隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

初代犬山城主成瀬正成 First Lord Naruse Masanari

2011-09-02 20:38:30 | Weblog
各務原から見た犬山城
初代犬山城主成瀬正成 First Lord Naruse Masanari 平成辛卯廿三年長月二日

成瀬正一の長男(永禄10年1567生)。父正一は長篠合戦(1575)に鉄砲隊の背後でがんばっている。長篠の合戦図屏風に出て来ています。
正成は、小牧・長久手の戦(1584年)に17歳で従軍し(初陣)、家康の馬前でその働きを評価され、同年中に、根来寺の僧兵50人を預かる指揮官にされた。徳川家の歴史で、17歳の足軽大将は正成だけである。 小牧・長久手合戦図屏風には颯爽と馬で駆ける姿と敵の首を獲る場面が描かれている。その功賞として家康から備前兼光の脇差を賜ったと伝えられる。
先日、中日新聞連載「先人たちの名語録」童門冬二に、初代犬山城主成瀬正成が登場しました。 付家老について『悲願』で取り上げましたが、童門冬二氏は現代の岡谷繁実ですね。童門さんらしい切り口で描いている。抜粋させてもらいます。
 
 成瀬正成は譜代の臣で徳川家康に信頼された。勇猛で忠誠心あつく、とくにその誠実さは“生きる良心”だった。
天下人になった豊臣秀吉はよくこういう他家の良臣を高い報酬で引き抜いた。当時二千石の給与しかもらっていない正成に目をつけ、五万石出すからオレのところへこい、と誘った。正成はこのことを家康に報告した。
家康は複雑な人間だ。
「秀吉公はわしの主人的存在だ。目をつけられたのは名誉だ。いったらどうだ?」と応じた。正成は怒った。「報告したのは相談ではありません。生涯二千石でも私はあなたの家臣です。ただ黙っているわけにはいけないのでお話したのです。情けない。」とハラハラ涙をこぼした。家康はこのことを秀吉に告げた。秀吉は間の悪い表情をして、「わるかった、正成に思うとおりにせよ、と告げてくれ」といった。

これ以後、正成は、自身で雇用する足軽を、三河よりも東の出身者に限るようにして、家康を喜ばせたという。(岡谷・名将言行録)

正成は三万石の領地と、のちには犬山城も与えられる“準大名”として扱われた。赴任してすぐ、「公平だがきびしいご領主」の評判が流れ領内の気風はどんどん正しく改まっていった。恐れをなした商人の米屋八郎兵衛が自首してきた。
 「父が多少非道なことをしてカネをもうけましたので、罰していただきたく」という。
何をしたのだと聞くと、「米を売るときに使うマスは小さく、借金を米で返してもらう時のマスは大きく、二種類のマスを使っておりました」という。
正成は笑った。こう告げた。「わかった。これからは逆にしろ。それが罰だ」
 『人には多く自分に少なく』という生きる良心ですね。
 
岡谷・名将言行録にはさらにある。駿府城を修営するとき、正成は下帯をしていなかった。それを見た家康が、布地を賜った。それが、いまでも成瀬家の家宝だそうだ。
財団法人犬山城白帝文庫の山澄氏にそのことを伺ったが、下帯というのはいわゆる褌のことで、約400年も前のこと、どうやらなさそうでした。その代りではないが、第9代成瀬正肥の具足下着がある。白麻で丸にかたばみ紋が藍で染めてある。九州出兵の際、使用されたと伝えられている。
 
初代成瀬正成は、関ヶ原の戦いでは、家康の使番を務める一方で、根来組100人を率いて麾下(きか)の先鋒を務めた。最後まで徳川家に忠誠を誓い、死に際は日光に行くと言って聞かず、遺言により遺骸は家康廟の近くに埋められたそうです。
第2代徳川秀忠(側室は江ですね)は喪を服して3日間、江戸での鳴り物を止めさせたという。寛永2年(1625)のことである。

余談: 下帯については、「岡谷・名将言行録」に面白い話が載っている。
    
細川忠興の項で、大阪の陣の後、医師の伊藤三白(さんぱく)が、「死亡または重傷を負っ
て家人にひきずられていく武将は、なぜか皆、下帯を脱しているのだそうですが、それは
なぜですか?」と、細川忠興に質した。忠興は答えた。「人は、血が抜けると、肉が細り、
帯などは外れ落ちてしまうのだ。それで歴戦の巧者は『もっこふんどし』と称して、首か
ら紐をかけて下帯につなぎ、死後も見苦しくないようにする」
主君たるものは何でも知っていないと務まりませんね。
妻・ガラシア夫人は、明智光秀の娘ですね。

南山大留学生書道体験9/1
お読み下され、感謝いたします。
 


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