森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

6月の講演スケジュール

2017年05月30日 23時24分37秒 | 脳講座
徳島県理学療法士会研修会 講演
日時 平成29年6月4日(日)
場所 徳島文理大学
テーマ 半側空間無視に対するニューロリハビリテーション

KOBE WEST NET(神戸市西区自立支援協議会)児童ネットワーク講演
日時 平成29年6月5日(月) 10:30〜12:30
テーマ 子どもの発達障がいを脳科学から理解する
場所 兵庫県立総合リハビリセンター 管理棟3階 研修室
参加費 無料

第42回Resta研修会 特別研修会
日時:平成29年6月10日(土) (受付開始)9時30分(開会)10時00分(閉会)16時00分
テーマ:「ペインリハビリテーション最前線」
講演1:「不活動による痛みの弊害~不活動による痛みの発生メカニズムから臨床応用~」
沖田 実 先生(長崎大学 教授)
講演2:「慢性痛の脳内メカニズムとニューロリハビリテーション」
森岡 周 先生(畿央大学 教授)
講演3:「慢性痛に対する正しい知識とマネージメントの方法」
松原 貴子 先生(日本福祉大学 教授)
会 場:「福岡国際会議場 (5階 502・503)」

senstyle大阪 講演
日時 平成29年6月11日(日)10:00~16:00
テーマ リハビリテーションのための脳・神経科学入門―身体性システム科学の応用―
場所 大阪市立住まい情報センター 3F ホール

聖路加国際大学大学院特別講義
日時 平成29年6月16日(金)
場所 聖路加国際大学
テーマ ニューロリハビリテーション
対象 院生

いわて運動療法研究会 春期特別研修会 講演
テーマ 脳損傷者の運動学習は今のままで良いのか?
最新のニュ-ロリハビリテーションから考える「運動制御と運動学習の神経メカニズムと臨床介入のヒント」 
日 時:平成29年6月17日(土)10:00~16:00 
会 場:岩手県高校教育会館 (盛岡市志家町)   

古河坂東保健医療圏リハビリテーション従事者研修会 講演
場所 茨城西南医療センター病院
日時 平成29年6月18日(日)
テーマ 社会的コミュニケーションとリハビリテーション~神経科学の観点から~

新学術科研費 第5回領域全体会議
場所 国立精神・神経医療研究センター
日時 2017年6月20日(火)13:00-18:20
テーマ 脳卒中片麻痺の運動主体感を高めるハイブリッドニューロリハビリテーションの効果検証


聖路加国際大学大学院特別講義
日時 平成29年6月23日(金)
場所 聖路加国際大学
テーマ ニューロリハビリテーション
対象 院生

ミヤタジュク・セミナー
日時 平成29年6月24日(土)14:00~17:00
場所 土佐リハビリテーションカレッジ
テーマ 運動制御と運動学習


崇拝と尊敬

2016年04月03日 22時17分09秒 | 脳講座
本日は名古屋で5時間講演



USN、身体失認、失行、前頭葉障害の神経メカニズムと、そのメカニズムから考える臨床推論について話しました。既存の治療理論からロジックをつくるのではなく、評価結果(行動・現象)、そして脳画像の事実から、治療を選択(意思決定)することの手続きを神経ネットワーク(例えば背側経路、腹側経路)から説明しました。

これに類似した内容で、USN、失認、失行に絞ったものは、今度東京で話します。https://tap-labo.com/events/detail/86

1週間前の運動障害の講演の5時間と比べて、少々疲労感が少ないのは、どうやら今自分が興味をもって研究したり、臨床を考えたりしている事柄だからでしょうか。。。
時に治療理論や手段・方法から考えてしまう臨床ベクトルは、いつしか、その治療理論や、それを提唱する人を崇拝するとった意識におちいってしまいます。今日の帰りの近鉄列車で、友人の奥埜氏とメールのやりとりしていた中で、彼からは「尊敬することとと崇拝が混同しているのが問題だ」という強いメッセージをもらいました。

講演を聴いた方々からしばしば生まれる「あの(カリスマ)先生がそう言っていた(からそうにちがいない)」という崇拝的意識は、「絶対視・神格化」を作り出すことになったりします。こういう志向性は、地球上の生物で唯一宗教を生み出した人間らしさ(宗教は最高の高次機能)でもありますが、その際、問題となるのは、善悪の判断の責任を、自分自身でなく、それを提唱する他者や理論(もの)に置き換えてしまうことです。

崇拝でなく尊敬するレベルに止め、公平的視点を捨てず、あくまでも起こった事実の責任は、物や理論・手段に擦るのではなく、自分でとらなければなりません。むしろ、自分で責任をとる、あるいは随時判断を下さなければならないという恐怖を隠すために、人間は崇拝、絶対化という志向を作り出すのかもしれません。そういう意味で、今の事実(例えばサイエンス)を知るという志向性は忘れてはなりませんね。



帰り際、多くの若い療法士(鹿児島から来られている方などからも)から質問をもらい、ちょっとだけど時代が進むんじゃないかと期待しました。報酬価値ですね。
金山に泊まったことから少し時間ができ、名古屋ボストン美術館に寄ることができました。ルノワールのダンスはオルセーにある「都会のダンス」「田舎のダンス」しか鑑賞したことがなかったのですが、今回、米国ボストン美術館の「ブージヴァルのダンス」を初めて鑑賞することができました。この経験が(フランス好きの私にとっては)ひょっとすると疲れを少し和らげたのかもしれません。脳はある種、簡単に騙せるわけです。パラドックス的に捉えれば、下降性疼痛抑制なども含めて、報酬系作動はある意味要注意なわけです。

待つということ

2016年04月03日 22時16分33秒 | 脳講座
本日は教職員会議のオンパレードでした。新任の方々を迎え、新しい顔を見るということは、嬉しいことだなあと思う反面、退職した方々のお顔が見れなくなるということは、寂しいことだ、と会議に出ながら思った次第です。

それと同時に、定年を全う(勤め上げる)して退職された方々も今回は多く、そういう人生って良いなと「強く」思うところもありました。
とかく現代は、派手な(勢いのあるように見えて我慢できない)人生に憧れる嫌いがあり、地道に生活に土着しながら生きようとする姿勢を軽視するような気がしてなりません。

100人いたら100人意志や意見を発してしまえば、混乱必至です。脳幹や小脳、はたまた基底核のような存在が組織には必要なわけです。前頭葉ばかりだと若い組織はイケイケでいいのですが、年数とともに息切れし朽ちてくるかもしれませんね。

さて、4月1日は、我々研究機関は科研費採択の日でもあり、twitterではそのことに関する記載が満載でした。科研費取得のために研究を行うというのは、学会発表するためだけに研究を行うと同じぐらい本末転倒なのですが、それでも仲間が採択されると嬉しいものです(私は継続なのでただの4月1日でしたが。。)。
こうした税金によるオフィシャルなお金をいただけば、それ相応に、社会に貢献しなければならないというスイッチが入り、そうした意識は研究者にとっていいことかなとも思っています。

軽い研究にならず、じっくりと丁寧に行い、数ではなく、社会的にインパクトのある質の高い研究にしていきたいですよね。
とかく現代は、「待つこと」ができなく、すぐさま発信することに主眼が置かれています。例えば、今は「メールの返信も待てない、だから待てずにまた送る→カップルが喧嘩する」の図式が成り立ったりしますが、昔は「戦争で帰ってくるかもどうかもわからないが待ち続ける」という心の持ちようがあったように思えます。
(学生の成長を)待つということ(やたらめったら自分の経験に持ち込むような介入をせず待ち続けるということ)は我々教育者にとって最も大事な意識かつスキルだと思っています。

少々、大げさで古い人間の思考・たとえだとも思われるかもしれませんが、人の思考や心の熟成にも大いに時間がかかり、これは知識やスキルの涵養も同等であると思っています。

そしてそれは若い私達の業界においても、20~30代そこらで「やたらめったら」(借り物で)発信せず、地道に丁寧に取り組む時期がないと、40代こえると、その軽さが明白になってしまうかもしれません。

根拠のない自信という言葉は、時に行動を起こす原動力になり、かっこよくも思えたりしますが、私たち医学や健康を取り扱う仕事にとっては大いにミスリード(時にメディアのように)になってしまいます。営業とは大きく違うことを、そして、器の大きさと根拠のない自信は異なるということを、(私自身も含めて)肝に銘じておく必要がありますよね。このようにfacebookに記事を書いていることも、実は待てていないことになりますから。。。

学長交代にあたって

2016年04月03日 22時15分23秒 | 脳講座
別れの季節ですね。自宅前の桜も膨らみ始めました。昨日の教授会にて、冬木智子 学長が退任・勇退されました。御年94歳です。「健康でいられるということが幸せである」という、昨日の言葉は、その人生の遍歴から、相当に重く真摯に受け止めることができました。

http://www.kio.ac.jp/fuyuki/kokoro/index.html

畿央大学に着任してから、たかが12年ですが、着任前の桜井女子短期大学での面接でのインパクトは、今なお心の中に残っています。
「ある着任予定の方が県外から通われる(それ以外は臨床)ということで、2~3日間ほどしか大学にいないと言われ、断りました。それでは教育はできません。」

この言葉は非常にシンプルですが、(学生に寄り添い同じ目線で見ようとする)教育は臨床の片手間にはできない(その逆もしかり)ことをほのめかしています。いかにも怪しそうな大学立ち上げの人しかみていなかった私は、その心に打たれ、縁もゆかりもない奈良にうつろうと決心したわけです。この心が伝搬し、手前味噌ですが、畿央大学の今の教育にいかされ、国家試験の合格率をはじめ、いろんなところに影響しているのではないかと思っています。

その後、縁あって、大学広報誌のカトレア通信で、冬木学園60周年記念対談を行わせていただきましたが、後の雑談で、私のFD評価(学生からの授業評価)に触れられ、「あなたのこの得点は愛嬌があるからですよ。」と、私にとっては変化球的な考察に驚いたことを覚えています。その後、人が人を嫌悪に思わず、好きで入られるのは、かっこよさでもない、きれいさでもない、まさに愛嬌(赤ちゃんをみればわかります)なんだと腑に落ち、これは今の私の教育方法や生き方に大いに活かされています。

米寿を超えられ、私の研究室が3階にあるときは、何度か突然に研究室に立ち寄られ、「記憶力が最近落ちてきたんですが、脳からみてどうすればいいですか?」→「そういうメタ認知ができていて十分です。卒業式でもまだ原稿なしでスピーチできるので大丈夫です」、「腰を痛めたのですが、整形外科の医師はヒールは駄目といわれたが、どうもヒールじゃないとしっくりこない(重心が安定しない)」→「脳のなかにはボディイメージがあって、長年履いてこられたものに意識は定着しています」などと、このやりとりを今思うに、フラットな精神をもたれている方だと改めて思うわけです。

そして、もう6年も前になりますが、国際ソロプチミスト連盟での、私よりも年配の女性の方々に対する講演など、いろんな経験をさせてもらいました。それは女性の会なのですが、学長自身は女性だの男性だの境界線を引かないニュートラルな意識をもって教育に携わっている(いた)と記憶しています。人間は知らず知らずにして、国境と同じように、性別(ママとかパパも含めて)や「~~~家(者)」と、線を引きたがりますが、境界は自分を慰めるのには便利ですが、その境界によって、発展を阻害する対立や、ひいては区別(差別)される人ができてしまうことを忘れてはいけないですよね。

幸福感の惹起とは?

2016年03月31日 22時14分21秒 | 脳講座
福岡で5時間講演(今日は何度かトークしている最中に意識が飛び、主体感を喪失する瞬間に遭遇しました、それを操作しようという自己意識がさらに講演中に生まれ、今は相当の疲労です)を終え、新幹線に乗り自宅に向けて帰っています。博多駅は年度末の観光客でごった返し、ただいま広島を過ぎたところですが、ベイスターズファンと鉢合わせ、「日本はいいね、幸せだね、こういう空間と時間の共有が明日も明後日も起こるよね?!と」と思っている時間です。

今日は上肢運動制御の知見を述べたのち、一部、機能回復は運動学習で説明できるが、説明できない(どっちやねん)という視点を皆さんに提供しました。
時に狭義の回復という視点は前の状態に戻るという後ろ向きの視点になってしまいます。脳は時制を獲得し、それに基づき発達していきます。紛れもなく脳は記憶装置でありますが、その記憶は将来の予測のために蓄えるわけです。

私たちにしばしばおこる幸福感の惹起は、今現在から未来へのベクトル(前向きモデル)に現れ、そのベクトルに向い、不確実、不安定性の中でも、自らに(行為)主体感を持てるといった認知的志向(差分、誤差)と、それと同時に生まれる情動惹起に伴う希望(今でなく将来に対する報酬価値)といった感情を持てるかに由来しています。
だから、元に戻りたいという後ろ向きのベクトルでは、幸福感の惹起は極めて難しいわけです(ノスタルジー感情はまた別です)。発達途上の幼児が「乳児の時が幸せだった」なんて言わないですよね(そんな子供がいたら子供らしくないと思います)。もしその程度の生物だとすれば、私たち人間はここまで発達してこなかったでしょう。
だから、骨の折れる作業ですが、脳損傷が起こった場合、過去の自分(病気前)を一度リセットする作業工程が必要になってきます。学習とは未来に向かうもの、これに対して、回復とは過去に向かう意識が強い。機能回復と運動学習は類似し、神経基盤も共通したりしますが、心理社会的には異なり、報酬感覚としては大きく変わってくるわけです。

そして、脳は差分しか情報化(認知)できない特徴を持っています。普段の定常化した行為はなんら認知されないし、報酬価値としてもなくなる。しかし、私たちの機能・能力にはある程度の限界があり、永続的に発達し続けるわけでもありません。脳は筋肉のように巨大化させることはできませんから。

だから、絶え間ない増加方向のベクトルによって差分を作り出し続ければ、いつか失速し破綻してしまいます。組織・会社が破綻するシステムと脳のシステム破綻は似ています。だから、患者さん自身でなく、私たちもささやかながらリセットする必要があります。去年の自分をリセットする、今日の自分をリセットし、ささやかな差分(増加分)を感じる余裕をつくる、そういうちょっとした切り替えが幸福感をつくったりするわけです。そして、ささやかな差分が「できたという結果のみ」であったり、「儲けたっていう結果のみ」という外の意識へと放出したりすると、そうならなくなった場合、いわゆる「不幸」の意識が生まれます。

報酬学習を字義的に理解するだけでなく、このような人間らしさ(人間とはなにか)を考えることはとても大事ですよね?という類のことを最後は話したつもりです。
この図のcomparator modelの理解がセラピスト教育の根幹になるように、ちょっと頑張らないといけないな、と思った私の休日(講演・仕事)でした。しかし、5時間講演はいつまでたっても適応できない、、疲労感満載、寿命が縮む感覚が生まれます、、涙、笑。それでも、家に帰れることを報酬に変え、リセットします!

リハビリテーションのための脳神経科学入門改訂にあたって

2016年03月29日 22時12分32秒 | 脳講座
1週間ほどの遅れですが、自分が自分の誕生日を祝う意味で(最近は血圧の関係で家では禁酒をしていましたが)、久しぶりにワインセラーからごとごとと取り出したピノノワールをいただき、そのパワーをもとに、途中まで書いていた英文原著を仕上げ(明日カバーレターを完成させる予定)、先ほどまでかけて、単著である「リハビリテーションのための脳・神経科学入門(第2版)」のまえがきとあとがきを一気に書きあげました。もう初版の原稿は1割程度の全面書き下ろし改訂本になっています。

まえがきが3400字で、あとがきが4200字とちょっとバランスが悪いのですが、これでfinishさせます。残りはもう1回校正作業をして5月に刊行する予定です。
まえがきはパースペクティブ的内容ですが、あとがきでは一人称的に初版を書いていた33歳からの12年を振り返っています。むしろ改訂が12年と干支のように一回りしたことでよかったと思っています。というのは、科学の進歩だけでなく自己の成長も感じることができたからです。
大局的に概観すれば、当時は脳・神経科学を積極的にリハビリテーション医療に取り入れようとする意識はほとんどなく、関連する学会で発表しても、論文を書いても「脳の研究や脳科学の考え方なんかリハビリテーション医療(特に理学療法)に必要ない」「なんでそんな学問が必要なんだ」「あなたのやっていることは変わっているね(わからない)」などと(遠い人にも近い人にも)揶揄されることがしばしばあり、そのちょっと前まではなかなか受け入れてくれなく、国内でなく国際誌に厳重な封筒にフロッピーディスクを入れ、editorに手紙を書き、着いたか着いてないかもわからないAir Mailで論文を郵送したりすることを続けていました。が、今日では揶揄もほとんどなくなり、おかげさまで講演にも招待され、若い方々が積極的に研究成果を出し、そして関連諸氏の力のおかげで、嬉しいことに、今ではリハビリテーション科学が学際的な脳・神経科学の一端を担おうとしています。

この10数年、一人称的にはものすごいスピードで経過してきましたが、こう振り返ってみるとそれなりに意味があるのがわかります。やはり意味は後付けですね。今回の改訂作業を通じて、自己の人生のみならず、リハビリテーション科学の動向を概観することができてよかったと思っています。
初版はついにamazonでは在庫切れ、出版社でも品切れになったようです。これはこれで貴重な本になるかもしれません。もはや第2版は影も形もなくなりつつ、、、なので。笑。ただし、33歳の攻撃的な自分(の表現)ともお別れのようで少し寂しい気がしています。

初版が出版された時のようなインパクトはないかもしれませんが、まずまずの情報を提供できていると思いますので、それなりに期待しておいてくださいm(_ _)m
http://www.kyodo-isho.co.jp/cgi-local/search.cgi…

人間関係とシナプス結合

2016年03月03日 10時33分57秒 | 脳講座
研究している人、臨床している人、教育している人、管理している人、起業している人という、いわゆる「くくり」が以前とは違い、そのボーダーがなくなりつつあるような気がしています。

しかし、依然として「自分は臨床が好きだから(といいつつ他よりも上に見せる)」とかいっている間は、まだ自己の中、あるいは職域間における信念対立の構図の中でいきようとしている人ももちろんいます。けれども、だいぶ少なくなってきたような気がします。いわゆる何らかのもの(事象)が進歩していく背景にある「多様性」が生み出されてきています。私たちの世界も実に50年かけて、その多様性を生み出してきました。連続ドラマ「あさが来た」でもよく用いられていますよね、この言葉(女子の生き方として)。それは、さかのぼることダーウィンの進化論に当てはまったりします。

こうした人間同士の関係性は、シナプスの構造ができあがる「発散」の仕組みに似ています。ここからシナプスは刈り込まれ、「収束」作用を起こしていきます。
この収束は悪い表現でいうと、淘汰として使われますが、実はそういう意味よりも、一度多様性をつくったシナプスだからできる「異種感覚統合」という仕組みがあります。これは感覚モダリティーを超えて、間に何個ものシナプス(ニューロン)を介して、シナプス結合する意味ですので、より洗練された質の高い情報伝達を起こしていく作用です。人間の動きが洗練されていく仕組みもこれを利用しています。

目の前にある、あるいはそこで生きている、この社会は人間がつくったものですから、人間同士の結びつきもこうした仕組みを延長させたものです。
つまり、ある程度時間をかけることで、別のところで生きてきた(考えていた)人たちが、ある人、人、人、あるいはそれらの関係性によって、つながり結合し、以前よりは洗練された行動(方向性)へと転換させていく作用(イノベーションもこの中に含む)が起こりつつあることが、最初に述べたそのボーダーが少なくなってきた背景にあるのではないかと思っています。

先週末は、なんとなく「畿央大学ニューロリハビリテーション研究センター」が現場と研究を結ぶ「プラットフォーム」になっていたような気がしました。そもそもこの研究センターを立ち上げた背景には、(大それた研究を行うというのではなく)そのねらいが一番つよく、そうしたプラットフォームの創成を目的としていました。

「高知県」と「高知大学」が一蓮托生の関係であるという記事を読みましたが、これも組織間のネットワークですし、先に述べたボーダレスというねらいがあるのかなと思っています。県と大学という大きな組織同士でもできるわけですから、スモールネットワークの関係性ではもっとできると思いますよね。若い人たちにそういう意味でエールを送りたいと思います。そもそも理学療法士として、あるいは研究するために生まれてきたわけでなく、シナプスを持った人間として生まれてきたわけですから。ある種、業界という言葉は自分たちを守るため、あるいはつよく見せるために用いられているきらいがあります。もとをたどればなかったわけですから。一方で原点や自分の立ち位置を見失わない倫理を持ち続けることも大切ですね。


成長的思考と固定的思考

2015年11月17日 12時15分43秒 | 脳講座



ちょっとした古い2007年の学術論文(Blackwell LS, Child Development 78)ですが、固定型思考(知能は変わらない)と成長型思考(知能は変えられる)の者のその後の学業成績は想像通り、成長型思考の者が上がったのは言うまでもありません。

ここまでならありきたりなんですが、この研究の背景には努力を褒められた子どもと知能を褒められた子どもが、どちらに至るかを考察しています。知能すなわち、この場合は結果(成績)を褒められた場合、うまくいっているとき(成功しているとき)は成績は良いのですが、失敗するととたん成績が下がっていき、最終的には努力を報酬としていないため、固定型思考になっていくというわけです。それを明らかにしたのは1998年の論文(Mueller CM, J Personal Soc Psych 75)です。

私たちの世界の「結果」という意識にも何かつながりませんか?それを意識しすぎるばかり、何年かすると、結果が必ずしも得られず(失敗して)努力することをしなくなるというプロセスに(学習性無力感の成立)。あるいは自分自身でオープンし他者の目(道徳倫理を意識する上で第3者の視線は重要)に触れる経験が少なくなると、とたん「結果」を自分の都合のいいアウトカムしかみなくなる世界観(利他性を利用した超利己的主義)に。

自己意識。時制に従い、過去自己ー現在自己ー未来自己を意識し、過去自己に対して現在自己、そして未来自己を報酬にもつ。そういう人生が成長型思考につながっていくと思います(幼児実験のマシュマロ実験もそれに相当)。最終的にそれが私自身の意識である固有自己が成長し続けている!!という視点にたつことができます。

ただ、報酬にはトリックがあって、まだ時制の理解、プロセスの理解がない幼児は結果を報酬として与え、学童期後半、青年期になると必ずしも結果が得られない時があるため、努力(本当は経験プロセス)を報酬にした方が成績があがると言われています。

入職したてで、今度どうなるんだろう?といった時制が明確でない場合(未来を創造する力がない場合)、結果を得る手続きも必要でしょうね。しかし、それが治療結果にあるかは、僕は別だと思っています。

今日の人間発達学では、「社会性の発達」をまとめますが、最後にそのあたりを話して、来週からの「知能・認知の発達」にうつります。

ある格言から脳化社会へ

2015年10月27日 00時39分31秒 | 脳講座
「どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。」映画監督・小津安二郎の有名な言葉です。この言葉を引用し、私なりの解釈を加えて、たぶん下記のようなことを昨日のセミナーの最後にメッセージとして話しました。

言葉や概念はいずれにしても人が生み出した流行そのものなので、何がニューロリハで、何がニューロリハでないのかはどうでも良いのです。こういう意識は、病院で頑張るのはまちがっている、外に出るべきだという言葉・文脈で作られた意識・妄想も同じです。fbで流れている言葉・文脈も流行そのものであり、時代の大衆の通念としての表現であると思えば、それに目くじら立てる必要もないし敵対しても何も生まれないと思うのです。だって流行なんですから。

一方、それが社会や他者に三人称的にも貢献するか、あるいは社会をミスリードさせてしまうかは、私たちの生活にとって重大な問題になります。よって、常に自分目線でなく、向こう側からはどのように見られているかの視点取得を意識しなければならないわけです。よって、観る側・受ける側を徹底的に不愉快にさせる陳腐な表現(こうしたSNSにおいても)は、ある程度な道徳的観念のもと精査する必要があるわけです。

そして芸術は私たちの仕事そのものになります(小津にとってはそれが仕事であったわけですから)。この自分にというのは、前の2つ(流行、道徳)を受けた上での表現ですから、決して社会の流れにものらず、道徳倫理も存在せず自分勝手に振舞うというわけではありません。私自身には前の2つを殺し、それらに対抗させて、この自分という言葉を使っているとは思えず、あくまでもそれを受け取った上で、と解釈しています。この言葉を私なりに解釈してみると、仕事は地位であったり金銭であったりの外部評価や刺激・誘引で惑わされず、自分に従う、つまり、「好きこそものの上手なれ」自分がそれを好きか、愛しているかに従って仕事をするべきだと考えています。よって、自分が好きなことですから、それを人に強要したり、無理にプロモートしたりはできないわけです。

この社会は人間の脳によってつくられた社会、脳化社会。だとすれば、脳幹、中脳、小脳、脊髄などを担当する人たちがいてもいいんじゃないでしょうか。全員が前頭葉であれば混乱必須であり、常同的なシステムがうまく機能しません。人間は意図をもった生物ですが、脳化社会であれば、意図(主張)を抑えて淡々と働いている器官(人々)も必要なわけですから。そのような人々の我慢や努力によって、ある一部分の主張は成り立っているわけです。淡々と日々仕事をしている人たちの基盤の上に社会は成り立っている(すべての人々が声を大にして意見をいうわけでもないし、人生を変えたいと思っているわけではない)。このような意識を持つことが、私たちの社会や組織(脳のシステムがうまくいくように)を巧妙に機能させていく秘訣ではないでしょうか。

ニューロリハセミナーも講座を担当する全員がキャッチーなフレーズを連呼し、プレゼンが上手かったら、いかがなものでしょう??たぶん前頭葉ばっかりだと相当に疲れる空間・時間になるのではないしょうか、、、、僕はそう思っています。

ニューロリハセミナー(機能編B)を終えて

2015年10月26日 00時10分08秒 | 脳講座
ニューロリハビリテーションセミナー(機能編B)終了しました。300名の方々に、はるばる奈良まできていただき感謝です。「行く」ではなく、この「迎える」という感覚が、たまらなく、かつとても心地よいわけです。
来ていただくことで、私たちの講演内容以外の、環境というか、関係性(講師同士だけでなく、院生、事務員、カフェブースのお姉さま、本屋さん、そしてみえない大学関係者、掃除のおばさま、、学生などなど)というか、所作というべか、細部というべきか、花(内容)でなく、土の中というべきものを感じてもらえたのではないかと思っています。
もちろん花が咲いていなければ魅力はないので、その花はたっぷりの情報で皆さんを魅了できるよう、ちょっとした情報の取得と魅せ方は努力するわけです。ただその花が、造られた豪華絢爛で全員同じで優等生なものであってしまえば、少々生物らしさから離れるため、嫌悪や妬みや不安が惹起したり、あるいは「あ~すごいな(私には無理だな)」という諦めの意識を生み出すため、私たちは自分らしさを残した素の花をとりあえず咲かせているわけです。
実は、当日までみんな、互いに何を話すか知りません。そして、誰もが誰かのトークに無理やり介入(修正要求)することはありません。そしてこんな風にやろうという意識や意図のつくられた統一もしません。そして一応私がリーダーではあるんですが、全くもって忠告はしません(信じるという視点から)。みんながみんなのトークを聴きながら、互いに誤差修正しつつ協力という視点で、6年かけてこの統一感という雰囲気・関係性をつくってきました。
畿央大学の建学の精神の最高峰(私が勝手に解釈している)に「美をつくる」というものがあります(他は徳を伸ばす、地をみがく;以前のfacebookに掲載)。この関係性の構築(非言語でも分かり合える)こそが、「美をつくる」というものではないかと、最近実感してきたわけです。
美しい関係性はすぐさまつくることができません。時間をかけて熟成し、少々の我慢と努力のスパイスをいれつつ、互いに役割の意識を持ちながら振舞う・演じるという意識の連鎖を繰り返しながら時間をかけてつくられてくるのではないかと思います。
その結晶が、畿央大学ニューロリハビリテーション研究センターをはじめ、理学療法学科の教員が、比較的長い間において、一人たりとも退職しない結果ではないかと最近思い始めました。
みんなそれなりに業績を持ったメンバーで、今尚実績を積んでいる面々、、、大学にしては比較的若い組織であり、それぞれ、いくらでも売れる人材ばかりだと僕は思っていますが、居心地の良さという内受容感覚の同調性の潜在的意識と、今尚、この環境において、何歳になろうとも自分が成長していると感じることができる(内言できる)意識の顕在化の出現が、この組織には起こっているのではないかと思っているわけです。
いずれにしても、私たちにとっては、皆さんに畿央大学にきていだき、2日間10時間の講演の連続による疲労感の中でも、ほっこりとした気分、優しい気分、頑張ろうという意識、そして何よりも知ることの楽しさ、もっと知りたいという欲求があの空気感の中で連鎖していってくれることが何にも代えがたい報酬です。そんなことぐらいしか貢献できてないかもしれませんが、そんなことが生きていくためには、あるいは皆さんの仕事のためには、とても大切ではないかと、心底思っている集団です。2月にまたそういう気分を互いに味あえるように、メンバーで協力しながら準備をしていきます。
2日間にわたりありがとうございました。