、明治維新の際、上総国鶴舞に移り藩校を終え、教員となってからも「独学にてよく英語を学び、ドイツ語を修めた」そうです。昭和7年にこの本を出し、同11年79歳で亡くなっています。

(ボトルシップを「紹介した市のホームページの記事)

■ボトルシップ第1号

 平成9年(1997)、習志野市津田沼在住の歌田實(うただみのる)氏から習志野市に寄付されました。小学校教諭であった寄付者の母親が、学童を引率して収容所を見学で訪れた際、捕虜の1人から贈られたものと伝わっています。

■ボトルシップ第2号

 平成25年(2013)、千葉市花見川区在住の小川勝利(かつとし)氏から習志野市に寄付されました。寄付者の母親が、その父親(寄付者の祖父)の形見として大切に保管していたものです。寄付者の祖父は生前、現在の習志野市大久保で八百屋を営んでいたと伝わっており、収容所に野菜を届けた際に知り合った捕虜から、このボトルシップを譲り受けたものと推測されています。

県立図書館が習志野俘虜収容所のことを紹介してくれています

千葉県立図書館

ここで紹介されている「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者、こんな歌も作曲しています。

 

 

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習志野「ドイツ人捕虜オーケストラの碑」秘話:オクセンドルフ夫人の大活躍

2021-11-14 22:11:38 | 俘虜収容所

「ドイツ人捕虜オーケストラの碑」秘話

皆さんは市内東習志野にある「ドイツ捕虜オーケストラの碑」をご覧になったことがあるでしょうか?

この碑のオーケストラの写真は、どうやって手に入れることができたのか?

「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者Hさんの講演録の中にこんな秘話が載っていたのでご紹介したいと思います。

http://www.jdg-chiba.com/about/pdf/kouennroku_2.pdf

オクセンドルフ夫人の大活躍
 平成20年の11月が、第一次世界大戦が終結してちょうど90年の記念日でした。
これに合せて、東習志野の収容所跡に「ドイツ捕虜オーケストラの碑」というのを作らせていただいたのですが、ここに習志野の捕虜オーケストラの写真を焼き付けてあります。ところがこれが、今の姿になるのにはひと騒動ありまして、当初はこういう写真を入れる予定になっておりました。


 ところが、平成20年度の予算がついて、いざ発注をしようという段階になりまして、関西からとんでもないニュースが入ってまいりました。当時、兵庫県の青野ヶ原、現在は加西市と小野市になりますが、ここも習志野原と同じような陸軍の練兵場で、ドイツ捕虜が収容されていました。この青野ヶ原収容所を研究している神戸大学の研究室が、青野ヶ原の捕虜オーケストラだという写真を発表した、という新聞記事です。


ところが、そこに掲載されている左上の写真が、


 こちらが記念碑に使おうと思っていた写真とほぼ同じなんですね。
こちらは、この写真が習志野だということは、いくつかの裏付けがあって確信は持っているのですが、しかし、もし万一、公費を投じて、間違った記念碑を作ってしまった、などと言ったら笑い者です。
編集部注:このあとに書かれていますが、今年(2021年)11月13日、これは習志野収容所の写真ではなく、兵庫県の青野原(あおのがはら)収容所の写真だったことが判明しました

 あとでしかしまた、神戸大学とその決着をつけなければ記念碑が出来ないということになると、年度中に予算が執行できなくなってしまいます。では写真のない記念碑を作ったらどうか。それも、どうも画竜点睛(がりょうてんせい)を欠いてしまいます。

 さぁ、どうしたものだろうかということを、いつも手紙をくれている、当時習志野にいたドイツ兵の娘さんに相談しました。娘さんといっても、アルトゥール・プロッツェという、かつて習志野にいた父親はとっくに亡くなって、この人も80いくつのおばあさんですが、ローゼマリー・オクセンドルフさんといいます。

 「昔、父がいた日本の町に記念碑ができるなんて、素敵だ」と言って記念碑の計画を喜んでいてくれたのですが、その記念碑が危ないと聞いて、途端にスイッチが入ってしまいました。「何やってるんだ!」。
習志野に立派なオーケストラがあったのは、父から聞いている。そうだ、弟の家の物置に、習志野のアルバムがあるはずだ。確かそこに、オーケストラの写真があったはずだ…。
姪御さんに車を出させて、何十キロか離れた弟の家に行き、物置をかき回して大捜索の末、この鮮明な写真を見つけてくれました。

 習志野にいた父の、習志野で撮ったアルバムにあるオーケストラの写真。しかも、指揮台に立っているのはハンス・ミリエスです。どこから横槍を入れても、習志野捕虜オーケストラの写真であることは崩せません。

編集部注:「ハンス・ミリエス」さんについては、以下の「住みたい習志野」記事をご参照ください。

「閉じておくれ僕の眼を」は習志野ドイツ人俘虜収容所で作曲された - 住みたい習志野

 さらにオクセンドルフ夫人、大活躍なのは、この写真を持って弟の住む町の写真屋に複写を頼みに行った。ところが写真屋が、夏のバカンスに出かけてしまって閉っている。
「何やってるんだ。早く複写して、習志野に送ってやらなきゃ!」と、そこで複写が出来る写真屋を探して、まぁだいぶ奔走してくれたようです。
 

 今は便利になったもので、スキャナで読みこんで電子メールに添付すれば、この眠っていた写真がすぐに日本に届いてしまうのですが、そんなことはお年寄りにはわかりません。とにかく老夫人のこんな大車輪の活躍のおかげで、記念碑には鮮明な、しかも歴史的にも間違いのない写真を焼き付けることができたわけです。
 

 また、記念碑の左右の花壇に、「ドイツつつじ」を移植しました。「ドイツつつじ」という植物があるわけではないのですが、当時、収容所の中でドイツ兵が日本のつつじを大事に育てていた。帰国の日が来て、このつつじを引きついで育ててくれと、収容所に出入りしていた花見川の農家の方がもらったのだそうです。そのつつじから差し芽をいただいて、これを植えました。

 これは除幕式の写真です。

 捕虜収容所跡の記念碑なんて…、とおっしゃる方もいるのですが、私は別に、日独戦争に勝ったことを記念したいわけでも、捕虜を従えたことを喜んでいるわけでもありません。そんな記念碑だったら、時代錯誤もいいところです。

 そうではなくて、習志野の人間が初めて、彼らの奏でるベートーヴェンやモーツァルトを聞いた。そういう異文化との最初の出会いがこの場所であった、ということを記念したいわけです。おかげ様で毎年春には「ドイツつつじ」がかわいい赤い花を咲かせるようになりました。日本側、ドイツ側、多くの人の思いに支えられて、記念碑が根を下ろしたのだと思っています。


――というお話になっていたのですが、世の中にはやはり、快く思わない方もいるんでしょう。昨年、何者かが「つつじ」をすべて引き抜いて、捨ててしまいまして、今は無残なあり様になっております。私もこのことを、オクセンドルフさんに伝える勇気はありません。ただ、スペアの苗木は谷津バラ園に頼んでちゃんと育ててありますので、またいつの日か、ここに戻してやりたいと思っています。

(以上、Hさん講演録より)

なお、当初使おうと思っていた写真は、習志野収容所のものではなく、青野原収容所のものだったことが、11月13日ドイツから送られてきた画像で確認されたそうです。
それがこれ。

➀今回送られてきた「青野原収容所」の写真

➁習志野収容所の写真ではなく、青野原収容所の写真であることがわかった写真



➂ ➀と➁の両方に写っている3人

 これで、最初、習志野オーケストラの写真と思われた写真は、実は青野原だったと断定できました。この写真で記念碑を作ってしまったら、危ないところでしたね。今さらながら冷や汗ものです。(Hさんの言葉)

 歴史の研究とはかくも息長く、丹念に考証を重ねていかなければならない、気の遠くなるような作業だ、ということが、この写真の一事でもわかります。その執念がオクセンドルフ夫人の心を揺さぶったんでしょうね。こうした地を這うような努力に改めて敬意を表したいと思います。

偶然にも今日はオクセンドルフ夫人の命日

 最後に、オクセンドルフ夫人は2012年11月14日に84歳で亡くなっていたそうです。今日彼女に関する秘話をご紹介できたことに不思議な縁を感じてしまいます。

(パンフレット「ドイツ兵たちの習志野」より転載した地図)

「碑はどこにあるのでしょう。実籾駅で聞いてもわかりませんでした。」というコメントを頂きましたので、上記の地図を追加しました。失礼しました。

京成実籾駅から駅前通りを北に向かい、消防署のある三叉路を右にまがり、しばらく道なりに行ったところに「東習志野四丁目児童遊園」があり、その中にあります。

 

 

 

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ドイツ人捕虜収容所のあった習志野市と徳島市(板東収容所)の高校生、習志野収容所で作られた曲を合奏

2021-11-12 16:36:53 | 俘虜収容所

(習志野市役所ホームページの記事を転載します)

ならしのNOW 習志野市ホームページ (narashino.lg.jp)

100年の時空を超えた音楽の交流~「ベートーヴェン/交響曲第九番」日本初演の地から、ようこそ習志野へ!~

2021年11月12日

【第一次大戦中のオーケストラが結ぶ交流の絆】

 県立津田沼高等学校オーケストラ部は、かねてより顧問の山岡健先生の指導の下、「閉じておくれ 僕のまなこを」を練習していました。この曲は、習志野捕虜オーケストラ指揮者であるハンス・ミリエス(ヴァイオリニスト)が作曲したものです。第一次世界大戦中、東習志野には「習志野俘虜収容所」があり、ドイツ人捕虜たちによって収容所内にオーケストラが結成されていました。

 山岡先生の元に、徳島市の県立城東高等学校が千葉県文化会館で開催される「日本学校合奏コンクール」に出場するという情報が寄せられました。徳島県鳴門市には、ドイツ兵捕虜オーケストラにより「アジアで初めてベートーヴェンの第九を全楽章演奏した場所」として知られる板東俘虜収容所があります。そこで、大会出場前の練習場所として津田沼高校を提供するとともに、生徒同士が交流する場を設けようという話が決まりました。

【両校による「閉じておくれ 僕のまなこを」合奏】
 11月6日(土)、津田沼高校の体育館で生徒たちは演奏ポジションを取りながら、城東高校の到着を待っていました。午前11時半、45名の生徒を乗せたバスで到着し、無事に対面を果たしました。
 両校の先生と部長からのあいさつの後、歓迎演奏として津田沼高校が「閉じておくれ 僕の眼を」を演奏、城東高校はドイツ語と日本語の歌詞で合唱し、演奏会場には両校のハーモニーが美しく響きました。

 コンクール会場へ出発するまでの間、生徒たちは特産品のお土産を交換しあうなど交流をしました。そして、山岡先生たちから指導を受け練習に励んだ後、皆と別れ、大会に向け出発しました。結果、城東高校はみごと全国大会の銀賞を受賞しました。

【「閉じておくれ 僕の眼を」について】
 ハンス・ミリエスが第一次世界大戦中の1917年8月に作曲したこの曲の楽譜は長らく所在不明でしたが、2000年頃、遺族により遺品の中から発見されました。作詞をしたテオドール・シュトルムは、詩人、小説家、法律家として著名で、ドイツ文学における詩的リアリズムを代表する作家の一人と言われています。

「閉じておくれ 僕の眼を」

閉じておくれ 僕の眼を

君の愛らしい手で

僕の悩みはすべて

眠りにつくだろう

悲しみがそっと波をうって

眠りにつく時

その波の最後のひと寄せが

打ち寄せる時

君は僕の心を満たすのだ
(デオドール・シュトルム詩)

【最後に】
いにしえの習志野の地で生活していたドイツ人捕虜によって生まれたこの曲が、両校の生徒たちの交流の中で合奏されたのは素晴らしいことです。その音色には深く心にしみる荘厳な響きがあり、習志野の大切な宝物として今後も演奏され続けることでしょう。
 また今回の交流は、生徒たちにとって青春時代の思い出として末永く心に残ることでしょう。
 
【写真・取材】広報まちかど特派員 佐藤 清志さん

(「住みたい習志野」編集部より)
この記事に関連する「住みたい習志野」の今までの記事をご紹介します。

習志野市ドイツ人捕虜収容所で作られた歌が日本でよみがえってから、今日で20年 - 住みたい習志野

鳴門市に寄贈された写真の中に習志野ドイツ人俘虜収容所の写真が18枚 - 住みたい習志野

ドイツ人捕虜収容所の歴史保存、鳴門市と習志野市でこんなに違います - 住みたい習志野

習志野ドイツ俘虜収容所テーマの合唱 - 住みたい習志野

坂東収容所世界展 - 住みたい習志野

「閉じておくれ僕の眼を」は習志野ドイツ人俘虜収容所で作曲された - 住みたい習志野

8.1音楽会に千葉女子高オーケストラ部特別参加 - 住みたい習志野

8.1コンサート(柵を越えたMUSIK・ドイツ兵はキリンビールがお好き?) - 住みたい習志野

ドイツ人俘虜収容所のあった鳴門市では盛大に100年行事。でも習志野市では? - 住みたい習志野

6.1ドイツ軍捕虜収容者100周年記念演奏会(都内) - 住みたい習志野

習志野元俘虜収容所 - 住みたい習志野

 

 

 

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大分から習志野に来たドイツ人捕虜の写真展を大分で開催

2021-10-16 00:28:02 | 俘虜収容所

習志野捕虜収容所に来る前大分(おおいた)にいたドイツ兵の写真展が10月14日から大分で開催されています。

ドイツ兵が見た大分の人々と風景の写真展〜大分県桜ヶ丘聖地から始まる日独交流〜|イベントのご案内|

別府大学では、10月14日(木)から別府大学18号館2階ギャラリーホールにて、「ドイツ兵が見た大分の人々と風景の写真展〜大分県桜ヶ丘聖地から始まる日独交流〜」を開催いたします。本写真展は、第一次大戦中に大分県立第一尋常小学校(現大分市立金池小学校)内にあった、大分収容所に収容されていたドイツ兵俘虜の生活や、兵士らがみた大分の風景や人々の写真を展示します。
 写真からは、制約の中でも規則正しい生活を送り、地域の人たちと交流したり、娯楽を楽しんだり、収容所外に出かけて大分の文化を知る機会があったことがわかります。

テレビでも放送されました。

ドイツ人捕虜の子孫が墓参し地元と交流【大分】

ドイツ人捕虜の子孫が墓参し地元と交流【大分】(OBS大分放送) - Yahoo!ニュース

第一次世界大戦中に大分市内の捕虜収容所で亡くなったドイツ兵の子孫が10月14日、墓参りをして地元の人たちと交流しました。来県したのはドイツ大...

Yahoo!ニュース

 

第一次世界大戦中に大分市内の捕虜収容所で亡くなったドイツ兵の子孫が10月14日、墓参りをして地元の人たちと交流しました。来県したのはドイツ大使館の武官カルステン・キーゼヴェッター大佐で10月14日、大分市志手の旧陸軍墓地だった県桜ケ丘聖地を訪れ墓参りをしました。大佐の曾祖父の弟は第一次大戦中に日本軍の捕虜となり大分市金池にあった捕虜収容所で1917年に亡くなりました。大佐は日本の戦没者と共に眠る先祖に花を手向け感謝の意を示しました。
(キーゼヴェッター大佐)「皆さんと一緒に慰霊ができることが日独の国民を結ぶ深い友情の現れです。大分の皆様に心から感謝したいと思います」

キーゼヴェッターさん、昨年1月26日に習志野市役所で行われたドイツ捕虜解放100周年記念行事「ナラシノの記憶-ドイツ兵たちの記録が語るもの-」にも、ご夫婦で参加してくださいました。

ドイツ捕虜解放100周年記念行事「ナラシノの記憶ードイツ兵たちの記録が語るものー」 習志野市 (narashino.lg.jp)

ドイツ兵俘虜収容所講演会大盛況 - 住みたい習志野

1月26日に習志野市役所グランドホールで開催された講演会は会場に(170人定員)参加者であふれ入りきれない人が階段に座りターフビジョンでも鑑...

ドイツ兵俘虜収容所講演会大盛況 - 住みたい習志野

 

「住みたい習志野」でこれまでに取り上げた捕虜収容所関係の記事もご覧ください。

「俘虜収容所」のブログ記事一覧-住みたい習志野

なお、「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者Hさんから、次のような面白いエピソードをご紹介頂きました。

大分の収容所について書かれた論文に、習志野収容所にいたフリッツ・ルンプという学者のことが書かれている

大分収容所の詳細についてはこちらをご覧ください。

http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/gr01860.pdf?file_id=6369

「八、脱走事件」の中に、脱走した捕虜が遊郭に上がり込んでお楽しみ中、憲兵隊に踏み込まれて逮捕された、という「珍事件」が書かれていますが、その中に習志野収容所にいたフリッツ・ルンプという日本文化研究家に関する記述があります。

遊郭では日本名を記帳のうえに登楼したという。このような日本文化への知識を思うと、(脱走した)少尉自身の高い教養よりも、曹長として俘虜になっていた「大分黄表紙」の作者フリッツ・ルンプフの存在が注目される。かれは、第一次大戦より日本の近代の文芸グループ「パンの会」のメンバーの一人だったからである。「パンの会」では江戸文化の再評価がなされており、メンバーのルンプフも江戸文化には強い関心を抱いていた」

大分の「大脱走」事件の新聞記事です。

大正7年2月11日 東京日日新聞
●俘虜浮れ出す
 大分収容所の少尉及び従卒2名
  大分俘虜収容所に収容中の予備歩兵少尉キュールボルン(29)、其従卒ナーゲル(26)、 同ダウデルト(30)の3名は、9日午後12時過、収容所の柵を乗り越え遊廓に入込み、春日楼に登楼、遊興し、記名を求めたるに日本文字にて「長野正」「高岡刈一」「中山信吉」と記入し臥床したるが、大分憲兵隊にては直に俘虜の点検を行い、取押えて、歩兵第72連隊の営倉に入れ、10日朝、収容所に於て西尾所長の取調べあり。ナーゲル、ダウデルトの2名は営倉30日、キュールボルンは将校の事故、謹慎を申渡したり(10日、大分電報)。

大正7年3月31日 東京日日新聞
●大分の俘虜浮る
 脱柵して妓楼に登る
  大分第二俘虜収容所に収容中の兵曹ハインクッヒハーゼン(26)、ルトドルッヒマイエル(26)、レヲンハルト(25)の3名は、30日午前1時頃、降雨を冒して収容所を脱出し、大分停車場より鉄道線路を辿り、かんたん遊廓に到り、打連れて中川楼に登楼したるが、同楼より大分署に届出で、同署よりは憲兵隊に通知すると同時に4名の巡査を派して取押え、憲兵隊にて取調の上、重営倉30日間に処したり(30日、大分電報)。

2回も立て続けにあったのですね。

アジア歴史資料センターにも調書が残っています。

第二の脱走事件では、

「翌30日午前1時30分頃中川楼に登楼せしに、同家にては漁夫ならむと思い」

「外套の頭巾を脱したる時、その俘虜なるに驚き、直ちに巡査派出所及び憲兵分隊に電話にて通報」

「当時彼等の服装は軍衣袴・軍帽なりしも、外套を着し頭巾を被り居たる為、一見普通人と異ならざりしと云う」

「彼等の何れも日本語に通ずるものなし」

などという記述が見られます。

服装は軍服・軍帽だが、外套とフードでわからなかった。日本人の漁夫だと思った。日本語が話せる者はいなかったが、簡単な言葉のメモを持っており、言葉ではドイツ兵とわからなかった、というのです。

第一の脱走事件についても

「当夜、俘虜の服装は軍服に鳥打帽子を被り、少尉は兵卒の外套を着し、兵卒2名は日本傘を携帯せり」

軍服にハンチングをかぶり、番傘など持っているのでドイツ兵とはわからなかった、というのですね。

(編集部より)

フリッツ・ルンプについては、以下の記事もご参照ください。

絵本「バウムクーヘンとヒロシマ」似島ドイツ人捕虜収容所で誕生したお菓子の物語 - 住みたい習志野

https://jdg-chiba.com/about/pdf/kouennroku_1.pdf

 

 

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習志野市ドイツ人捕虜収容所で作られた歌が日本でよみがえってから、今日で20年

2021-09-21 01:50:09 | 俘虜収容所

2001年9月21日、習志野の地でよみがえったドイツの歌。
それは習志野ドイツ人捕虜収容所で作られた曲だった

きょう9月21日は、習志野ドイツ人捕虜収容所で作られた曲「閉じておくれ、僕の眼(まなこ)を」が、習志野の地でよみがえってから20年目の記念日です

http://www.schleswig-holstein-und-japan.de/hans-millies.html

習志野ドイツ人捕虜収容所にいた作曲家、ハンス・ミリエス氏の故郷、シュレスヴィッヒ=ホルシュタイン州のホームページに「(郷土の詩人)テオドール=シュトルムの詩にミリエス氏が曲をつけて習志野で演奏された」ことが書かれています。

ハンス・ミリエス - Wikipedia

 

ハンス・ミリエス氏のご子息が見つかった!

(丸善ブックス「ドイツ兵士の見たニッポン」あとがきに代えて、より引用。ブログ編集部が小見出しや動画その他の情報をつけ加えました)

収容所オーケストラの指揮者ハンス・ミリエスについて、そのご子息を見つけることが出来たのは、インターネットという最新技術のおかげであった。書店で同志社大学榎本泰子先生の著書「楽人の都・上海」を見かけ、榎本先生にご教示をいただいている内に、中国側文献にもミリエスの名が散見していることを知った。もしかすると、かなり活躍した音楽家なのではないか、そう思ってインターネットを「Hans Millies」で検索してみると、果してシュレスヴィッヒ=ホルスタイン州の音楽評議会のホームページがヒットした。この評議会の理事に「Hans Millies」氏がいるようなのである。こちらからの問い合せに対して、リューベックの「Hans Millies」氏から、習志野にいたのは間違いなく私の父ですとのお返事をいただいたのは、それから間もなくのことであった。1923年生れのご子息も、名前は父と同じくハンス。しかも音楽家である。

その後の書簡のやり取りによって、父ミリエスの経歴も明らかになり、それは本書で初めて紹介できた。なお、姓の読み方は「ミリース」ではなく「ミリエス」であることも、ご子息に確かめることができた。

シュトルムの詩 「閉じておくれ、僕の眼(まなこ)を」にミリエスが曲をつけた楽譜を発見

その父ミリエスは、習志野で作曲もしていた。その作品が残っていないか、との問に対して、ハンスさんは、短いものだがこういう歌曲があると言って古い手書きの五線紙をコピーしてくれた。

「componiert im Kriegsgefangenen Lager zu Narashino (Japan) a, 14. Aug. 1917 von Hans Millies」(大正6年8月14日、習志野俘虜収容所にてハンス・ミリエス作曲)と書かれている。テオドール・シュトルムの詩 “ Schließe mir die Augen beide...”(閉じておくれ、僕の眼(まなこ)を)に作曲したものであった。

テオドール・シュトルムの肖像と動画

また、同年の秋頃、収容所内の演奏会で初演されたことを物語るプログラムも残されていた。

習志野市のドイツ文学者、故 小畠泰氏のご努力によって、この曲が世に出ることになった

 楽譜は、習志野市在住のドイツ文学者小畠泰(こばたけ ひろし)氏によって日本シュトルム協会に持ち込まれ、声楽家の手によってテープに吹き込まれた。

(小畠氏が翻訳された本など)
シュトルム名作集 (sangensha.co.jp)

陽を浴びて (ニュー・メソッド独文対訳シリーズ) | テーオドール・シュトルム, 小畠泰 |本 | 通販 | Amazon

ハイブリッド ドイツ人が日本人によく聞く100の質問 | 昌治, 柴田, ひとみ, 若林, クラウト,ハンス‐ギュンター, 真理子, 出口, 泰, 小畠, Krauth,Hans‐G¨unther |本 | 通販 | Amazon

ソプラノ歌手、鮫島有美子さんが習志野文化ホールでよみがえらせたミリエスの曲

ちょっとシューマンを思わせる、抒情的な佳作である。これを何とか習志野の地で、80余年ぶりに公の場で演奏できないだろうか。関係者の思いは、習志野文化ホールで予定されていた「鮫島有美子ソプラノ・リサイタル」に向けられた。ドイツ歌曲に造詣の深い、あの鮫島さんが歌ってくれないだろうか。いや、鮫島さんが取り上げてくれるほどの曲なのだろうか?

 いいですよ、歌いましょう、というお返事をいただいたのは、リサイタルも迫った頃だった。1400席ほどの文化ホールは、鮫島さんの日本の抒情歌やフォーレを楽しみに集まった人々で満たされた。マイクを取った鮫島さんが、「それでは、80年ほど前、この習志野の地で生まれたドイツ歌曲をご紹介しましょう」と語りかけると、客席にはどよめきが走った。伴奏のヘルムート・ドイチュ氏が添えてくれた2小節の前奏に続いて、鮫島さんの歌声は静かに響き渡った。「閉じておくれ 僕の眼を二つとも 君の愛らしい手で! すると 僕の悩みはすべて 君の手の下で眠りにつくことだろう…」

 後奏のピアノの余韻が消えると、ホールは喝采に包まれた。アメリカの同時多発テロ事件で世界が揺れている、今年(2001年)9月21日のことであった。

NHKテレビでも放送

 この模様は、地元ケーブル・テレビばかりか、NHKテレビ「首都圏ネットワーク」でも放送され、このテレビのインタビューに答えて鮫島さんは「収容所で作られたとは思えない、とても愛に満ちた曲」と評された。遠く静岡、栃木などからもお問い合わせが相次いだ。まさしく歌は鉄条網を越えて、今また時間の壁と国境の壁を越えたのであった。
(以上、「ドイツ兵士の見たニッポン」あとがきに代えて、より)

この曲、視聴できます

(鮫島有美子さんの下記CDサイト「祈り」をクリックしてください)

祈り

鮫島有美子

HMV&BOOKS online

 

(すると「収録曲」の16番目に「閉じておくれ、僕の眼を」という曲名が出てきますので、右のヘッドホンマークをクリックすると視聴できます。下はその画像説明だけですので、ヘッドホンマークをクリックすることはできません。必ず、上の鮫島さんのCD紹介サイトから入って、収録曲⇒16.閉じておくれ、僕の眼を⇒右端のヘッドホンマークをクリックして視聴する、というふうにお進みください。)

「閉じておくれ、僕の眼を」が入ったCD「祈り」。残念ながら習志野市にはないようですが、我孫子市民図書館などにはあるようです。

検索結果書誌一覧:蔵書検索システム (city.abiko.chiba.jp)

その後もこの曲は音楽会などで歌われたり、演奏されたりすることが多くなりました

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余談:ミリエスの他にもこの詩に曲をつけた作曲家ベルク

(「ドイツ兵士の見たニッポン」執筆者Hさんからの投稿です)

シュトルムの“Schliesse mir die Augen beide”には、ミリエスの他にも曲をつけた作曲家がいます。オーストリアの作曲家アルバン・ベルク(1885~1935)です。

ベルクが作曲した「閉じておくれ、僕の眼を」は二つある

しかも1907年と1925年の2回、まったく違う曲を付けているのです。

まず、ミリエスが習志野で作曲するちょうど10年前、1907年にベルクが作曲したハ長調の曲を聴いてみましょう。

ミリエスの曲にも一脈通じる、民謡調の歌です。

ところで、ベルクという人は無調音楽や十二音技法を確立し現代音楽への道を開いた作曲家として知られています。伝統的な音階は、ドレミファソラシの7音で出来ています。その間に半音、ピアノの鍵盤で言えば黒い鍵盤が5つあるのですが、これらは臨時に使うもの、曲を変化させるものと考えられてきました。これに対して十二音技法というのは、5つの黒い鍵盤もドレミファソラシの7つとまったく対等に使おうとするものです。その結果、ハ長調とかイ短調といった調性感もなくなり、伝統的な音楽とは一線を画する響きが生れてくるのです。

実は、ベルクがシュトルムの詩に改めて作曲した1925年の曲は、十二音技法を初めて本格的に使ってみせた大胆な楽曲として知られているのです。こちらがその1925年の曲です。

1907年のものとは一転して、不思議な響きですね。

ところでこの詩は「私の両目を閉じてください、そのやさしい両手で」と歌っているのですが、その結果与えられる「眠り」は明日の朝までのものなのでしょうか。それとも永遠の眠り、つまり死のことなのでしょうか。次の朗読はどうやら死をイメージしているようです。

郷土シュレスヴィッヒ=ホルシュタイン州が生んだ偉大な詩人シュトルムの詩に作曲したミリエスの望郷の念

1917年に習志野で作曲したミリエスが、ベルクの10年前の曲を意識していたのかどうかはわかりません。しかし、この2つはどちらも素朴な民謡調で、どうも一夜の眠りにいざなってくれるような感じです。一方、ベルクの1925年の曲は、ちょっと死の世界を垣間見るような感じさえします。

多くのドイツ人が、どちらがふさわしいと感じているのか、一度尋ねてみたいものですね。

 間違いなく言えること。それは習志野のミリエスが、郷土シュレスヴィッヒ=ホルシュタイン州が生んだ偉大な詩人シュトルムの詩に作曲したということです。そこには強い望郷の念が込められていたことでしょう。

 

 

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