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住みたい習志野

市内の情報を中心に掲載します。伝わりにくい情報も提供して行きます。

バウムクーヘンの記事の補足⇒ドイツのお菓子、ベルリーナーについて

2023-01-08 21:24:03 | 俘虜収容所

「ドイツ兵士の見たニッポン」の著者、Hさんからの投稿

バウムクーヘンもラジオ体操も習志野発祥??? - 住みたい習志野

に、市民の方から「習志野ベルリーナーってやめちゃったの? 美味しかったのに!」というコメントをいただきました。有難うございます。これについてHさんにお伝えしたところ、以下の追加説明をいただきました。

大久保の「カトラン」で販売した「習志野ベルリーナー」、現在は休止中

 ベルリーナーとはドイツのお菓子で、ジャム入り揚げパンです。習志野では捕虜の日記の随所に登場し、手軽なおやつとして作られていたことがわかります。

 これに注目した習志野商工会議所が中身をジャーマンポテトに替え、大久保の「カトラン」で販売したのが「習志野ベルリーナー」です。NHKテレビでも取り上げられましたがあまり広まらず、その後、商工会議所が「習志野ソーセージ」に軸足を移したこともあって、現在は休止されたままになっているようです。

 ところで、本来のジャム入りのベルリーナーは家庭でも簡単に作ることができます。

ベルリーナー・プファンクーヘンのレシピ - 生かし屋さん。

ベルリーナー・プファンクーヘンのレシピ - 生かし屋さん。

こんにちは、嵜山拓史(さきやまひろし)(@sakihirocl)です。今回はベルリーナー・プファンクーヘンのレシピ!ドイツのジャム入りの揚げパンです。 材料 生地 ・薄力粉 200g ...

生かし屋さん。

 

【ドイツ菓子】大晦日・カーニバル定番菓子ベルリーナーの作り方・レシピ

ドイツ人は戦争ばかりやっていた。戦場ではじっくりパンを焼けずに揚げパンをつくった。だから「ベルリン風」とネーミング?

正式にはベルリーナー・パンクーヘン(ベルリン風パンケーキ)というのですが、なぜ揚げパンがベルリン風なのか。こんな伝説があります。

 昔、戦争をするとき、日本では「鍋奉行」が、大鍋でごった煮を作っては雑兵にふるまっていました。一方、ヨーロッパでは「パン焼き兵」というのがいて、陣地を作るとかまどを据え、パンを焼いては兵隊に配っていたそうです。

 ある時、やっとかまどを据え、パン種をこねたところで敵が襲撃してきた。パン種を並べた板を抱えてスタコラ逃げだしたのですが、かまどを取られてしまったのでどうしようかという時、誰かが「油で揚げちゃえば食えるぞ」と言ったのだとか。だから「ベルリン風」。戦争ばかりやっていたプロイセン(現在のドイツ)を揶揄(やゆ)しているのでしょう(笑)。

ドイツ人捕虜は、こんな美味しいものも作って食べていた

 捕虜などバケツで残飯でも食わされていたのだろう、などという方がいますが、まったく違います。信じられないことかも知れませんが、このようにお菓子を作って、習志野の日本人住民に配って喜ばれたという記録もありますし、収容所内では炊事当番が、ドイツ料理を作っていました。

ドイツ人捕虜は収容所でこんな美味しいものを作って食べていた - 住みたい習志野

 

 

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バウムクーヘンもラジオ体操も習志野発祥???

2023-01-07 23:09:20 | 俘虜収容所

(「ドイツ兵士の見たニッポン」の著者、Hさんからの投稿です)

バウムクーヘンもラジオ体操も習志野発祥???

 正月飾りを外そうとしていたら、スマホに知人からメールが入りました。「バウムクーヘンもラジオ体操も習志野のドイツ兵が発祥らしいですね」と。えっ? えっ? えっ? 誰がそんなこと言ってるの?

 確かめてみると、火元はこちら
(習志野経済新聞)

習志野で企画展「ロシア兵、ドイツ兵の俘虜収容所」 民間との交流も紹介

習志野で企画展「ロシア兵、ドイツ兵の俘虜収容所」 民間との交流も紹介

習志野市市民プラザ大久保(習志野市大久保4)で現在、「習志野にもあったロシア兵、ドイツ兵の俘虜(ふりょ)収容所」が開催されている。

習志野経済新聞

 

市民プラザ大久保で1月30日まで開催されている資料展「ロシア兵、ドイツ兵の俘虜収容所」を紹介した記事でした。

(この資料展については、このブログでも
12月のイベントのご案内 - 住みたい習志野
でご紹介済みです)

この新聞記事にはこう書かれています。

 主催した大久保商店街協同組合の三橋正文理事長は「バウムクーヘンやラジオ体操など、当時の日本になかったものをドイツやロシアの捕虜が伝えた事実や、民間との交流があったという歴史を、展示を通して新しく習志野で生活を始めた方に知ってもらえれば」と来館を促す。

 なるほど、主催者の大久保商店街協同組合・三橋理事長は、バウムクーヘンやラジオ体操などをドイツやロシアの捕虜が伝えた歴史を知ってもらえれば、と語ったというのですが、よく読めば、決して「習志野にいたドイツ兵がバウムクーヘンを伝えた」とは言っていません。そう読めてしまうのも無理ないところですが…。

バウムクーヘンは、広島にあった似ノ島収容所でドイツ人捕虜ユッフハイム(ユーハイム)が作った

 バウムクーヘンは、習志野ではなく広島にあった似ノ島収容所に伝えられました。青島で菓子職人をしていた捕虜カール・ユッフハイムが作ったのです。大正8年(1919)3月には、広島県物産陳列館で「俘虜製作品展覧会」が開かれます。似ノ島収容所のドイツ兵が作った模型や絵、楽器などが並べられ、広島の市民が多数来場しました。その中で人々の目を引いたのがユッフハイムのお菓子だったのです。大屋根のドームの下にバウムクーヘンの甘い香りがただよい、もらった子供らは大喜びしたといいます。今日「原爆ドーム」の名で知られるあの建物には、そんな歴史があったのです。

原爆ドーム(広島県物産陳列館) | ストーリー | 広島ピースツーリズム

原爆ドーム(左)と、その元の姿(右:広島県物産陳列館)、ここでバウムクーヘンが披露された

 ユッフハイムは解放後もドイツに帰らず、日本で洋菓子店「ユーハイム」を起します。今に至る老舗として愛されていることは言うまでもありません。

ユッフハイムが焼いたバウムクーヘンは、丸い切り株の形ではなくピラミッド型だった

 ところで、バウムクーヘンというと、火の上で回転する軸にタネをかけて、年輪を重ねた丸い木の切り株ように焼き上げることが知られています。しかし、収容所でユッフハイムが焼いたバウムクーヘンはそうではなく、四角い金型にタネを塗っては焼き、塗っては焼いて、木目のある材木のように焼いたものでした。なぜそれがわかるかというと、当時はバウムクーヘンと呼ばず「ピラミッドケーキ」と呼ばれていたからです。では、バウムクーヘンのどこがピラミッドなのか? お客さんに出す際、四角い一片のケーキにナイフを入れて、お皿の上に十文字に立てると、バウムクーヘンの縞模様がピラミッドに見えたのです。

両肩をカットして切れ端を前後に立てればピラミッド

 

 やはりバウムクーヘンは、ユッフハイムのようなプロの菓子職人でなければ難しかったか、習志野でバウムクーヘンを作ったという記録は見当たりません。ちなみに、最近は日本でもクリスマスに「シュトレン」というドイツのお菓子を見かけるようになりましたが、シュトレンは習志野でも、クリスマスには盛んに作られています。

(シュトレン)

絵本「バウムクーヘンとヒロシマ」似島ドイツ人捕虜収容所で誕生したお菓子の物語 - 住みたい習志野

読者からの情報:広島市似島ドイツ人俘虜収容所とバウムクーヘン - 住みたい習志野

 

ラジオ体操は、アメリカの保険会社の宣伝の健康増進体操をヒントに、昭和3年に日本で登場したが、もっと昔、明治時代には軍人の体力向上のための体操があり、「兵式体操」として学校教育にも導入された

 ところで、もう一つの「ラジオ体操」についてはどうでしょうか。

 日本のラジオ放送は大正14年(1925)に始まります。そしてラジオ体操は昭和3年(1928)に登場したといいます。アメリカのラジオがある生命保険会社の宣伝として、健康増進体操を放送していたのをヒントにしたのだと言われています。
日本生まれじゃない!世界初のラジオ体操を放送したのはアメリカ

(アメリカ、メトロポリタン生命保険会社の健康増進体操教本)

陸軍戸山学校軍楽隊にいた江木理一氏が、毎朝マイクの前に立って号令をかけていました。

 そういうわけで、ドイツ捕虜がラジオ体操を伝えたと言ってしまっては間違いです。但し、彼らが習志野に来る前、浅草本願寺に収容されていた頃の写真には次のようなものがあります。

本願寺の境内で朝、みんなで体操しています。

 これは引き続き、習志野でも行われたでしょうから、習志野収容所で「ラジオ体操のようなもの」をやっていたということは可能でしょうね。

 なお、軍人の体力向上のための体操は、日本でもラジオ放送開始より古くから普及していました。陸軍は明治7年に「体操教範」を定め、陸軍戸山学校に体育科を設置して指導者を育成しています。さらにこれは「兵式体操」と銘打って、明治中期から全国の学校教育にも導入されました。また、「海軍体操」はデンマーク体操をヒントに、堀内豊秋大佐が考案したといわれています。

 

 新聞記事ですから細かいニュアンスは省かれてしまい、バウムクーヘンもラジオ体操も習志野で発祥したかのような表現になってしまいましたが、ていねいに説きほぐせばこういうことになります。催事は1月30日までだそうですから、足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

 

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市役所で「現代習志野に生きるドイツ文化」という展示

2022-12-10 08:33:45 | 俘虜収容所

「現代習志野に生きるドイツ文化」という展示

市役所本庁舎1階展示コーナーでは来年3月末まで「現代習志野に生きるドイツ文化」という展示を行っているそうです。月~金(祝日・年末年始を除く)の8:30から17:00までとのことです。

現代習志野に生きるドイツ文化を見に来ませんか?|習志野市ホームページ

ん?「独墺同盟」?

ただこのお知らせ記事で習志野市は「第一次世界大戦時の独墺(ドイツ・オーストリア)同盟俘虜収容所」などという言い方をしていますが、これは間違いでしょうね。

習志野にオーストリアの兵隊はいましたが、オーストリアは日本に宣戦布告していません。

日独間の雲行きが怪しくなったのは、オーストリア巡洋艦「カイゼリン・エリーザベト」号が日本に親善航海に来る途中でした。長崎へ向かうのを止めてとりあえず天津に入港し、日独開戦となっても局外中立でいくことになります。ところがドイツ海軍がベルリンで、「東洋にいるカイゼリン・エリーザベトは、我々と一緒に日本と戦うことになった」と意図的な誤報を流してしまいます。オーストリアは抗議したのですが、ドイツに押し切られてしまいました。そこでカイゼリン・エリーザベトは青島に入り、やりたくもない戦闘に巻き込まれ、結局自沈してしまいます。

詳しくは「住みたい習志野」の次の記事をご参照ください。

習志野に収容されたオーストリア海軍の将校たち:ウィーンフィル来日歴史秘話(つづき) - 住みたい習志野

フェイク・ニュースで戦争にまきこまれた「カイゼリン・エリーザベト」号、艦長と将校は習志野収容所へ

 ウィーンからの命令は、「カイゼリン・エリーザベト」は日本とドイツの戦争に巻き込まれぬよう、まず船をドイツの租借地・青島(チンタオ)に入れ、乗組員はそこから鉄道で天津に行けと命じてきました。実際、そのようにしたのですが、そこで事件が起こります。何とドイツ政府が「オーストリアの『カイゼリン・エリーザベト』号は我が軍と共に、日本と戦うことになった」というフェイク・ニュースを流してしまうのです。オーストリアは抗議しましたが、ドイツに押し切られてしまいます。その結果、「カイゼリン・エリーザベト」の乗組員はまた青島に戻り、日本軍と戦うことになってしまうのでした。

 戦況は明らかでした。「カイゼリン・エリーザベト」は大砲を外して陸に上げ、青島港で自沈します。乗組員は美しい艦影が海に消えた後も、陸上の戦闘に参加しますが結局降伏し、ドイツ兵と共に日本国内の捕虜収容所に送られたのです。水兵と下士官は兵庫県の青野ヶ原収容所、そしてマコヴィッツ艦長と将校は習志野収容所で帰国の日を待つことになったのです。

「俘虜収容所」に関する「住みたい習志野」の記事

俘虜収容所については、「住みたい習志野」でも何度も取り上げてきましたので、ご参照ください。

「俘虜収容所」のブログ記事一覧-住みたい習志野

習志野から消される?ドイツ人捕虜収容所の歴史(菩提樹、聞き書き民話、西郷寅太郎) - 住みたい習志野

習志野歴史散歩(番外編):習志野市に郷土資料館はないけれど… - 住みたい習志野

 

 

 

 

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黎明期の日本サッカーにとって記念すべき土地だった習志野

2022-11-23 21:54:33 | 俘虜収容所

(「ドイツ兵士の見たニッポン」の著者、Hさんの投稿です)

日本にサッカーが伝わったのはいつ?

日本にサッカーが伝わったのはいつだったのか。これには4つも説があるそうです。

①慶応2年(1866)に横浜市山手でイギリス軍が行った試合が最初という説

②明治5年(1872)に神戸市の外国人居留地で行われた試合が最初という説

③明治6年(1873)に東京築地の海軍兵学寮において、イギリス海軍からの軍事顧問団が紹介したが最初という説

④明治7年(1874)、東京大学工学部に招かれたスコットランド人ライマー・ジョーンズが教えたのが最初という説

いずれにせよ、明治の初めには知られていたことになりますが、日本人が実際にプレーするようになるのは、神戸市の御影師範学校(現・神戸大学教育学部)を中心に関西においてであったと言われています。

黎明期の日本サッカーにとって記念すべき土地だった習志野

ところで、こうした黎明期の日本サッカーにとって習志野も、記念すべき土地でした。大正のドイツ捕虜が収容所でサッカーを楽しんだのです。まずは残されている写真を見てみましょう。

「習志野スポーツ祭 1919年5月」と書かれています

習志野でのサッカーの最初の試合は、浅草本願寺から習志野に移った大正4年に行われた

彼らは習志野に移される前、浅草の本願寺で1年近くを過ごすのですが、既に浅草にいた頃からサッカーをやっていました。しかし、いかに本願寺が大きくても、ドイツ兵が走り回るには狭く、蹴り上げたボールが屋根瓦を割ってしまい、お寺から怒られたという話も残っています。それが習志野に移されて(大正4年9月)、広い敷地を見て「これならサッカーが出来るぞ」と喜んでいるのです。因みに、習志野に来て最初の試合は、浅草から移転した直後の11月で、1対1の引き分けだった(1916年5月30日号、ケルニッシェ・ツァイトゥング紙)と記録されています。

習志野でも盛んに行なわれたサッカー、広島県似島収容所では学生たちとの試合が、サッカー熱に火をつけた

このように、習志野でも盛んにサッカーが行われたのですが、残念ながら他の収容所のように、日本人が見学に訪れたとかドイツ兵と練習試合を行ったという記録は、今のところ見られません。ドイツ兵と日本人がサッカー交流をしたことで有名なのは、広島県の似島(にのしま)収容所(広島市南区)です。大正8年(1919)1月、広島学生チームが似島収容所のドイツ兵と対戦します。結果が学生チームの大負けになったのですが、これで学生たちはサッカーに目覚めます。毎週のように小舟に乗っては似島に渡り、ドイツ兵たちから指導を受け、ドイツ兵も熱心に教えてくれました。この時の学生らが、後に教員として赴任した各地でサッカーを指導し、西日本一円に影響を与えたとされています。

「似島イレブン」の選手だったドイツ兵がつくったサッカーチームで指導を受けた、浦和レッズのギド・ブッフバルト

「似島イレブン」の中にフーゴ・クライバー(1894~1976)という兵隊がいました。彼は収容所から解放されるとドイツに帰り、故郷ヴァンヴァイル(Wannweil)の町で「S.Vヴァンバイル」というチームを創立します。それから80年後、浦和レッズで活躍したギド・ブッフバルトは、少年時代この「S.Vヴァンバイル」でクライバーの指導を受けていたのだ、という秘話が2006年のワールドカップ・ドイツ大会に寄せて日本のテレビで紹介され、感動を呼んだものでした(テレビ新広島「ドイツからの贈りもの~国境を越えた奇跡の物語~」。2006年1月22日放送)。

ドイツ人俘虜収容所

調べていないだけで、習志野においてもきっとこうした物語はあったのだろうと思われます。

日本サッカーの基礎をつくったデトマール・クラマー

現代の日本サッカーが、昭和39年の東京オリンピックに向けて招かれたデトマール・クラマー(1925~2015)の指導によって築かれたことはよく知られていますね。

デトマール・クラマー(, 1925年4月4日 - 2015年9月17日)は、ドイツのドルトムント出身のサッカー選手、サッカー指導者。デトマール・クラマーと表記されることもあった。
クラマーは日本サッカー界初の外国人コーチであり、サッカー日本代表の基礎を作り日本サッカーリーグの創設にも尽力したことから「日本サッカーの父」と称された

さぁ、今晩の対ドイツ戦、どういうことになるでしょう。楽しみですね。

 

 

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第九の歌詞をみんなの共同作業で日本語に一語一語直してみたら、歌に魂が入った、というお話

2022-09-21 17:22:40 | 俘虜収容所

(「ドイツ兵士の見たニッポン」の著者、Hさんが、習志野第九合唱団にまつわるエピソードを話してくれました)

昨年の習志野第九合唱団の動画が見られるようになった

習志野第九合唱団が、昨年の「第九演奏会」から第四楽章の動画をYouTubeにアップしました。

コロナ禍での演奏会、初代習志野文化ホールの貴重な映像、と後世歴史の一コマとなる?

コロナ禍での第九、ということで、合唱団が、首まで垂れた白覆面をつけた、ちょっと異様な演奏会ですが、コロナ禍での演奏会、また初代習志野文化ホールを伝える貴重な映像として、後世歴史の一コマとなるでしょうね。

もっと早くからやって、会場に来ない市民にも親しんでもらえば良かった。ちょっと残念。
 もっと早くからこういうことをやって、会場に来ない市民にも親しんでもらうことをやればよかったのに。もう「文化ホールさようなら」という段になっての動画アップはちょっと残念です。

最初はみんな歌詞の意味がわからなかったが、合唱団の共同作業で逐語訳を作ってみたら、歌に魂が吹き込まれた

 私が社会教育課で習志野第九演奏会を担当して、問題だと思ったのは、合唱団が歌詞の意味を逐語的には知らなかったこと。
詞の一節、一節とそれぞれの日本語の意味は対訳本か何かを読んで知っているのですが、単語一語、一語の意味を知らない。

 Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysiumという節が「喜びよ、美しき神々の火花よ、楽園の乙女よ」という意味だとは知っているのですが、ではFreudeとは何なのか。Elysiumとは何なのかと聞いてもわからない。神々がどれなのかもわからない。カタカナで暗記して、さもさもの顔をして歌ったって、魂が入っているわけがありませんね。

それでは話にならない。誰か、音楽評論家が翻訳した訳詞を鵜呑みにするのではなくて、合唱団で共同作業をやって逐語訳を作ってみてはどうか、出来たらそのまま日本語で歌える訳詞を作れば良い、と話してみました。最初は承服しかねるようでしたが、結局これが皆さんにとってかなりいい勉強になったようで、その成果はこちらにしっかり残っています。

音取り練習

「喜び、輝く神の火花よ/光の国へと我らは進む/この世の力に裂かれた者も/すべての人みな“はらから”となる」
 ちゃんと日本語で歌えますね。鳴門の「全日本第九を歌う会」にこのことを知らせたところ、ここまで意識の高い第九合唱団は他にありません、とヨイショしてくれました(笑)

結び

習志野第九合唱団。市民による第九演奏会としては全国でも最古参、習志野が誇る財産ですが、今年の第44回(12月18日(日))で現在の文化ホールでの演奏は終ります。新文化ホールが出来るまでの間、どうなるのでしょうね。

<これが、その日本語訳詞>

当時作られた日本語訳詞です。第九を日本語で歌えるようになりました

「2004年5月8日 第九初演から180年目の夕べに」

友よ聞け、友よ! この音(ね)でなく
より大いなる喜びに溢れて
快い光に満ちたあの歌を!

喜び、輝く
神の火花よ
光の国へと
我らは進む
この世の力に
裂かれた者も
すべての人みな
兄弟(はらから)となる

まことの友だち
いとしい妻を
勝ち得た者らは
集いて歌え
この世に一つの
真心さえも
得られぬ者らは
ここを立ち去れ

あまねく我らをうるおす
自然の恵み
バラ咲く小路を
等しく歩む
ぶどうに口づけ、
まことの友と
導く天使は
神の御前に!

おお、大空高く火は燃えて
あまたの星は飛び交うよ、天空の道
いざゆけ友よ、いざゆけ友よ
勝利に向かい勇士のように

抱き合えもろびと、
口づけ受けよ
天のかなたに
おわすのは我が父

ひれふせ、もろびとよ
求め捜せ、さぁ
星のかなたに
かなたに我が父を


(編集部より)

ならしの洋楽事始(習志野収容所オーケストラに関する講演録)もご参照ください。

kouennroku_3.pdf

 

 

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