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住みたい習志野

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歴史秘話 習志野の“フランス兵”

2023-10-10 17:52:12 | 俘虜収容所

習志野の“フランス兵”

 

 久しぶりに、ドイツ捕虜研究者のHさんを訪ねてみました。以下、編集部でうかがったお話です。

アルフォンス・ドーデの「最後の授業 La Dernière Classe」

アルフォンス・ドーデの「最後の授業」というおはなしがありました。昔、国語の教科書で読まされたように思います。

フランスのアルザス地方に住む少年は、今日も学校が嫌で遅刻します。てっきり先生に叱られると思って教室に入ると、先生は怒らず、早く座れと言います。先生は、戦争でフランスが負けた結果、この村はドイツ領になり、フランス語で授業をするのはこれが最後なのだ、と言うのでした。先生は最後に、黒板に「フランス万歳!」と大きく書くと泣き伏してしまったのだった、といった物語です。

陸続きのヨーロッパでは、そんなことがあるのだなと思ったものです。

ドイツ領になったり、フランス領になったりの「アルザス・ロレーヌ地方」

 この物語は普仏戦争(1870~71)でアルザス地方(もう一つロレーヌ地方というのがあり、二つ合せてアルザス・ロレーヌ Alsace-Lorraine 地方と呼ばれます。なおドイツ語では、エルザス・ロートリンゲン Elsaß-Lothringen といいます)が負けたフランスからドイツに割譲されたときのものです。その後、第一次世界大戦では、負けたドイツから再びフランスに返され今日に至っています。

この地域、実は習志野と深く関わっている

ところで習志野は、実はそのことに深く関わりがあるのです。

ドイツが負けてアルザス・ロレーヌはドイツ領からフランス領になったため、ドイツ兵として戦ったアルザス・ロレーヌ出身者は戦勝国フランスの国民としてすぐに故郷に帰れた、というややこしいお話

こちらは「歴史写真」という月刊グラフ雑誌の、大正8年7月号(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます)の中の一ページです。

最近解放せられんとするアルサス・ローレン 二州出身の独逸俘虜」とあり、日本の女性が大きなやかんを持って、ドイツ兵の水筒に水を入れてやっているのを、集まった一同が笑いながら見ている場面です。日本の衛兵も微笑を見せています。

解説文にはこうあります。「講和会議の項目中には普仏戦争に於て独逸(ドイツ)が仏蘭西(フランス)より奪取したるアルサス・ローレン二州を此のたび仏国に返還することを議定してある。此の一事は既に独逸も充分承認の意向を示しているので、青島(チンタオ)戦役に於て我国に俘虜とした右両州出身者百二十余名を仏国大使の斡旋にて近く解放することになり大正8年6月上旬全国各地に分居している該俘虜を一先ず習志野収容所に集合せしむることとなった。写真は広島県下似島収容所に居たベルシャンヂレン外15名が6月3日午前七時東京に到着したる光景であるが、一行は何れも戦役当時支那内地から召集された予後備兵で35歳から50歳位までの老兵許(ばか)りであった。」

 前年11月に大戦が終り、ヴェルサイユ講和条約の中でアルザス・ロレーヌ両州はフランスに返されることになりました。そこで日本各地の収容所にいる両州の出身者を習志野に集め、東京のフランス大使館に引き渡して早く帰国させようというプロジェクトがあったのです。

 習志野収容所に全部で何人のドイツ兵がいたのか、と問われると、「およそ1千人弱」とあいまいな答えになってしまうのは、実はこのことが関係しています。他の収容所から習志野に移送されてくる者と習志野でフランス大使館に引き渡される者の出入りがあるので、数え方が難しいのです。なお、この写真の撮影場所は「東京に到着したる光景」というのですが東京駅ではなく、習志野収容所である可能性も否定できないでしょう。

ドイツ人からフランス人になった兵隊が、「ラ・マルセイエーズ」を唄うと、ドイツ兵が「ラインの守り」をラッパで吹き鳴らしていやがらせ

 フランス大使館への引き渡しについては、こんな面白い話が残っています。

「我々の内のフランス人もまたその大多数は、エルザス・ロートリンゲンの出身者だった。すべての収容所から集められ、我々の収容所から100メートル足らずの所に並んでいる、昔のロシア捕虜収容所に収容された。我々は、彼らがそこを歩き回っているのを見ることが出来た。ある晴れた日に、そこにフランスの三色旗が高く掲げられ、今から集められた新フランス人が、その祖国への宣誓をするのだという話だった。フランス公使館の高官か公使自身が、姿を見せていた。そこで、我々の側のある戦友がラッパを持ち出して来ると、収容所の柵の所からフランス人収容所に向けて、あらん限りの力で、あの懐かしい、ドイツの闘争と抵抗の歌を吹き鳴らしてやったのだ。『雷鳴の如き雄叫び起こり、干戈の響き轟き渡る。ラインへ、ラインへ、我がラインへ!我ら皆その防人たらん』と。

 これは明らかに、向う側の行事を妨げた。一人の使者が日本の収容所長の所に現われ、ラッパの吹奏によるこの挑発を直ちに禁止するよう、要求した。日本側はしかし、このフランス側使者の明らかに横柄な調子に腹を立てたらしく、捕虜が音楽を演奏することは、明確に許されていることだ、と宣言した。今になって禁じることはできない、と。

(「カール・クリューガーの回想録から」「習志野市史研究3」所収)

 習志野収容所の外でフランス国旗を掲げ、ラ・マルセイエーズを歌ってアルザス・ロレーヌ出身者の解放式をやっていると、まだ帰れないドイツ兵がラッパを持ち出し、「ラインの守り」を吹いて妨害した。怒ったフランス大使館が山崎所長の所に押しかけ、あの妨害を何とかしろと抗議したが、日本側は肩をすくめて見せただけだった、というのですね。

 昨日まで戦友だったのに、今日からフランス人だ、お先にバイバイというのでは、残されたドイツ兵も面白くなかったのでしょうね。

ラ・マルセイエーズ(フランス国歌)

ラインの守り(ドイツ軍歌)

映画「カサブランカ」には、習志野とはちょうど逆の、こんな場面が出てきます。

ナチス・ドイツの将校が「ラインの守り」を歌っているのを聞いたレジスタンスの闘士ヴィクター・ラズロが、バンドに命じて「ラ・マルセイエーズ」を演奏させ、みんなで歌ってドイツ将校たちを黙らせる、というシーンですね。

ラズロとリック(ハンフリー・ボガード)の間で揺れ動く女性を演じたイングリッド・バーグマン、本当に素敵でした。

ちなみにラズロのモデルは、後のEUにつながる「汎ヨーロッパ主義」を唱えたリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(日本名「栄次郎」)。日本人の血を引く人物です。

そのお母さんはクーデンホーフ光子(青山みつ)

 話がそれましたが、今でもアルザス・ロレーヌ地方に行って探してみれば、うちのひい爺さんはドイツ兵として、日本のナラシノという所にいたそうだ、というフランス人はいるのでしょう。

 なおアルザス語というのはゲルマン語の一つで、元々はドイツ系の人々です。またドーデの「最後の授業」は学校で公式の言語として教えるものがドイツ語に変更させられたということを言っているのであって、実際にはドイツ語もフランス語も出来るバイリンガルな住民がほとんどだそうです。例えば指揮者の小澤征爾さんの師匠に、シャルル・ミュンシュ(1891~1968)というフランスの名指揮者がいたのですが、彼はアルザス州の州都ストラスブール(ドイツ名:シュトラスブルク)の生まれで、生まれたときはカール・ミュンヒというドイツ人だったそうです。「密林の聖者」と呼ばれノーベル平和賞を受賞したアルベルト・シュヴァイツァー博士(1875~1965)もアルザスの人。やはり、生れたときはドイツ人でした。

 習志野の郷土史を紐解くと、意外にもヨーロッパというものが垣間見えてきますね。

(余談)

ドイツ帝国の国歌は、イギリスの「ゴッド・セーヴ・ザ・キング」の替え歌でした。

第一次世界大戦では、敵になったイギリスの歌ではさすがにまずいだろうということで、これに代えて「ラインの守り」が使われたのです。「ラインの守り」は日本では、同志社大学のカレッジソングとして知られています。

なお、今日ドイツ国歌として知られているハイドンの曲は、第一次大戦の時代にはオーストリア=ハンガリーの国歌でした。

ややこしいですね。

 

 

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習志野民話 紙芝居で継承。9月20日イベント(読売新聞の記事より)

2023-08-15 12:47:03 | 俘虜収容所

(読売新聞の記事より)

習志野民話 紙芝居で継承

 習志野市に残る民話を未来に継承しようと、市内などに住む主婦らのグループ「ちごゆり」が紙芝居で民話を紹介する活動を続けている。9月に市内で紙芝居イベントを開催する予定で、メンバーは「都会化した習志野市に、民話が残っていることを知ってほしい」と意気込んでいる。

来月20日イベント

 イベントは「紙芝居でみる わたしの町」と題し、9月20日に習志野市本大久保のプラッツ習志野で行う。メンバーが民話「猫の花流し」と、第一次世界大戦時、同市東習志野にあった習志野俘虜(ふりょ)収容所にまつわる「小すずめのバラード」など3話を上演する。

 時間は午前11時半〜午後0時15分。入場料500円。問合せはプラッツ習志野(047-476-3213)へ

(編集部より)

紙芝居の「小すずめのバラード」にまつわるエピソードです。

習志野の民話「小すずめのバラード」の「小すずめ」とは一体、何ものか? - 住みたい習志野

同じ俘虜収容所で生まれた名曲「閉じておくれ僕の眼を」の演奏がyou tubeでご覧になれます。

これはステキ!習志野で生まれた曲「閉じておくれ僕の眼を」、竪琴で演奏 - 住みたい習志野

習志野の俘虜収容所で歌われた、「野ばら」の替え歌「小すずめのバラード」と、民話「小すずめのバラード」
同じく習志野で生まれた名曲「閉じておくれ僕の眼を」(習志野収容所にいたドイツ人作曲家ハンス・ミリエスが作曲)

「音楽のまち」習志野の原点と言えるかも知れません。
習志野市が世界とつながる、これらの文化遺産、市民の「宝物」として大事にしたいですね。

 

 

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これはステキ!習志野で生まれた曲「閉じておくれ僕の眼を」、竪琴で演奏

2023-08-13 02:57:09 | 俘虜収容所

これはステキ!習志野で生まれた曲「閉じておくれ僕の眼を」、竪琴で演奏

ドイツ人作曲家ハンス・ミリエス氏が習志野ドイツ人俘虜収容所にいた時に作曲した「閉じておくれ僕の眼を」という曲。習志野市の宝ですね。

竪琴ライアー奏者で声楽家の浜島史子さんの演奏と歌声をyou tubeでお楽しみいただけます。

ハンス・ミリエス作曲「閉じておくれ僕の眼を」(竪琴ライアー演奏)

Atelier Ofton lit.link(リットリンク)

8月5日に習志野でも演奏されたそうです。

 浜島さんは今回、「平和を祈る歌」としてこれを歌ってくださり、Facebookでも「生涯に渡って歌い継いでいきたい歌が、また一つ増えました。」とお話しされています。

 

東習志野図書館で戦争の講話イベント「平和をねがう」 ライアー演奏も(みんなの経済新聞ネットワーク) - Yahoo!ニュース

東習志野図書館で戦争の講話イベント「平和をねがう」 ライアー演奏も(みんなの経済新聞ネットワーク) - Yahoo!ニュース

 戦争の現状を今に伝える講話とライアー演奏のイベント「平和をねがう~次世代語り部による講話&ライアー(たて琴)演奏」が8月5日、東習志野図書館(習志野市東習志野3)...

Yahoo!ニュース

 

「閉じておくれ僕の眼を」は習志野ドイツ人俘虜収容所で作曲された - 住みたい習志野

「上海オーケストラ物語」という本に書かれたハンス・ミリエス(習志野収容所オーケストラ指揮者) - 住みたい習志野

習志野収容所で作られた曲「閉じておくれ…」を県立津田沼高オケが演奏。「習志野の宝に」 - 住みたい習志野

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習志野収容所で作られた曲「閉じておくれ…」を県立津田沼高オーケストラが演奏1月6日プラッツ習志野市民ホールでコンサートが行われました。演奏は県立津田沼高校オ...

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市のホームページの「ならしのNOW」に6日のワンコイン・プチコンサートの記事 - 住みたい習志野

津田沼高校オーケストラが「閉じておくれ…」など演奏(読売新聞) - 住みたい習志野

ドイツ人俘虜収容所が縁、県立津田沼高と徳島市城東高の合奏が「徳島新聞」に載りました - 住みたい習志野

習志野「ドイツ人捕虜オーケストラの碑」秘話:オクセンドルフ夫人の大活躍 - 住みたい習志野

ドイツ人捕虜収容所のあった習志野市と徳島市(板東収容所)の高校生、習志野収容所で作られた曲を合奏 - 住みたい習志野

習志野市ドイツ人捕虜収容所で作られた歌が日本でよみがえってから、今日で20年 - 住みたい習志野

(ソプラノ歌手、鮫島有美子さんの歌でこの曲をお聴きになれます)

8.3柵を超えた音楽会(習志野ドイツ俘虜収容所から生まれた歌) - 習志野市民フォーラム

8.3柵を超えた音楽会(習志野ドイツ俘虜収容所から生まれた歌) - 習志野市民フォーラム

今から100年前の1917年に習志野に俘虜収容所がありました(現習志野市東習志野)。第一次世界大戦期に中華民国青島で日本軍に捉えられた約1000人が収容されていました。収容所...

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津田沼パルコの中に、習志野ドイツ人俘虜収容所にいたケテルさんのお店があった

2023-07-17 09:21:41 | 俘虜収容所

津田沼パルコの中に、習志野ドイツ人俘虜収容所にいたケテルさんのお店があった

先日このブログで「津田沼で蘇る懐かしい思い出」(7月5日発売)という本の記事をご紹介しました。

市民が「津田沼で蘇る懐かしい思い出」出版。「サンポーショッピングセンター」の貴重な写真も - 住みたい習志野

市民が「津田沼で蘇る懐かしい思い出」出版。「サンポーショッピングセンター」の貴重な写真も - 住みたい習志野

(みんなの経済新聞の記事より)「津田沼で蘇る懐かしい思い出」出版好評だった展示会の内容を冊子化「津田沼で蘇る懐かしい思い出」出版好評だった展示会の内容を冊子化(...

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この本の中に、津田沼パルコがオープンした当時の出店一覧がありました。パルコの地下には「ケテル」というお店があったそうです。

「ケテル」の想い出

この「ケテル」についてブログ読者の方がこんな想い出を寄せてくれました。

 私が習志野市に転入してきた頃には、地下に「ケテル」があった記憶がありません。「あけぼの」や「京樽」はつい先日、西友が撤退するまでいましたし、紀文やヒロタ、東魁楼などがいたことも覚えていますが、「ケテル」は記憶がないので、多分数年で撤退してしまったのでしょう。

当時はテレビの奥様番組「3時のあなた」にエリーゼ・ケテルさんがよく出演して、ドイツ料理の実演などして有名でした。習志野ドイツ人俘虜収容所にいたヘルムート・ケーテルさんの息子の嫁さんだそうです。

当時、私は、よく池袋の地下街で「ケテル」のパンを買った記憶があります。

こんなマークの袋に入った、固いドイツパンでした。

習志野俘虜収容所を出た後、日本人女性と結婚し、ドイツレストラン「ケテル」などを開業したケテルさん

ケテルさんについては、船橋市の「地域講座」でこんな風に紹介されています。

https://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0002/0008/0002/p022513_d/fil/2-003.pdf

ヘ ルムー ト・ ケーテル  東京→習志野
解放後会津出身の女性 と結婚 昭和 2(1927)年 に東京・ 銀座並木通 りにバー「 ライ ンゴール ド」を開業 昭和 5(1930)年 にはその隣に ドイツ レス トラン ・「 ケテル」を開業 なお、「 ケテル」は平成16(2004)年 突然閉店

「住みたい習志野」にもこんな記事がありました

絵本「バウムクーヘンとヒロシマ」似島ドイツ人捕虜収容所で誕生したお菓子の物語 - 住みたい習志野

(「シーザー・ブログ2」さんのブログから転載した写真を、記事に付け加えさせていただきました)

ヘルムート・ ケーテル
東京・ 銀座並木通りにバー「 ラインゴール ド」を開業。

昭和 5(1930)年にはその隣にドイツ レス トラン ・「ケテル」を開業

『銀座「ケテル」』

『銀座「ケテル」』

私のような田舎は、銀座の昔 を 知りませんが、、それにしても、「ケテル」は、興味深い、、銀座5丁目 の 並木通りにあったドイツ料理レストラン 「ケテル」200…

シーザー・ブログ2

 

ケテルさんを紹介したドイツ語の記事

Helmut Ketel - Schleswig-Holstein und Japan

(ケテルさんと、レストランの従業員たち)

 

 

 

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習志野ドイツ人俘虜収容所にいた三人のポナペ兵

2023-02-13 23:38:24 | 俘虜収容所

(ドイツ兵士の見たニッポン」の著者Hさんから以下のお知らせをいただきました)

こんなYouTubeを見つけました。

The late Mr. Alwihsio Fredrick narrates the account of three Pohnpeian men in Tsingtao during World War I, Pohnpei. The German District Administrator Kersting sent three young Pohnpeian men to attend vocational trainings in German-Tsingtao, China in August 1911. They are Joseph Georg and Samuel Joseph from Mwahnd, Uh, and William Helgenberger from Areu, Madolenihmw. William’s father is a German, August Helgenberger who was a station manager of the German owned Jaluit Company on Pohnpei in the 1890s. Upon the break of the World War I, Japan invaded Tsingtao in China and Micronesia, which were under the German control in 1914. So those Pohnpeian men boarded the German warship Jaguar and were captured by the Japanese military. They were sent to Japan as war prisoners after the fall of Tsintao. The Japanese found those three Pohnpeians among German soldiers at a prisoner's camp in Japan and sent the Pohnpeians back home in the 1920s before the Germans. This narration was recorded by NGO Pasifika Renaissance Executive Director Takuya Nagaoka in 2004. Photo: German war prisoners, including three Pohnpeians men, in Japan (Source: Narashino City Board of Education)

故アルウィシオ・フレドリック氏は、第一次世界大戦中、ポンペイの青島にいた 3 人のポンペイ人男性の話を語っています。
 1911 年 8 月、ドイツ地区管理者のケルスティングは、3 人の若いポンペイ人男性を中国のドイツ地区青島での職業訓練に参加させました。そのうちの一人 ウィリアムの父親はドイツ人で、1890 年代にポンペイにあるドイツ人所有の Jaluit Company の駅長だった August Helgenberger です。
 第一次世界大戦が終結すると、日本は 1914 年にドイツの支配下にあった中国の青島とミクロネシアに侵攻しました。ポンペイ人はドイツの軍艦ジャガーに乗り込み、日本軍に捕らえられました。 彼らは青島陥落後、捕虜として日本に送られました。 日本人は、日本の捕虜収容所でドイツ兵の中にいるこれら 3 人のポンペイ人を発見し、1920 年代にドイツ人より先にポンペイ人を帰国させました。
このナレーションは、2004年にNGOパシフィカ・ルネサンス事務局長の長岡拓也氏によって録音されました。
 写真:在日ドイツ人捕虜(ポンペイ人3名を含む)(出典:習志野市教育委員会)

なお、フレドリクさんの写真は、「ドイツ捕虜余話」
https://jdg-chiba.com/about/pdf/kouennroku_2.pdf
の「第三話」で見ることができます。

(編集部より)
「第三話 ポナペ島の子孫」の一部をご紹介します。今はポンペイと呼んでいますが、昔は「ポナペ」と呼ばれていました。

習志野ドイツ人俘虜収容所にいた三人のポナペ兵

浅草の本願寺で撮った記念写真をそうやって複写していましたら、中にどうも、白人じゃない顔が見えるんですね。(編集部注:さきほどの動画に使われていた写真です)

当時、南洋群島がドイツの領土でして、そこの原住民が青島に送られ、ドイツ兵として戦って捕虜になった。そういう姿を見つけました。捕虜名簿を確認すると、現在はミクロネシア連邦となっているポナペ島の出身者が3名、習志野に収容されていたことがわかりました。

それから、平成12年にクレスト・ホテルで史料展をやりましたが、その会場に寄せられた情報として、太平洋戦争の折、この方は兵隊として、アメリカ軍の侵攻に備えてポナペ島に駐屯していたのだそうですが、パッシーバという島の娘と親しくなった。ある日、部隊を率いて山で対空陣地を築いていると、偶然パッシーバと行きあった。私の家はこの近くで、父は大変な日本びいきなので、ぜひ会って行って欲しい、と言われて行ってみると、ウェリヤムと名乗る父親が出てきた。大正の日独戦争の折、日本の捕虜となって習志野の収容所にいた。私が今日あるのは日本のおかげである、といって、私の部隊に大変なごちそうをしてくれたことを、今、何十年ぶりに思い出しました、という情報なのです。
そこで私から、在ミクロネシア連邦日本大使館に手紙を出しましたところ、当時の中島さんという大使がたいへん驚かれまして、現地で懸命に調査してくださいました。その結果、さきほどの記念写真に写っている3人のどれが誰だということも、ウェリヤム・ヘルゲンバーガーの子孫は大変に栄えており、ミクロネシア連邦の上院議員だのポナペ島のホテル王だのいるのだが、皆、「ウチの祖父さんが、写真だけど若くなって帰って来た」と、この話に驚いている、ということがわかりました。余談ですが、このポナペ島にはナンマドール遺跡という巨大な海底遺跡があります。
(編集部注:ナン・マドール遺跡、こんな遺跡です)
ララ・ポンペイ公式サイト - ミクロネシア:ポナペの旅行(ツアー)、ナンマドール、マンタ等のダイビング、フィッシング案内

一説にそれが竜宮城だ、浦島伝説の始まりはポナペ島だという話がありまして、あながちいい加減でもないらしいのですが、それはともかく、写真とは言え何十年ぶりに祖父さんが帰ってきたのですから驚いたんでしょう。また、ヘルゲンバーガー家の伝えでは、ポナペから青島に行った3人は、最初は軍艦のコックとして連れて行かれた。ところがウェリヤムだけは目が
非常に良かったので、軍艦のマストの上に登って、見張りをする役にさせられた。ところが戦争になり、青島で日本の軍艦と海戦になった際、ウェリヤムはマストから振り落とされてしまい、助けを求めているのにドイツの軍艦はどんどん逃げて行ってしまった。
もうこれまでだとあきらめたら、何と日本の軍艦が近づいてきて、救助してくれた。また、捕虜になってからも、日本の収容所長は大変によくしてくれて、最後は日本の船に乗せてポナペ島まで送ってくれた。だから軍艦の艦長の子孫と、収容所の所長の子孫がいれば、ぜひお礼を言いたいと言っている、というのです。
青島で助けてくれた軍艦のことは、いくら記録を調べても、いまだにわかりません。
しかし、捕虜収容所の所長のことはわかっています。一人は西郷寅太郎さんだし、西郷さんが亡くなった後、彼らをポナペに送り返す仕事をしてくれた二代目の所長は山崎友造という人だ、ということは前回もお話しました。その山崎所長のお孫さんに当る方が、大東文化大学で先生をされていまして、しかもそのご研究のフィールドがトンガ王国なんですね。そこでこの川村千鶴子先生、女性ですから結婚されて山崎姓ではなくなっていますが、川村千鶴子先生にお願いをしまして、次回トンガに行かれる際には、ちょっと手前のポナペ島で“途中下車”していただいて、ウェリヤムの子孫に会ってもらえま
せんか。両方の子孫の「ご対面」としませんか、と無理なお願いをしてみました。それが実現した写真がこちらです。右が川村先生、左がウェリヤムの長男フレドリックさんです。手にしているのは山崎所長の写真なんですが、現れたフレドリックさん、なんと日本語ペラペラだったそうです。川村先生が行ってくださった平成17年の時点で、フレドリックさん、80歳ですから、生れた時はこのポナペ島は既に日本になっていました。出来たばかりの国際連盟が「委任統治」といって、この旧ドイツ領だった南洋の島々
の統治を日本に委ねたのです。それで物心ついた時から日本人の先生に日本人としての教育を受けた。学校では、東京の宮城遙拝だの、ポナペ神社参拝なんていうのもあったそうです。もちろんポナペ人の現地の言葉もありますし、第二次世界大戦後はアメリカの信託統治領になりましたから英語が出来なければ暮らせないそうですが、やはり子どもの頃それで教育された日本語が一番なんだそうでして、「三つ子の魂百まで、ですよ」と笑っていたそうです。どうです。そう言えば風貌も、ポナペの南洋の人というよりも、農作業で色の浅黒い、久しぶりに会った茨城の伯父さん、といったくらいの風貌に見えませんか。

フレドリックさんが語ることには、習志野からポナペに戻ったウェリヤムは、日本の南洋経営の下で、砂糖きびや椰子のコプラなどを扱う実業家として大成功し、富を築いた。(編集部注:引用はここまで。詳しくは本文をお読みください)

 

 

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