昨日、高知に帰ってきました。夜は早速にミヤタヤに行き、よさこい談義。それを目的でいったんだけど。人々のため、高知のため、よさこいのため、踊り子のため、スタッフのため、大人というものは他者のために生きられるということ、と再認識しました。大人であってもエゴがでる。けれども、自己の幸せは他者の幸せによって生まれることを気づけた大人は、それが前に出過ぎない。昨日はジュクチョウより、悪い大人の残念なことを聞いたりしましたが(エゴイズムの極み)、けれども、そこで閉塞感あふれ、あきらめてしまえば、未来がありません。よいものは残し続けていかないといけません。
世の中は効率的、確実的なものが好まれつつあります。全国に広がるファミレスや様々なチェーン店を見ればそれが一目瞭然です。けれども、本来人間関係は不確実性のかたまりです。確実性、効率性だけで生きてしまえば、その不確実性、不測の事態に対応できなくなってしまいます。メディアで取り上げられる今の大学生や子供たちの挑戦のなさを見れば、そう思ってしまうのです。しかしながら、それも実は大人からの視線なわけです。彼らからの視線ではありません。実際には挑戦にあふれている若者もたくさんいます。だから本質的には人間は挑戦する生き物だと思うのです。だから、挑戦しない若者は環境による被害者なわけです。それを大人がばっさり切って、最近の若いやつは、と言えば、もともこもないわけです。あなたたち、我々がつくった環境を彼らはいきざるをえない。だからこそ、時には怒り、時には間違っているとストレートに襟を正し、あるいは時には友達のように分かち合い、関心を持っていると接近することが大人の役割です。
それが功を奏すかはわかりません。そう不確実なわけです。自分だけが環境要因ではないから。だから、とっても非効率的です。なぜなら、別の大人たちが無関心だらけであれば、相対的に影響を与えることがなかなかできないからです。けれども、そういう大人ばかりだとしたら、結果的に何も変わらないのです。よくないものは駄目だと声を上げる。それを彼ら彼女らは待っているのです。関わることで恨みを買うこともあるでしょう。だからリスクも伴います。けれども大人はそのリスクを背負わなければなりません。狩猟社会の時代を考えればそんなこと理解できるでしょう。
こうした声を上げるっていうのは、本当は親の役割なんですが、それが駄目なら近所のおっさん。それがなければ関わるすべての大人の役割です。世の中は効率性ばかりで、やれ体罰だ、やれハラスメントだと、文章(理屈)で縛り付けます。しかしながら、そもそも私たちの先祖はそんなこともなく、きちんと子孫を育ててきたわけです。それを恐れて教育ができるわけないのです。そこには紙切れのエビデンスや理屈は必要ない。先に生まれるで先生。つまり、大人はすべての子供の先生なわけです。
世の中は効率的、確実的なものが好まれつつあります。全国に広がるファミレスや様々なチェーン店を見ればそれが一目瞭然です。けれども、本来人間関係は不確実性のかたまりです。確実性、効率性だけで生きてしまえば、その不確実性、不測の事態に対応できなくなってしまいます。メディアで取り上げられる今の大学生や子供たちの挑戦のなさを見れば、そう思ってしまうのです。しかしながら、それも実は大人からの視線なわけです。彼らからの視線ではありません。実際には挑戦にあふれている若者もたくさんいます。だから本質的には人間は挑戦する生き物だと思うのです。だから、挑戦しない若者は環境による被害者なわけです。それを大人がばっさり切って、最近の若いやつは、と言えば、もともこもないわけです。あなたたち、我々がつくった環境を彼らはいきざるをえない。だからこそ、時には怒り、時には間違っているとストレートに襟を正し、あるいは時には友達のように分かち合い、関心を持っていると接近することが大人の役割です。
それが功を奏すかはわかりません。そう不確実なわけです。自分だけが環境要因ではないから。だから、とっても非効率的です。なぜなら、別の大人たちが無関心だらけであれば、相対的に影響を与えることがなかなかできないからです。けれども、そういう大人ばかりだとしたら、結果的に何も変わらないのです。よくないものは駄目だと声を上げる。それを彼ら彼女らは待っているのです。関わることで恨みを買うこともあるでしょう。だからリスクも伴います。けれども大人はそのリスクを背負わなければなりません。狩猟社会の時代を考えればそんなこと理解できるでしょう。
こうした声を上げるっていうのは、本当は親の役割なんですが、それが駄目なら近所のおっさん。それがなければ関わるすべての大人の役割です。世の中は効率性ばかりで、やれ体罰だ、やれハラスメントだと、文章(理屈)で縛り付けます。しかしながら、そもそも私たちの先祖はそんなこともなく、きちんと子孫を育ててきたわけです。それを恐れて教育ができるわけないのです。そこには紙切れのエビデンスや理屈は必要ない。先に生まれるで先生。つまり、大人はすべての子供の先生なわけです。