森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

挑戦がもたらすもの

2009年11月23日 21時45分28秒 | 過去ログ
金曜日は痛みをおさえ、博多へ。
気の合う仲間との会議に自分の安らぎを感じる。
日本全国に気の合う仲間がいることは人生の道において幸せなことと思う。
それが、単なるリハビリテーションだけの世界でなく、
文化、政治などの共通の宇宙を感じる。
とりわけ、音楽に関する宇宙を感じる。
自分のルーツを感じるというか、
ふるさとというか、
私の脳のなかには、私の来歴がある。
その中で、音楽というものは相当の範囲を占めている。
小学生のころから、レコードを聴くことに明け暮れていた。
それは母がスナックや喫茶を経営していたこともある。
いつも、喫茶の裏手にはレコードがあった。
毎週のようにモーニングを食べに別のジャズ喫茶にも行った。

しかし、中学1年のとき、高知大丸の隣の2Fのアメリカ広場でのロックの大音量に魅了され、それからロック付けになった。
もうロックとともに30年近くになる。


評議員会、理事会と仕事はあるが、
音楽の共通項に生きるっていうのはhappyだ。
水炊きの長野に4年ぶりに行き、その味を堪能する。


その後、ジャスについて一回り上の先輩たちの語りに耳を傾けた。
彼らの興味から生まれる知識は、聴いてて楽しい。
こういう感覚っていうのは、どんどん減りつつあるなあ。
もはや、関西に来て、こんな文化に関する話をすることもないし、
ましてや、自分より知識のある人間にはそう出会わない。
みんな機能的に生きている。
CPUは進んでいるが、人間らしさを感じない。
速さ、正確性を意識しすぎると人間らしさが失われる。
そんなことは人間が一番知っているはずなのに、
それをしてしまう、医療もその一つだ。
電子カルテ、パス、などなど、知恵、経験がいらなくなれば、
みんな新人理学療法士、作業療法士でいいじゃないか。
経験に左右されない誰でもできる理学療法。
そんなキャッチフレーズがここ最近はびこってる。
サイエンスの使われ方が間違っている。
理学療法士は理学療法士の手で理学療法を葬ろうとしている。
ベルエポック感がない。
すべては人間世界でなく、バーチャルな擬似世界だ。
病院の現場がそうであれば、もはや残るところは在宅しかない。
しかし、在宅リハを展開しているものもこれまた、機械的だ。
それは古巣の先輩たちで全国的に有名になった人たちをみても感じるところである。


自分の土曜日の講義は、久しぶりに挑戦だった。
10分以内に自分の新しい勉強を披露する。
一種の賭けもあったが、その挑戦があったからこそ、
少し前に進めた気がする。


みなと楽しみ、一足先に後ろ髪を引かれながら、
日曜に神戸に向けて移動を開始するが・・・
新幹線のなかで激痛に見舞われる。
とにかく痛いが、シンポジウムに行かないといけない。
なんとか我慢しつつ、シンポジストや司会のみなさんに挨拶して、
壇上に立つ。
時間がないが、ここ数日間勉強したことを盛り込み、
いつもの講演スタイルとは変えた。
そのせいか、大変わかりにくかったことも否めない。
あれもいっておくべきだった、
あのことはこっちから説明すればよかったなど、
久しぶりに自己の講義に反省をした。
プロって言うのはこういうもんだと再認識した。
プロダンサーはつねに反省する。
そういう感覚だ。
挑戦なくして、反省は生まれない。

最近、自分の講演に反省しなく、
比較的上手くいった感があったのは実は挑戦してなかったからだ。
だから差がうまれなかったんだ。

学習は予測と結果の差異から生まれる。
そんなことを講演している自分が、
忙しさに負けてしていなかった。


経験は挑戦から生まれる。
学習は挑戦なくしてありえない。


自分にとっては良くない講演の一つであったことは間違いないが、
結果として、自分を立ち直らせてくれた。
こういうささやかな失敗はあるべきだ。
まだまだ勉強が足りない。

「人生すべて勉強である」
それを感じるためには挑戦し続けなければならない。


壇上では痛みが何度が襲ってきたが、
その後、みなさんと3時前まで話をして、
一足早く家に帰った。
近鉄でもはや冷や汗状態であり、
家に帰り座薬も効かない状態であったが、
今は少しおさまっている。


寝て直る病気ではないのがつらい。
寝ると余計に痛む。


あなた結石の「痛み」わかりますか?
私は15年ぶりにその痛みを感じています。
これは主観的なものですが、論理的に今の痛みをとらえている自分もいます。
少し成長しました。
勉強すれば、いろんな角度から事象を捉えることができます。
そうすれば、いろんな角度から治療を提供できます。
単一的に物事を考えない。
ある方向だけからしか観察しない。
簡単なものには流されない。
簡単に説明しているものは疑ってかかる。
複雑な思考をもち、簡単な課題を創造する。
これが18年理学療法士をやって到達したものです。
現在19年目に突入し、このあと、どのような志向性をもっているか、
自分自身が楽しみです。


挑戦は成長に必要な栄養素である。


人一倍、努力をすることによって、
事象の観察に余裕ができる。

それは目に見えるものではない。
私の心の中に宿るものである。
目に見えないもの、私の心のなかにあるもの、
それ自身を患者さんに体感させてあげたい。
経験を創るのだ。


痛みは感じているが、自分の成長がこの数日でおこったことにうれしい。

まだいける、まだ自分は成長する、まだ心の上のステージにいけそうだ。


痛みを吹き飛ばすにはrock やき~





追伸:10年後もこのような形態で学会が続いていれば、それは一度解体すべきだと思う。これは様々な技術コースも同じだ。
経験の作り変えには、解体することも必要だ。
解体なくして、発展はない場合がある。
もはや悪循環であれば、解体すべきが、私の持論である。
見直しといった絆創膏を張りなおす程度であれば、何も生まれない。

行為もそうである。
患者の行為、意識させると動かない、だから意識させないように。
なんていうことは間違いである。
意識してもしなくても動けるのが人間である。
動けないという問題が発見すれば、それは一度それを解体させないと、
発展、発達は生まれない。

理学療法士、作業療法士の知識も無論そうである。
そうでないとそれが思考に邪魔をして、成長をとめてしまう。
それに気づかずいるセラピストは実に不幸だと思う。
なぜなら、思考をとめた機械だからである。




蜘蛛の作業は織匠に匹敵し、蜂の巣作りは建築家を赤面させる。だが最も下手な建築家でも蜂に勝っているのは、彼が実際に建築を行う前にそれを頭の中で組み立てていることである。
Karl Marx 資本論