森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

システムにおける循環問題

2013年11月05日 13時17分43秒 | 脳講座
「難しいことをわかりやすく語ること」に終始してはならない。「難しいことを難しく語ること」それに実は意味がある場合がある。ときにそれは、簡単にならってきた義務教育の功罪があるようにも思える。

前者は脳のショートカット機能ならびに過去の経験に基づくトップダウン思考から、情報を歪めていることが大いにある。巷の講習会人気講師に起こる現象でもある。これはもちろん自省を込めてなんだけど、大変難しい問題がそこには内在している。

これは本当に難しい問題なんだけど、どうしても講演する側は聴く側の興味や意図を読み取り、それにあわせて情報を提供する。これはいわば、人間コミュニケーションの本質的行動であるとともに最近接領域による学習スタイルの提供のしわざであるが、これをすることで、わかったような気にさせてしまうこともしばしば。ドーパミン神経細胞の興奮から起こる線条体の働きに振り回されるのである.それだけに終始せず,わからないという経験(エラー値)に後押しされる自己の行動化の意識の改革が必要だと思う。

それに加えて、やはり聞く側の能力(賢さ)を上げることが大事である。全く知らず、自己の人生にとって脳や運動のことを知らずしてもよい一般の人に話すようなレベルであっても困るのである。

究極的に言えば、他者や道具に支えられながらも、勉強は自分でするもの。その根本の意識が上辺だけになっているように思える。他者の命や人生に関わる仕事についた(つく)以上、猛烈な勉強と自己の有意義な経験が生涯必要だと思う。まだ自己が何者でもない者にとって、遊ぶ時間はいらない(社会的遊びとならない無駄なものを指している、誤解をせずに)。人間は他者と共存し生きるために働く。働き続けることこそ、成熟した社会的役割を持った人間としての証なのである。だから、学生にとっては勉強することなのである。勉強をするからこそ、学生としての社会的役割が成り立つのである。就職活動やバイトというものに、本質的な学生としての社会的役割はない。この本邦の社会認識構造は多いに問題でもあるように思える。

さて、今の学習スタイルを鳥瞰すると、結局は送り手側(講師)と受け手側(受講者)の現時点での水準で思考が循環されるだけで、システムを変化させることにはならない。社会システムにおける学習のダイナミクスは複雑系のシステムであるが、この旧体系から続いている医学的モデル(ヒエラルキー)における現在の講習会システムであれば、その複雑系システムが起こりづらいのである。そして、問題はもう一つ。類は友を呼ぶではないが、共感・同調し合う人間がそこに集まり、閉鎖的なシステムを構造化してしまうのである。ミラーニューロンシステムの弊害でもある。そうなると、自己の信念を他者に同化させてしまい、そうでない行動について、その背景(情報処理プロセス)を知ろうとせず、自分の信念とは違う行動をとったり、あるいはとらなかったことに対して、嫌悪やいら立ちを持つ。それはこのSNS上での言動や意識における同調性にも大いにみてとれる。それは依然として所属・承認の欲求であり,自己実現の欲求ではない.愛されたい潜在的意識における行動である.その背景には暗黙的にうまくいけていない意識がある.自己を肯定する(される)環境に向かい,承認しあう欲求水準から前進させ,自己の内部環境に社会(複雑性)をつくり,自己の変化に気づくことができるよう,思考を循環させることができれば,1ランク上へと位相現象が起こるであろう.

自己のエゴや、妬み、やっかみをすてて、そんな時間を与えないぐらい、思考を循環させること。僕は最近余計それを思うがあまり、自分の趣味までも律しようとも思い始めている。自己の欲求というものが明確にならなくなってきたのだ。だから、こんなことをいうと不謹慎かもしれないが、専門理学療法士を更新するという行動の意味さえも見失い始めている。もっと社会に貢献・供給すべきストラテジーはあるのではないかという・・けれども、これは私の志向性であり、まだ自己が何者でもないものは、そうした外部動機に向けて自己の行動を正し、邁進する事は大変意味があることでもある。

要するに、その都度、その都度、オンラインにて自己意識を持つ事こそ、人間が成長し、社会システムを良き方向に動かして行く機動力となるのである。オンラインの自己意識こそ、自己の変化に気づけるプロセスである。そして、難しくも語れ、易しくも語れ、その中間でも語れ、絶妙に文脈によって自己の行動をオンライン上で変化させる、この人間が持ち得る行動のオンラインでの変化を、私たち自身(人間)は存分に発揮させることができるはずである。それが臨床知にはるはずである。狭義のエビデンスやサイエンスといった情報ではなく(だけではなく)、このプロセスの意味を教えることこそ、教育の根幹のように思えるわけである。

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