岡本太郎は、芸術は綺麗であってはいけないといいました。
美しいなら良い。きれいではいけないと。
その違いが分かりますか?
ーーーーー
ちょっと聞くと、屁理屈みたいですよね。
これは、ある意味では画家の常識です。実は、汚いものにも美しさがあるのです。
よく、みなさんが綺麗ねえと言っている時、私には理解できないことがあります。
見ても、綺麗だとは思わないものが多いです。
紅葉が綺麗だというとき、桜が綺麗だと言うとき、一応彩度が高くて真っ赤になっているとか、桜が満開でみごとに咲いているとかの状態でしょうか。
しかし、私はそれを造形的に見てしまうのです。他のものとの対比なども含めて、美しく見えるなら、綺麗ねえに同意しますが、なかなかそれだけで「綺麗ねえ」には同意できません。
画家と言うのは、やっかいなものですね。
ーーーーーーー
また、みんなが汚いと思うような、雑然とした路地やごみの山でも、造形的に美しさを感じると、きれいという言葉ではないですが、美しさを感じます。
バランス、リズム、ハーモニー、アクセント、インパクト、などの造形要素が満たされて、ポイントがあって、明暗の組み立ての美しさ、色の配置の美しさなどが感じられると、これは美しい(絵になる)と感じます。
主役、脇役の組み立てなども、その要素には重要です。
そういうもので、美しさを感じるものです。
ーーーーー
ある意味で、人がなかなか見ようとしないものの中に、美しさを見出して、こんなところにもこんな美しさがあると示すのも画家の使命かな?と思ったりします。
だから、汚いと言われているものの中にも、美しさがあるのです。
だから、「きれい = うつくしい」ではない。
みんなが、綺麗と言っているものは、場合によると、表面だけの綺麗さであって、美しくないものもたくさんあるということです。
私は、綺麗なものの中にも美しいものがあると思うので、岡本太郎さんのように綺麗であってはならないとは思いません。綺麗で美しいならいいじゃないですか。
岡本太郎さんは、芸術は上手くてもいけないと言っています。
上手が先に見えて、テクニックで見せるようなものは技術であって、芸術ではないということだろうと思いますが、私は上手でも良いと思います。
上手、下手はタイプの問題だと話しています。
良い、悪いと上手、下手の違いをよく生徒に話してきました。
上手な絵の中にも、良い絵と悪い絵があります。
上手だけれど、写真みたいでつまらない絵というものがあるのです。
これなら、写真の方かよっぽどいいじゃないかと言われてしまう絵です。
もちろん、上手で良い絵もたくさんあります。だから、上手というだけでは、良い悪いは決められません。
逆に、下手な絵でも、味があって良い絵があります。
何とも言えない味わいのある絵があるんですね。
上手いとは再現力の問題ですから、写真に近い表現になると上手いと言われます。
絵は、写真ではないというところから、絵独自の存在価値が生まれて来ました。
だから、むしろ絵である魅力は、上手いということから外れたところにあるようです。
書で言えば、楷書が上手いなら、行書から草書への移行でしょうか?
へたうまという言葉がありますね。
一休さんの書は、これに当てはまるかなと思います。
また、相田みつおさんの書もそうかもしれません。
それぞれ、味があると思いませんか?
それが、ピカソの絵などと同じような扱いかなと思います。
下手に書いてあっても、味があるという感じが
お分かりいただけましたでしょうか?
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先日、カサブランカの絵を指導した時に、背景を汚してみました。
言ってみれば、汚くすることを教えました。
背景を汚くすることで、花の美しさを引き立たせました。
その方は、汚く汚すことを知りませんでした。
「汚す事を覚えると、一歩深くなるのですよ」と教えました。
それは、その部分だけを見たら、汚いと感じるような場合でも、全体を見たら美しいに通じるというものです。
このことは、画家にとっては常識ですね。
私は、生かす殺すと言いますが、その殺すの部分です。
素人の方は、全て綺麗に描きたくなるようです。だから、主役を目立たせることができないのです。
以上、きれいと美しいについて、書いてみました。
美しいなら良い。きれいではいけないと。
その違いが分かりますか?
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ちょっと聞くと、屁理屈みたいですよね。
これは、ある意味では画家の常識です。実は、汚いものにも美しさがあるのです。
よく、みなさんが綺麗ねえと言っている時、私には理解できないことがあります。
見ても、綺麗だとは思わないものが多いです。
紅葉が綺麗だというとき、桜が綺麗だと言うとき、一応彩度が高くて真っ赤になっているとか、桜が満開でみごとに咲いているとかの状態でしょうか。
しかし、私はそれを造形的に見てしまうのです。他のものとの対比なども含めて、美しく見えるなら、綺麗ねえに同意しますが、なかなかそれだけで「綺麗ねえ」には同意できません。
画家と言うのは、やっかいなものですね。
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また、みんなが汚いと思うような、雑然とした路地やごみの山でも、造形的に美しさを感じると、きれいという言葉ではないですが、美しさを感じます。
バランス、リズム、ハーモニー、アクセント、インパクト、などの造形要素が満たされて、ポイントがあって、明暗の組み立ての美しさ、色の配置の美しさなどが感じられると、これは美しい(絵になる)と感じます。
主役、脇役の組み立てなども、その要素には重要です。
そういうもので、美しさを感じるものです。
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ある意味で、人がなかなか見ようとしないものの中に、美しさを見出して、こんなところにもこんな美しさがあると示すのも画家の使命かな?と思ったりします。
だから、汚いと言われているものの中にも、美しさがあるのです。
だから、「きれい = うつくしい」ではない。
みんなが、綺麗と言っているものは、場合によると、表面だけの綺麗さであって、美しくないものもたくさんあるということです。
私は、綺麗なものの中にも美しいものがあると思うので、岡本太郎さんのように綺麗であってはならないとは思いません。綺麗で美しいならいいじゃないですか。
岡本太郎さんは、芸術は上手くてもいけないと言っています。
上手が先に見えて、テクニックで見せるようなものは技術であって、芸術ではないということだろうと思いますが、私は上手でも良いと思います。
上手、下手はタイプの問題だと話しています。
良い、悪いと上手、下手の違いをよく生徒に話してきました。
上手な絵の中にも、良い絵と悪い絵があります。
上手だけれど、写真みたいでつまらない絵というものがあるのです。
これなら、写真の方かよっぽどいいじゃないかと言われてしまう絵です。
もちろん、上手で良い絵もたくさんあります。だから、上手というだけでは、良い悪いは決められません。
逆に、下手な絵でも、味があって良い絵があります。
何とも言えない味わいのある絵があるんですね。
上手いとは再現力の問題ですから、写真に近い表現になると上手いと言われます。
絵は、写真ではないというところから、絵独自の存在価値が生まれて来ました。
だから、むしろ絵である魅力は、上手いということから外れたところにあるようです。
書で言えば、楷書が上手いなら、行書から草書への移行でしょうか?
へたうまという言葉がありますね。
一休さんの書は、これに当てはまるかなと思います。
また、相田みつおさんの書もそうかもしれません。
それぞれ、味があると思いませんか?
それが、ピカソの絵などと同じような扱いかなと思います。
下手に書いてあっても、味があるという感じが
お分かりいただけましたでしょうか?
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先日、カサブランカの絵を指導した時に、背景を汚してみました。
言ってみれば、汚くすることを教えました。
背景を汚くすることで、花の美しさを引き立たせました。
その方は、汚く汚すことを知りませんでした。
「汚す事を覚えると、一歩深くなるのですよ」と教えました。
それは、その部分だけを見たら、汚いと感じるような場合でも、全体を見たら美しいに通じるというものです。
このことは、画家にとっては常識ですね。
私は、生かす殺すと言いますが、その殺すの部分です。
素人の方は、全て綺麗に描きたくなるようです。だから、主役を目立たせることができないのです。
以上、きれいと美しいについて、書いてみました。
確かにそうかもしれませんね!
あまり考えず言葉を使っていましたが、これからは意識していきたいです。
いろいろ考えると、難しくなりますね。
ただ、画家は美しさに拘りますから、きれいとは区別して使います。