森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

システムの揺らぎと矛盾

2014年09月03日 17時15分54秒 | 脳講座



なかなか完成された社会は動く事はない。今色々取り上げられている臨床実習なんかその典型だ。しかしながら、その一方で、すぐさま動けば、それは草創期な、大した社会構造ではない。むしろそれは脆弱な社会である。個人の動きは全体からみれば些細な、見える事のない、感じる事のない安定した立位のような揺らぎにすぎない。完成された脳の中での一つの物理的なニューロンの興奮が脳のシステム全体に影響を与えるなんてないものと同じように。

一方で、時に動けば動くほど無力を感じる。興せば興すほど、著せば著するほど、自己の意図と環境から得るフィードバックの実際の間に誤差・矛盾が生まれる(だから人間は事を興すことをやめようとする)。個人の脳のシステムはそのようにできている。だから、「実績」とは、その個人がどれだけ無力を感じているかだと思うようになってきた。だから、その無力さ(勘違いしないでほしい。堕落者ではなく事をなそうとしている人たちの無力さだ)を感じていない、俺いけている感満載の若手や中堅は本当の意味での実績は積んでいないと思うのである。

生きて死ぬ私である人間にはそのステージ、グレードでの社会的役割がある。その役割を全うし、後世にその生き様を伝える事が人間としての使命・仕事である。

人生を逆算すると、私自身も、その一人称として時間がなくなってきている。やりたいこと、興しておきたいこと、著しておきたいこと、調べておきたいこと、そして何よりも楽しみたいこと、がいっぱいあって、、逆算して行くと時間が足りない。物足りてないなかで終えて行くのが人間なのかな。。。その意志を誰かが継ぎ、良き方向にその意志を埋葬してくれるのが社会の中の人間関係なのかもしれない。いや継がれようと思って生きているわけでない。それが良いもの(こと)と思って行動を続けるだけなのである。

ただ言っておきたいのは、自己の信念を「闇雲」に押し通さず、冗長性と柔軟性をもってその時代(空間と時間)を受け入れ、いや飲み込まれるようなそぶりで、環境の流れという時制に基づいて生きなければならない。でないと自己の進歩は止まるし、単なる口だけ人間(狭小化された空間;人間関係で過去を語るだけの後ろ向き)になってしまう。

けれども、最終的には「おのおの、その志のままに生きよ(坂本龍馬)。」になるわけである。I'm 土佐の男。。

未来を想像するだけでなく[make]するために

2014年08月31日 17時17分55秒 | 脳講座


先週末の学会を経て。。。何かのわだかまりが残ったままでもある。そして、この10年を振り返り、自分の無力さも痛感している。何を思って臨床を直接的な面で捨て、脳科学を療法士に提供し続けてきたかと。

神経心理学者は病態を分類したり、統合しながら構築していくことが仕事で、それの治療を積極的に開発することではない。だから、療法士は学者に対してそれを求め、教えていただこうとする態度はやめた方が良い。自分たちがその科学に基づき、そして自分の哲学を含めて開発したものをきちんとした説明できる変数を用いて、彼らに返し、議論を起こすべきである。そのためには、仮説を検証すべき目的変数をたて、そしてその目的変数を説明する変数を複数たて、検証されたのか、されなかったのか、何がわかって、何がわからなかったかを、最低でもきちんと説明すべきである。

ちょっと厳しい表現だが、いろいろなところで(このfacebook上でも、様々な治療法や開業療法士からも)仮説検証アプローチといわれているが、仮説を検証する、そしてそれを説明するアウトカムが全く設定されていないのが残念である。概念正当化解釈アプローチとでも名称を変更したらどうかとも思う。

科学の中にいると厳しい目にさらされるべきだと常に思う。

基礎学者達も自分のデータをもってこず、少しなめられた感が否めない。僕はそこが非常に悔しい。自分のテリトリーでない学会によばれ、それに緊張する場合、自分のデータをもってきて、承認を求める心理が本当である。懇親会で同僚の信迫が坂井先生とハーガードに関する研究の視点で話に花が咲いたようであるが、その辺りの議論を学会で展開すべきである。「今」を意識して。

一方で、学会は一般演題で成立している。(教育的な)講演ではない。一般演題を重んじ、最終的にはテーマについて方向性を導いて行くパネルディスカッションやシンポジウム(本来なら演題からシンポジストを選択すべき)で整理し、共有した提言をつくっていくものである。煙に巻くどこに行くやらわからない、ただ難しさだけを共有し、傷のなめ合いをするものではない。

暗黙的に安心を共有できる空間や時間になるのであれば、一度解体していくことも視野に置くべきだろう。守破離という意味でも。社会システムはそのように進歩するわけだから、個人の脳システムもそのように進歩するのである。

私自身、このような愚痴をこぼしてもしょうがない。それも過去。そして過去は過去。自分たちでそういう目標となるものを未来志向的につくればいいのである。

毎年くる母親の命日から想う

2014年08月28日 17時20分10秒 | 脳講座


母親の命日から1時間が経過しました。毎年、この日は自分にとって特別な日です。今年、七回忌をむかえることになりました。8年前、58歳で仕事中、東京で倒れ、脳卒中になり、そして6年前、60歳で人生の終焉となった母親。

この6年間で私自身、脳卒中リハビリテーションに対する意識が大きく変わりました。治療側でなく家族としての意識が大いにそれに影響しています。だから両側からの視点(幸せとは何か?)になり、常に迷いが生じるのです。

さて、北海道美瑛から熊本へ。熊本では国中氏をはじめHOKORU、ラシクアーレの仲間と研究のうちあわせをしていました。今度の第1回社会神経科学とリハビリテーション研究会にも2演題出してもらえることになりました。

美瑛ではドラマ「優しい時間」の舞台となった喫茶「森の時計」に。ここでドラマでの大竹しのぶさんの演技を回想しながら、そして平原綾香さんの「明日」を聴きながら、女手一つで私を育てた母親を回想していました(年甲斐もなくいつも目頭が熱くなるのです)。

中高と道を外れかけ、攻撃的極まりなかった、この私。時間が経ち、親孝行できなかった母親の死と向き合えるようになった、この私の中には、やっと「優しい時間」が流れ始めています。母親が亡くなった年を考えると、今このときを精一杯生きようと思うのです。そして、仲間に支えられ、何者でもなく何事もでなく、この淡々とした毎日毎日がとても幸せに感じられるのです。

パラダイム転換に導く脳

2014年03月26日 09時09分45秒 | 脳講座
パラダイム転換は,それまでの延長線上の積み上げ的思考だけでは難しい場合があります。。。

リハビリテーションのための神経生物学入門の第1章には以下の記述があります。

「現代人の祖先はそれまでの狩猟生活中心を採集生活中心にシフトしていった.狩猟を繰り返すと対象となる動物は少なくなり,最終的には絶滅する.それと同じように狩猟をしていた種も絶滅してしまう.自分たちの種の絶滅を防ぐための知性の出現こそが,今なお地球上に絶滅せずに生きる結果をもたらした.その背景には,絶滅を防ぐための認知機能の発達,具体的には武器の改良,因果的推理,動物の習性の知識など,これらの情報を集団でたえず共有,更新,検討してきたプロセスがあった.そしてついには狩猟に頼らず,植物の栽培,家畜を飼育するようになった.ある問題を解決するためのこのプロセスの繰り返しにより,多様な選択肢を生み出したのである.それは農耕生活への大転換につながった.この大転換は恒常的に人口増加がもたらされる結果を導いた.狩猟生活時代は30人ほどの小集団であったのが,人口増加に伴い集団が徐々に大きくなることで,法律の制定を含んだ国家を形成し,貨幣経済を生み出すといった社会文化的変化がおこった.ここで大事なのは狩猟民族であったものが,新たな食べ物を探すといったそれまでの延長線上での問題解決を試みたわけでなく,全く新しい戦略で生き延びることを選んだのである.つまり,それまでのある種が絶滅しようとするある種にとってかわるといった単純な生物学的な変化ではなく,ホモ・サピエンス同士が知恵を共有し,新たな生命維持の戦略を生み出すといった社会学的な変化が起こったのである.環境や文化は人間を大きくかえるというプロセスの出現である.脳の構造が変わらないにも関わらず,この戦略の変化は,まさに人間の発達・進化が社会生活に基づいたものであることを示している.したがって,脳機能の発達もそのような社会的プロセスの産物であることがわかるであろう.」

自己の脳は他者の脳と相互作用することで実存化することや,他の生命体への愛(バイオフィリア)の存在,そして,今日の非常識は将来の常識たる,志向性の存在だったかもしれません。

それまでの種が絶滅した背景には、延長線上でしかなかった様相があるかもしれませんね。

起業している方々、倫理観をもちながら、パラダイム転換!がんばってくださいね。ただ個人脳だけでは限界がありますよ。知恵は創発するわけですから、社会脳の考えをもたないといけません。自己を肯定する仲間同士では創発は起こりません。

思い起こせば10数年前。20代後半ごろ。。。脳の機能の重要性を理学療法界にいっても無視され、論文は数多くリジェクトされました。若造がなにをいうんだ~~という眼でみられ、脳なんて必要ない。とか脳を勉強する必要はない。筋骨格で十分とか、いろいろいわれたことがあります。

まあ僕はもっぱら承認されたり、尊敬されたりする欲求ではあまり動かないし、認められなかったとしても、そこには大きな意識はもたず、脳ってすごい!!っていうことを知ってほしい意識でこれまですすんできましたので、結局のところは、その意識や視点はネガティブにならず国際誌(誰も私のルーツは知らない)にいったわけですが、今日、徐々に脳の機能の理解が常識化されつつあります。しかし、まだ教育に取り入れられていないため、私はまだ死ぬ訳にはいきません。。笑。つぎのパラダイム転換を見届けるまでには。。。

リハビリテーションのための神経生物学入門」絶賛発売中!!

ついに!!ストーンズ!!

2014年02月27日 22時03分57秒 | 脳講座
来ました!圧倒的に平均年齢層が僕の20ぐらい上のよう。まだまだぺーぺーです。そして、みんな僕よりはるかにロックにおしゃれに着飾ってます!おじいさん、おばあちゃんロッカーです!車椅子の人も、杖をついている人も、明らかにパーキンソン歩容の人も、みんなロックンローラーになってます。ミックもキースも70代、もう最後かもしれないかも…なんで、彼らのパフォーマンスを目に焼き付けます!

報酬を先延ばしにする脳

2013年12月25日 09時28分24秒 | 脳講座
受験生には年末も年始もないようです。31日も1日も変わらず勉強のようです。センター試験まであと少し。そして受験生と言えば国家試験を受ける者も受験生です。あと60日のようですね。カウントダウンに入ってきました。

受験もある意味我慢する脳です。報酬を先延ばしにして目標を設定する。そして日々淡々と感情に大きく左右をされず、そして目先の報酬を抑制し、自分を律しながら行動に起こす。この人間らしい報酬予測・価値の操作、そして行動抑制の繰り返しです。例えば、成人の場合は予期された報酬が与えられなかった場合、成功による報酬を達成するためのアップデートが行われます。ネガティブを報酬に変える脳内システムです。模試の点数が悪いのがどうした。。焦らず計画的に。。ACCとDLPFCを上手に働かせてください。

それを単純に言えば、「勉強するのみ」になります。。。学生は何者でもない。だから勉強するのみです。勉強するための時間を与えられたのが学生なわけだから。成績が上がらないものは、単純に本気で望んだ勉強時間が少ないわけです。「本気で望んだ」という修飾語を付け加えておきます。座っている時間を示しているのではありません。

あなた、、、目先のマシュマロに反応してしまう子供ではないですか?勉強ができない者は賢くない者ではない。むしろ、この目先の情動的出来事に反応してしまう、自己の制御に弱い人間なのです。それは鍛えれば克服できます。自己の抑制経験はかけがえのない脳内記憶になっていきます。

http://www.frontiersin.org/Educational_Psychology/10.3389/fpsyg.2013.00098/abstract

報酬価値の変化、そして私自身の変化

2013年11月25日 00時55分24秒 | 脳講座
無事、奈良に帰り着きました。帰り着いた早々、桂枝雀のテレビをやっていたので、それを視聴。先日は談志の表現を観察。話し手として色々思うことが多々あります。僕は理学療法士である前に研究者であるし、その研究者である前に教育者であります。授業・講義・講演をどのような構造とし、表現するか、日々、その学習プロセス(認知)を生きています。誰かに修正されているわけはないですから、日々自己組織化を起こしているわけです。

今日は札幌で一日講演でした。200名の会場満席。みなさん聴講ありがとうございました。
今日は脳をシステムとして捉えることを意識した点や、上肢、運動学習、歩行を四時間半に無理やりまとめたため、要所では詳細な説明を省いたため初学者にとっては難
しかったかもしれませんが、ここ最近のなかでは終始全力で話しました。

さて、今日は上肢運動、姿勢・歩行、学習という視点から学術的情報をお伝えしましたが、実はそのコンセプトは「挑戦する脳」「自覚する脳」「情動とともに生きる脳」でした。これは患者さんだけでなく、私たちの脳にも言えることです。難しいことを解釈する脳よりも、むしろ自分に向き合うという視点を意識することこそ、脳を理解する上では、それが重要な情報なのです。最後の示した私たちニューロリハセンターのトップの画像は、自己の脳は他者の脳に生かされている(活かされている)、そして自己の脳は他者の脳を生かしているというものです。良きも悪しきも、その環境に依存しているというわけです。

さてさて、センスタイルの講演は今年これが最後になりました。今年1年お世話になりました。9月から毎月でしたね。来年もよろしくです。年末までニューロリハセミナー、神戸、東京、埼玉と講演を毎週して、年の瀬に入ります。今年1年もこれで終わりそうです。昨年の年末年始はパリで迎えましたが、今年は高知に帰省もせず、奈良で迎えることになりそうです。

フランスへ留学したときから15年以上たちました。当時、今の姿を想像してたわけではありません。そして、当時は「不安」という高次な感情の中で自分自身格闘していました。がむしゃらに結果を残そうとし、時にも盲目的になり研究に没頭してたときでもあります。論文をアクセプトされることが、当時の僕にとっては報酬価値であったかもしれません。

時は経ち、今自分自身をメタ認知すると、そこにはもはや報酬価値はありません。しかしながら、報酬価値がなくなっているわけではないし、むしろ壮大なグローバルなそして社会的な報酬価値へと、興味が動いています。そう考えれば、僕自身変わったんだと思うし、そう思えば、これから15年後、まだ変われるんだと期待を持つことができます。それは遠い将来ですので、今すぐに予測できる効率的なものではありません。報酬を先延ばしする脳でもあります。人と人とがつながること、これこそイノベーションを起こすきっかけとなります。僕の講演活動はその一つのプロセスでしかありませんが、このように何年も毎週末休みをつぶして全国をまわっているのは、人と人とをつなげることであちらこちらで何かが起こるのではないかと期待しているからでしょう。僕の考え方に対して、批判的につながるのもよし、肯定的につながるのもよし、科学的につながるのもよし、応用的につながるのもよし、一つの媒体として、そうやって共同注意されることこそ、教育研究者としての欲求なのかもしれません。そして長い年月をかけ、徐々に動いていけば良いのです。

結果を急ぐべからず。効率ばかりを優先すべからず。心のバリアによる矛盾や葛藤こそが、エラーを解決すべき知恵を生み出していくのです。脳卒中の人たちにもそれを感じて、たくましく生きていってほしいですね。私たちの先輩なのですから、種の保存のためには強く生きていってもらわないと、後輩の私たちにとっては困るわけです。人間という存在を維持していくためには。

私自身、「命は限られたもの。そして、何時何時めされるかもしれない。だから、種を保存していくためにも、休むつもりはありません。」というのが行動の哲学なのだと思うのです。

http://www.kio.ac.jp/nrc/

システムにおける循環問題

2013年11月05日 13時17分43秒 | 脳講座
「難しいことをわかりやすく語ること」に終始してはならない。「難しいことを難しく語ること」それに実は意味がある場合がある。ときにそれは、簡単にならってきた義務教育の功罪があるようにも思える。

前者は脳のショートカット機能ならびに過去の経験に基づくトップダウン思考から、情報を歪めていることが大いにある。巷の講習会人気講師に起こる現象でもある。これはもちろん自省を込めてなんだけど、大変難しい問題がそこには内在している。

これは本当に難しい問題なんだけど、どうしても講演する側は聴く側の興味や意図を読み取り、それにあわせて情報を提供する。これはいわば、人間コミュニケーションの本質的行動であるとともに最近接領域による学習スタイルの提供のしわざであるが、これをすることで、わかったような気にさせてしまうこともしばしば。ドーパミン神経細胞の興奮から起こる線条体の働きに振り回されるのである.それだけに終始せず,わからないという経験(エラー値)に後押しされる自己の行動化の意識の改革が必要だと思う。

それに加えて、やはり聞く側の能力(賢さ)を上げることが大事である。全く知らず、自己の人生にとって脳や運動のことを知らずしてもよい一般の人に話すようなレベルであっても困るのである。

究極的に言えば、他者や道具に支えられながらも、勉強は自分でするもの。その根本の意識が上辺だけになっているように思える。他者の命や人生に関わる仕事についた(つく)以上、猛烈な勉強と自己の有意義な経験が生涯必要だと思う。まだ自己が何者でもない者にとって、遊ぶ時間はいらない(社会的遊びとならない無駄なものを指している、誤解をせずに)。人間は他者と共存し生きるために働く。働き続けることこそ、成熟した社会的役割を持った人間としての証なのである。だから、学生にとっては勉強することなのである。勉強をするからこそ、学生としての社会的役割が成り立つのである。就職活動やバイトというものに、本質的な学生としての社会的役割はない。この本邦の社会認識構造は多いに問題でもあるように思える。

さて、今の学習スタイルを鳥瞰すると、結局は送り手側(講師)と受け手側(受講者)の現時点での水準で思考が循環されるだけで、システムを変化させることにはならない。社会システムにおける学習のダイナミクスは複雑系のシステムであるが、この旧体系から続いている医学的モデル(ヒエラルキー)における現在の講習会システムであれば、その複雑系システムが起こりづらいのである。そして、問題はもう一つ。類は友を呼ぶではないが、共感・同調し合う人間がそこに集まり、閉鎖的なシステムを構造化してしまうのである。ミラーニューロンシステムの弊害でもある。そうなると、自己の信念を他者に同化させてしまい、そうでない行動について、その背景(情報処理プロセス)を知ろうとせず、自分の信念とは違う行動をとったり、あるいはとらなかったことに対して、嫌悪やいら立ちを持つ。それはこのSNS上での言動や意識における同調性にも大いにみてとれる。それは依然として所属・承認の欲求であり,自己実現の欲求ではない.愛されたい潜在的意識における行動である.その背景には暗黙的にうまくいけていない意識がある.自己を肯定する(される)環境に向かい,承認しあう欲求水準から前進させ,自己の内部環境に社会(複雑性)をつくり,自己の変化に気づくことができるよう,思考を循環させることができれば,1ランク上へと位相現象が起こるであろう.

自己のエゴや、妬み、やっかみをすてて、そんな時間を与えないぐらい、思考を循環させること。僕は最近余計それを思うがあまり、自分の趣味までも律しようとも思い始めている。自己の欲求というものが明確にならなくなってきたのだ。だから、こんなことをいうと不謹慎かもしれないが、専門理学療法士を更新するという行動の意味さえも見失い始めている。もっと社会に貢献・供給すべきストラテジーはあるのではないかという・・けれども、これは私の志向性であり、まだ自己が何者でもないものは、そうした外部動機に向けて自己の行動を正し、邁進する事は大変意味があることでもある。

要するに、その都度、その都度、オンラインにて自己意識を持つ事こそ、人間が成長し、社会システムを良き方向に動かして行く機動力となるのである。オンラインの自己意識こそ、自己の変化に気づけるプロセスである。そして、難しくも語れ、易しくも語れ、その中間でも語れ、絶妙に文脈によって自己の行動をオンライン上で変化させる、この人間が持ち得る行動のオンラインでの変化を、私たち自身(人間)は存分に発揮させることができるはずである。それが臨床知にはるはずである。狭義のエビデンスやサイエンスといった情報ではなく(だけではなく)、このプロセスの意味を教えることこそ、教育の根幹のように思えるわけである。

脳科学と生命倫理

2013年09月02日 11時24分25秒 | 脳講座
BMIやNeuromodulationは一歩間違えば人の手で人を崩壊に導かせる技術になるかもしれない。と自分を律する意味でも問題提起しておこう。医療者も一患者のためと思いつつ、「生物としての人間」の一人として、そのものの本質的倫理を考える必要があると思う。おそらく、こうした介入は医療における常識的行為となることは間違いなさそうである。遺伝子治療やiPS細胞と時同じようにして。

DBSによるパーキンソン病の治療効果が示されている一方、うつ病の効果も示されている。しかしながら、この事実は感情のコントロールを外部から行うことができるということを暗示している。また外部からの物理的刺激(介入)は、人間の自由意志という問題にも接近してしまう。Libetによる問題提起は、くしくも自己の意識的な意欲を外部からの脳に対する何らかの刺激によって作動させることが可能ではないかという視点がうみだしてしまう。すでに粗雑であるがラットのサイボーグ化は可能なわけである。

常識は文化が変われば非常識となる。時が経てば非常識となったり常識となる。常識や非常識にまどわされず、常識でなく生物としての人間としての良識を問うべきと声を高く発せないといけない時がくるかもしれない。そもそも、平等にコミュニケーションをとったりする権利を主張すること自体が自然としての人間として不自然である。自然に存在する石や花々を見れば、同じであるものこと自体が不自然だ。生きて死ぬ私、それは定めである。どのように生まれるか、どのように死ぬか、どのように病気になるか、どのように障害になるか、そんなことを予知でき、みんな人工的に平等になる社会を想像したとき、果たして本来の人間の姿がそこにあるのか。自然(平等でない)だからこそ、できるだけ公平にという社会倫理的秩序を生み出してきたわけではないか。

自分の脳波で動かしたアンドロイドが行った倫理的に間違った行為を律したり、罰したりすることができるであろうか。これは身体(アンドロイド)、脳(人間)といった心身問題にも通じてゆく。そうかんがえれば、私の研究の一つであるNeurofeedbackもethics問題に抵触してしまう。他人の心を客観化できてしまえば、本音と建前を使い分けることができない、なんて不自然でストレスフルな社会になってしまうであろうか。。。


iPS細胞から脳の再生。脳損傷者の治療に少しの光が。と思うが両手をあげては万歳できない。ますます「人間の脳」は「人間の脳」をどうしようとしているのか困惑するのではないかと。「心」はどのように宿るのか。「意識」の来歴は?などとサイエンスを考えるとともに、「病」「死」というものをどう捉えるべきなのかと。実はここ数年、臓器移植に対しても、おなじような生物としての人間の存在・倫理を考えている。以前の医療者としての考え(特に腎疾患を研究していた来歴からも)しか持ち得ていない時は、諸手をあげて賛成だったが、今はそうではない。揺らいでいるというのが正確だろう。意思表示カードも以前はすべて○だったが、今はそのカードの存在すらわからない。自分は臓器提供しても、他の者にはそれを好意的には薦めないだろう。こういうethics問題は答えはでないが、どこかで人間とは何かと、自問することが大切だろう。そうでないと医療者は杓子定規的に決めてしまう。そして人間の脳は自分の生きてきた道を肯定するため、幅広い教養と幅広い意見から、対象者は判断すべきだと思う。

そういった意味でゴーギャンの絵画は実に的を得ている。「どこに向かおうとしているのか」人間とはそういう意味では面白い。

http://www.nature.com/nature/journal/vaop/ncurrent/full/nature12517.html

非効率性こそ脳の進化の象徴

2013年07月29日 23時43分26秒 | 脳講座
科学、芸術、祭事、などなど、文化的といわれるものは、生物学的な生存のためにはまったく必要ない。しかしながら、それは社会学的な人間を豊かにするかけがえのないものである。「知る欲求」「表現する欲求」「感じる欲求」これらを満たしてくれる媒体である。この3つの中で、科学や芸術はそれ自体が仕事になるが、「祭り」は仕事でもない。その仕事でもない、生存のためにも直接的に関係しない、この生きて行くために非効率的なものを人間は代々伝承してきた。ここに人間の素晴らしさがあり、人間の強さがあるように思う。

これまでの生態学を中心とした様々な研究によって、社会行動と霊長類の大脳新皮質の大きさと相関するものとして、以下の7つがあげられている。

①社会集団の大きさ
②密接な関係を同時に維持できる個体の数
③社会的技能の程度
④戦術的ごまかしの頻度
⑤社会的遊びの頻度
⑥社会的な「絆」
⑦生活の複雑さやプレッシャー

祭りをすること、その意味が上記の7つを読み解けば、わかるような気がする。人間はなぜ祭りを継承してきたのか、そしてそれを継承しようとするのか、それが脳を育むために重要だと言う事を暗黙的に知っていたからではないだろうか。昨今の効率よくいき、安く人生を済ます、この志向性は、自己の一生でなく、末代の生涯に影響するかもしれない。それを進化と呼ぶか、退化と呼ぶか、どの視点に立つかで変わるだろう。

いずれにしても、祭りは生存のための仕事ではない。一見、生きるために非効率なこのもの、それに人間の豊かなる脳のヒケツが隠されているのかもしれない。そういう一見、無駄だと思われることに、一生懸命になっている人間は、とても豊かで、人間らしい人間だと思うのである。自己肯定というバイアスも入るが、おそらく三人称的にとらえれもそれはある程度の根拠は存在していると思うのである。