森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

前進

2009年11月19日 23時15分21秒 | 過去ログ
昨日は午前中より事務補佐員の平澤さんに手伝ってもらい、
院生の研究費の管理、そして、次年度の教育研究装置の整備計画調書の作成、
そして、翌日の授業の準備を行った。

その後、週末の講演資料に手をつけ、
3年生のゼミを聞き、
米本君の予測的姿勢制御の研究と楠本さんのメンタルローテーションの研究手続きを議論した。
その後、時間があったので、少し脳の講義を行った。
彼らには未来を託したい。
その意味で最後はメッセージをこめた。
私の考える理学療法は違う。
それは学会などでは示さない。
プライベートな意識ではあるが、
人間の本質を意味していると自負している。
学習は一度リセットしないと始まらないし、
行為は一度解体しないと、学習できない。
解体作業は骨の折れる仕事だし、
この過程でだいたいあきらめてしまう。
意識するとフリーズするのは解体されるからである。
それは新たな位相での学習の始まりなんだが、
その発達の理解がないと、セラピストも患者もあきらめ、
本来つなげてはならないシナプス結合を強化してしまう。
それが今の現状である。

それはその後の子どものリハを千葉さんと考えたときも出た。
われわれPTやOTはできない経験を教えているのだと思う。
わからない経験を学習させているのだと思う。
動かない身体を経験させているのだと思う。

自己の身体は、それを使って脳のなかの身体に宿る。
それは外部世界と内部世界との相互関係性から生まれるものであり、
その関係性こそが現実に起こる現象である。
子どもの脳のなかに入り込むという視点が必要だ。
こちらから観察してもしょうがない。
子どもたちは何をみて、何を感じているのか?
それは三人称の視点からだけでは接近できない。
彼らの脳になりきるという演出が必要だ。
セラピストはアーティストなんだから。

自己と非自己(環境)を区別するのは、運動感覚である。
これによって自己感が生まれる。
しかし、その自己感にむけられたセラピーは殆ど存在しない。

身体から絶えず送られてくる体性感覚信号や運動感覚信号は、
主観性というものの土台であるが、その主観に目を向けることはほとんどない。

内部と外部はPF野で対話している。
情報としての意識は外部知覚であり、
主観としての意識、すなわち自己を感じる視点は内部知覚である。

これらはひとまとまりに統合されており、脳で校正される。
情報としての意識は、外部に対しての志向性であり、それは注意の影響を受ける。
一方、主観としての意識は、主観的感覚、クオリア、現象、情動を反映する。

内部の意識は一人称体験であり、第3者である観察者とは直接共有することのできない、個々人の意識の流れである。
一方、三人称体験は、他者の一人称的主観性を直接には体験できない外部の観察者という立場であり、最終的には文化も含めた概念、一般的あるいは抽象的な考えとなり、最終的には脳が自らの知覚活動をカテゴリー化して、「普遍性」を構成する働きを示す。
それらがコラボレーションしているのは脳内の神経現象であり、
それによって、運動の主体感が生まれる。

なぜ、自分自身が歩いているという運動の主体感があるのか?
それは身体からのフィードバックからではない。
すべては脳の一人称経験と三人称経験から生まれた記憶に基づく予測である。
それが遠心性コピーとなる。
自分が運動をしているという主体感は遠心性コピーなのである。
運動は目にみえるため、運動プログラムは最終的には最適化されるため、
これは三人称世界である。


一方、自己の身体をもっている、自己の身体があるという視点は、
感覚フィードバックの同期化から生まれる。
それは視覚と体性感覚の同期化である。
身体保持感はこのフィードバック情報の統合から生まれ、
内部の世界を構築する。
これは目に見えない一人称世界である。


この三人称世界と一人称世界がparietal cortexで結びつき、
ずれがあれば、更新されるが、
そのずれが大きいと、反射が増大してしまう。
シナプス前抑制をコントロールできなくなる。


私の身体はparietal cortexにある。
frontalでなく、parietalである。
だから物いわないのである。

私の正体が物言わないのである。


子どもたちの発達は、
この内部世界(知覚)と外部世界(知覚)が絶えず交信している。
運動は探索・志向性から生まれる。
何かについて知りたいと思うから行為が生まれるのである。
その知りたいという視点は外部に向けた志向性であり、
その際、外部知覚が生起するが、
同時に、内部の身体知覚が生起する。
その同期化こそ、学習には不可欠なのである。


ミラーニューロンにしても、幽体離脱や何にしてもどうやらこの身体化現象で説明がつく。


いろいろ考えるきっかけを昨日は奈良リハの千葉さんにもいただいた。



しかし・・・その夜より、激痛が。


今日はすべての仕事(授業、授業、教授会、大学院委員会)をキャンセルして、
病院にいくと結石であった。
レントゲンにしっかりうつっている。

腎結石から15年、久しぶりに激痛と格闘している。
痛みは主観的なものである。
よく結石は陣痛よりも痛いだとか、がんの痛みの次だとか、
しょうさせるが、
それはなってみないとわからない。
とにかく、もがき続ける痛みであることは間違いない。
15年前の1週ごとに破砕を受け、臨床をしていた時代がよみがえる。
痛み止めをなんとか駆使して、

明日、福岡に向かう。

福岡で講演、その後、兵庫で講演。


休息あるのみと思うが、なんとか食いしばり向かおうと思う。

講演がぶれるかもしれないが・・・