Men's wear      plat du jour

今日の気分と予定に、何を合わせますか。 時間があれば何か聴きましょう。

目利きの後ろ姿

2011-08-01 | Rock
 前回の話から通底する部分をふくむように思いますが、
洲之内徹さんの「山発さんの思い出」という話に......

鎌倉近代美術館の朝日さんの言うところによると、佐伯祐三の蒐集家といえるのは、いまはもう故人だが、芦屋の山本発次郎氏以外にはないそうである。
朝日さんは先年の、鎌倉の美術館での佐伯祐三展の折、作品を集めてまわった当事者だから、朝日さんがそういうのならまちがいないだろう。
たしかに言われてみればそのとおりで、佐伯を二点とか三点持っているという人なら私も何人か心当たりがあるが、五点となるともう思い当たらない。
だが仮に五点か十点持っていたとしても、佐伯の生涯の作品の大半、それも名作傑作を揃えてごっそり持っている山本さんの場合とでは桁違いで、比較にもならない。
また、山本さんが佐伯の蒐集家として桁外れというだけでなく、ひとりの作家の作品が、殆どひとりの蒐集家の手許に集められ、他には蒐集といえるほどのものはないという、こんな例も珍しいのではないだろうか。

山本さんはいつか私に、自分はなにも佐伯祐三を発見したとか見出したとかいうわけではない。
自分が初めて出入りの画商から佐伯の作品を見せられ(それが「煉瓦焼窯」だった)、初めて佐伯祐三の名を知った頃には、自分が知らなかったというだけのことで、佐伯は既に世評の高い画家であった、ただ、有名ではあったが誰も買おうとはしなかった佐伯の絵を、とにかく自分は夢中になって買った、それだけのことだ、と言ったことがある。
      ―中略― 
たとえ山本さんが自分でどう言おうと、やはり、山本さんは佐伯祐三の発見者だと私は思う。蒐集家と批評家、あるいは目利きと批評家とでは絵の見方がちがう。女に惚れた男が、その女の、人には見えないほんとうのよさを見付けるようなものだ。だから佐伯の場合は別として、埋もれた異才、時代が見逃していた才能を発見するのは、いつも批評家ではなく、目利きのほうである。

例によって、長い引用になってしまいました。



そして、白洲正子さんの「珍品堂主人 秦秀雄」という話には.....

ふつう世間の人々は、贋物・真物を見分ける人を「目利き」という。それに違いはないのだが、私にいわせればそれは鑑定家で、経験さえ積めば、真贋の判定はさして難しいことではない。
駆出しの学者でも、骨董屋の小僧さんでも、そのぐらいの眼は持合わせている。むつかしいのは、真物の中の真物を見出すことで、それを「目利き」と呼ぶと私は思っている。
「名人は危うきに遊ぶ」といわれるとおり、真物の中の真物は、時に贋物と見紛うほど危うい魅力がある。正札つきの真物より、贋物かも知れない美の方が、どれ程人をひきつけることか。しまいには、自分だけにわかればいい、「人が見たら蛙になれ」と念じているのが、日本の目利きの通有性である。
「贋物を怖れるな。贋物を買えないような人間に、骨董なんかわかるもんか」
秦さんはいつも豪語していた。私が知るだけでも、彼は古伊万里、佐野乾山、魯山人など、「贋物のあるところ、必ず秦あり」といわれる程、贋物にかかわって来たが、目が利かないから、贋物を売買したのではない、目が見えるからあえて危険を冒したのだ。

結局、並はずれて本当に好きな人には敵いません。
服の場合はもうちょっとシンプルで、解かり易いはずですが、他人がいいと言ってるブランドをなぞっていても、なかなか見えてこないのが現実です。
ましてブランドだけ押さえて満足していても、内実の伴わない品を選んでは本末転倒でしょう。

ところで、私の知り合いに「山発さん」はいませんが、鈴木君がトリハツと呼ぶ、ヘビースモーカーの服部さんならいます。




Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 漂流中 | TOP | どちらへ。 »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | Rock