「みずうみ」いしいしんじ著(河出書房新社)を読みました。
いしいしんじさん待望の新作です。
これから先、ネタバレがあるので、本をこれから読む予定の方は読まないでくださいね。
全3章からなる長編小説。
各章は目に見えるつながりはなく、ゆるやかに水の底の流れのようにいくつもの細部によってつながっています。
「どれが原因でも結果でもない。すべてがつながっている。透明な大きなつながりの、目に見える岸への漂流物だ。」
第一章の舞台は湖の畔(ほとり)の村。
そこには家族の中に必ず一人眠り続ける人がいます。月に一度湖水が「コポリ」「コポリ」とあふれ出すと、眠り人の口からも水があふれ、遠く離れた風景や出来事を語りだします。水の香りのする、全体的に霧のかかったようなファンタジックな章。
第2章は毎日一定の場所にしか客が向かわなかったり、一日に何度も同じ客を乗せたり、奇妙な偶然に支配されるタクシー運転手の話。
彼はある決まった日になると体が膨張し体内から水があふれる体質。娼婦によってその体質を鎮めています。ある日彼は不思議に心惹かれる女性をタクシーに乗せます。彼女のことを思う彼の生活はだんだん変化していきます。
第3章の主人公は、松本に住む作家「慎二」と「園子」夫婦。
そして慎二の英語翻訳家であるボニーとその夫ダニエルのニューヨークやキューバでの体験が重なり合います。
第一章は今までのいしいさんの作品を好きな方(私も含め)なら文句なく気に入ると思います。水辺が舞台ということから前作「ポーの話」も連想されます。
第二章はタクシーの運転手の毎日の単調な仕事という現実の中に、主人公の特異な体質やさまざまな出来事の符号がちりばめられる不思議な作品。
主人公がラスト近く石を吐き出す場面が印象的。
そして全体を読んで思ったことは、章立てより連作短編という形をとったほうがよかったのではということ。「満ち引きする水」「運命を左右する水」「体の外と、中にある水」というイメージは各作品共通しているのですが、それはあくまでイメージであって一本通った太いストーリーがあるわけではないので。
特に第三章の主人公は名前からもある通り、いしいしんじさんと、奥様園子さんの分身のような存在だと思いますが、全体の中で特に浮き上がっているような感じがしました。
文章も「成田という空港」「つくねという食べ物」というように意識的に外側から見たまわりくどい書き方をしており、場面もこまぎれに変わって非常に読みづらく、ほかの章とは一線を画しています。
作中に「園子が鹿のきぐるみを着て慎二の前に現れたら、慎二はちょうどその時、作品に鹿を登場させていたところで驚いた」という偶然があります。
これは雑誌「文芸春秋」の昨年のいしいさんの特集号を読んだ方ならわかると思うのですが、「園子さんが熊の着ぐるみを着て現れたときにちょうど自分が「プラネタリウムのふたご」の熊が踊る場面を書いていて驚いた」という言葉があります。
ほかにもキューバの街中の描写や葉巻売りなどは既刊「キューバ日記」そのままのような記述が多いですし、私がもうそういういしいさんの日常を知っていることで、第三章を読んでいると「あ、もうこの話は知ってるよ知ってる」となってしまい、純粋に小説として楽しめなかったのが残念です。
読売新聞でのいしいさんのインタビューを読みましたが、1章を執筆後に、実際に奥様が死産の悲劇に見舞われたそうです。
その事実と痛みを知ってしまうと「作品としてどうこう」とはもう言えなくなってしまうのですが、この第三章自体がいしいさんの奥様へと、生まれなかった子供へのラブレターというか、とても個人的な作品の感じがして、この部分だけいっそ別の本にしたほうがよかったのではという感じもしました。
第三章は書かれている内容だけではなく、文体としても新しいものだと思います。これからのいしいさんの作品にどうつながっていくのか、それともこの章だけはこれからもぽかっと浮いた感じなのか。
早くも次回作が気になる・・・。
いしいしんじさん待望の新作です。
これから先、ネタバレがあるので、本をこれから読む予定の方は読まないでくださいね。
全3章からなる長編小説。
各章は目に見えるつながりはなく、ゆるやかに水の底の流れのようにいくつもの細部によってつながっています。
「どれが原因でも結果でもない。すべてがつながっている。透明な大きなつながりの、目に見える岸への漂流物だ。」
第一章の舞台は湖の畔(ほとり)の村。
そこには家族の中に必ず一人眠り続ける人がいます。月に一度湖水が「コポリ」「コポリ」とあふれ出すと、眠り人の口からも水があふれ、遠く離れた風景や出来事を語りだします。水の香りのする、全体的に霧のかかったようなファンタジックな章。
第2章は毎日一定の場所にしか客が向かわなかったり、一日に何度も同じ客を乗せたり、奇妙な偶然に支配されるタクシー運転手の話。
彼はある決まった日になると体が膨張し体内から水があふれる体質。娼婦によってその体質を鎮めています。ある日彼は不思議に心惹かれる女性をタクシーに乗せます。彼女のことを思う彼の生活はだんだん変化していきます。
第3章の主人公は、松本に住む作家「慎二」と「園子」夫婦。
そして慎二の英語翻訳家であるボニーとその夫ダニエルのニューヨークやキューバでの体験が重なり合います。
第一章は今までのいしいさんの作品を好きな方(私も含め)なら文句なく気に入ると思います。水辺が舞台ということから前作「ポーの話」も連想されます。
第二章はタクシーの運転手の毎日の単調な仕事という現実の中に、主人公の特異な体質やさまざまな出来事の符号がちりばめられる不思議な作品。
主人公がラスト近く石を吐き出す場面が印象的。
そして全体を読んで思ったことは、章立てより連作短編という形をとったほうがよかったのではということ。「満ち引きする水」「運命を左右する水」「体の外と、中にある水」というイメージは各作品共通しているのですが、それはあくまでイメージであって一本通った太いストーリーがあるわけではないので。
特に第三章の主人公は名前からもある通り、いしいしんじさんと、奥様園子さんの分身のような存在だと思いますが、全体の中で特に浮き上がっているような感じがしました。
文章も「成田という空港」「つくねという食べ物」というように意識的に外側から見たまわりくどい書き方をしており、場面もこまぎれに変わって非常に読みづらく、ほかの章とは一線を画しています。
作中に「園子が鹿のきぐるみを着て慎二の前に現れたら、慎二はちょうどその時、作品に鹿を登場させていたところで驚いた」という偶然があります。
これは雑誌「文芸春秋」の昨年のいしいさんの特集号を読んだ方ならわかると思うのですが、「園子さんが熊の着ぐるみを着て現れたときにちょうど自分が「プラネタリウムのふたご」の熊が踊る場面を書いていて驚いた」という言葉があります。
ほかにもキューバの街中の描写や葉巻売りなどは既刊「キューバ日記」そのままのような記述が多いですし、私がもうそういういしいさんの日常を知っていることで、第三章を読んでいると「あ、もうこの話は知ってるよ知ってる」となってしまい、純粋に小説として楽しめなかったのが残念です。
読売新聞でのいしいさんのインタビューを読みましたが、1章を執筆後に、実際に奥様が死産の悲劇に見舞われたそうです。
その事実と痛みを知ってしまうと「作品としてどうこう」とはもう言えなくなってしまうのですが、この第三章自体がいしいさんの奥様へと、生まれなかった子供へのラブレターというか、とても個人的な作品の感じがして、この部分だけいっそ別の本にしたほうがよかったのではという感じもしました。
第三章は書かれている内容だけではなく、文体としても新しいものだと思います。これからのいしいさんの作品にどうつながっていくのか、それともこの章だけはこれからもぽかっと浮いた感じなのか。
早くも次回作が気になる・・・。