森岡 周のブログ

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脳科学と生命倫理

2013年09月02日 11時24分25秒 | 脳講座
BMIやNeuromodulationは一歩間違えば人の手で人を崩壊に導かせる技術になるかもしれない。と自分を律する意味でも問題提起しておこう。医療者も一患者のためと思いつつ、「生物としての人間」の一人として、そのものの本質的倫理を考える必要があると思う。おそらく、こうした介入は医療における常識的行為となることは間違いなさそうである。遺伝子治療やiPS細胞と時同じようにして。

DBSによるパーキンソン病の治療効果が示されている一方、うつ病の効果も示されている。しかしながら、この事実は感情のコントロールを外部から行うことができるということを暗示している。また外部からの物理的刺激(介入)は、人間の自由意志という問題にも接近してしまう。Libetによる問題提起は、くしくも自己の意識的な意欲を外部からの脳に対する何らかの刺激によって作動させることが可能ではないかという視点がうみだしてしまう。すでに粗雑であるがラットのサイボーグ化は可能なわけである。

常識は文化が変われば非常識となる。時が経てば非常識となったり常識となる。常識や非常識にまどわされず、常識でなく生物としての人間としての良識を問うべきと声を高く発せないといけない時がくるかもしれない。そもそも、平等にコミュニケーションをとったりする権利を主張すること自体が自然としての人間として不自然である。自然に存在する石や花々を見れば、同じであるものこと自体が不自然だ。生きて死ぬ私、それは定めである。どのように生まれるか、どのように死ぬか、どのように病気になるか、どのように障害になるか、そんなことを予知でき、みんな人工的に平等になる社会を想像したとき、果たして本来の人間の姿がそこにあるのか。自然(平等でない)だからこそ、できるだけ公平にという社会倫理的秩序を生み出してきたわけではないか。

自分の脳波で動かしたアンドロイドが行った倫理的に間違った行為を律したり、罰したりすることができるであろうか。これは身体(アンドロイド)、脳(人間)といった心身問題にも通じてゆく。そうかんがえれば、私の研究の一つであるNeurofeedbackもethics問題に抵触してしまう。他人の心を客観化できてしまえば、本音と建前を使い分けることができない、なんて不自然でストレスフルな社会になってしまうであろうか。。。


iPS細胞から脳の再生。脳損傷者の治療に少しの光が。と思うが両手をあげては万歳できない。ますます「人間の脳」は「人間の脳」をどうしようとしているのか困惑するのではないかと。「心」はどのように宿るのか。「意識」の来歴は?などとサイエンスを考えるとともに、「病」「死」というものをどう捉えるべきなのかと。実はここ数年、臓器移植に対しても、おなじような生物としての人間の存在・倫理を考えている。以前の医療者としての考え(特に腎疾患を研究していた来歴からも)しか持ち得ていない時は、諸手をあげて賛成だったが、今はそうではない。揺らいでいるというのが正確だろう。意思表示カードも以前はすべて○だったが、今はそのカードの存在すらわからない。自分は臓器提供しても、他の者にはそれを好意的には薦めないだろう。こういうethics問題は答えはでないが、どこかで人間とは何かと、自問することが大切だろう。そうでないと医療者は杓子定規的に決めてしまう。そして人間の脳は自分の生きてきた道を肯定するため、幅広い教養と幅広い意見から、対象者は判断すべきだと思う。

そういった意味でゴーギャンの絵画は実に的を得ている。「どこに向かおうとしているのか」人間とはそういう意味では面白い。

http://www.nature.com/nature/journal/vaop/ncurrent/full/nature12517.html

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