HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

被買収が吉となる。

2018-01-24 05:18:45 | Weblog
 先日、三井物産とMSD企業投資第一号投資事業有限責任組合(MSDファンド)が「ビギグループ」の全株式を取得するとの発表があった。今やファンドによるブランド買収は珍しくないが、今回は商社も絡んでいることで、注目される案件だと思う。

 「あのビギグループもついに買収の対象になったか」とは言っても、「ビギグループって何?」「どんなブランドなの?」。業界人でも50歳以下の方はそんな印象ではないか。今回の買収も50歳以上と以下で、受け止め方は異なるだろう。そこで、全盛期を知る人間として、ビギグループとはと、その買収の先にあるものについて書いてみたい。

 ビギグループとは創業ブランドの「ビギ」と、そこから派生した様々なブランド会社、さらにレストラン、販社、工場、ホテル、旅行代理店、印刷会社などで構成される企業グループを指す。企業、ブランドとも自社内からスピンオフしたものが大半なので、LVMHやケリングのようなM&Aで巨大化したコングロマリットとは異なる。

 ビギが誕生したのは1970年7月。今から半世紀近く前で、日本生まれのファッションブランドはそれほど多くなかった。当然、資本の論理による吸収合併などできるはずもなく、ある二人の人物によってサクセスストーリーが作り上げられたと言っていい。

 その一人は「タケ先生」こと、菊池武夫氏である。ご存知、日本のファッション業界で類いまれな感性と才能を持ったデザイナーだ。もう一人がその菊池氏の能力を見出した経営者の大楠祐二代表である。正しく言えば、菊池氏がビギグループのベースを築き、大楠代表が拡大、発展させたとでも言おうか。

 菊池氏は服飾専門学校の原のぶ子デザインアカデミーを卒業後、学友の稲葉賀恵(当時は佳枝)氏と結婚し、小さなアトリエを設けていた。だが、自分たちが好きなデザインの服を作ったところで、ビジネスにするにはほど遠いものだった。稲葉佳枝はデザイナーだけでなくモデルもこなしており、うちの母親が愛読していた雑誌「ミセス」ではかなりの露出もあって、小学生の筆者はすっかりモデルと勘違いしていた。



 大楠代表は日大芸術学部の写真学科に在籍中から、学業そっち抜けでバイトに勢を出したが、同期の篠山紀信らに撮影のバイトを紹介する代わりに斡旋料を取るなど、ビジネスの才覚を持っていた。どんな事業を展開すれば、金が儲かるか。どんな人間に賭ければ、ブレイクさせられるか。大楠代表にはそんな能力があり、デザイナーの菊池氏にもビジネスの可能性を感じたのは言うまでもない。



 因に大楠代表の妻は女優の大楠道代(旧姓は安田)である。鈴木清順監督、松田優作主演、楠田枝里子共演の映画「陽炎座」にも出演している。だが、筆者には緒形拳出演で、 女性の中に潜んでいる男の能力を揺すり起こし、東京オリンピックの陸上選手を育てる問題作「第二の性」のヒロインの方が印象に残る。個性派女優であることから、ビギグループのプロモーションにも数々登場している。

 それらはさておき、本題に戻ろう。ビギという名前は菊池氏が造詣が深かったロンドンの反オートクチュールのショップ「ビバ」を参考にしている。ロゴマークのデザインもビバをアレンジしたものだ。ビギが誕生すると、菊池氏はデザインに専念し、大楠代表は営業にまわる。役割分担は当初から徹底されていた。

 当時、日本のファッションは街のサロンブティックが牽引しており、パリやミラノのインポートや高級服地を使用したオートクチュールが主流で、既成服はそれほど出回ってはいなかった。筆者の母親もブティックのオーダーメードを仕立てる洋裁師をしていたので、子供ながらこうした状況は何となく感じていた。

 ヤング向けの既成服はスウィートな感じの服ばかりで、デザイナーが作るようなカッコいい服はほとんどなかった。だから、菊池氏が創り出す大人の雰囲気とエッジの利いたデザインにはすぐに洋服好きの女性が飛びついた。それを創刊間もないアンアンが取り上げる。ビギはたちまち全国にファンを拡大していった。

 「DC(デザイナー&キャラクター)ブランド」という新たなカテゴリーが創造され、ビギは加速度的に成長を続けていく。73年、大楠代表はビギのニット部門を独立させ、㈱メルローズを設立した。この頃から分社経営に乗り出すが、これがビギグループの成長の原動力となり、後に来る大楠代表の危機をも救ってくれた。

 会社が成長するにしたがって、クリエーションを追求したい菊池氏とビジネス重視の大楠代表の間には溝が深まっていったのだ。菊池氏は74年に故・松田光弘(ニコルのデザイナー)、山本寛斎、コシノジュンコらと「TD6」を結成し、合同でコレクションショーを開催した。

 これを機に「俺もパリコレで作品を発表し、観客の喝采を浴びたい」と熱望し、ビギからの独立を申し出る。狙うのが国内のマーケットだけ、しかもビジネス重視という大楠代表のやり方に、クリエーターとして反旗を翻したのである。

 一方、大楠代表には自分が売場からお客の声を集め、マーチャンダイジングに活かしたからこそ、ビギは売れたとの手応えがあった。海外でコレクションを開催したところで、有り余る利益にはつながらない。それ以上に菊池氏が好き勝手なデザインをやったところで、ビジネスに結びつくわけがない。失敗して戻って来るはずさ。その読みはズバリ的中した。

 ただ、またいつデザイナーに去られるかわからないとの危機感があったのも事実だ。そのため分社経営、多角化を進めていたのである。菊池氏の独立後は稲葉氏(菊池氏と離婚)をチーフデザイナーを起用してブランドの立て直しを進める一方、東京・青山にフランス料理店を出店した。

 大楠代表はデザイナーのネームバリュウに頼る事業ほどリスクの高いものはないと感じとっていた。ロサンゼルスの通りの名前からとったメルローズはラ・ブレア、メンズメルローズ、フィフスクラブなどで構成する。これらはC(キャラクター)ブランドと言い、デザイナーの名前は付けられていない。デザイナーがいつ交替しても良いようにとの考えからだ。

 こうして関連会社を次々と設立してブランドを増やし、ビギグループの骨格が形づくられていく。そこには大楠代表の独自の経営哲学があった。会社(ブランド)は大きくするより、小さな会社(ブランド)をいくつも持て。ビジネスはホームランを狙うより、小ヒットを重ねろ。そして、原価率を抑え、利益が大きくなる業種に絞れ。

 カフェからフランス料理やホテル、旅行代理店、印刷会社、蘭の栽培まで手がけたのは、すべてこうした経営哲学に則ったものだ。それらはそれぞれの会社が小さいからこそできることだと、当時は言われていた。

 しかし、DCブランドブームが去ると、ビギグループの威光もすっかり消え失せた。95年には傘下のBMファクトリー(生産工場)と、全労協の管理職ユニオンとの間で団体交渉が行われている。部門廃止や人事異動、給与改定などのリストラが行われる一方、経営陣によるゴルフ会員権の購入や社用車の貸与など公私混同があったため、グループ内で初めて生まれた労働組合により、業界では珍しい争議まで起こされている。

 「ザラ」が日本で展開を始める98年には、インディテックスグループが49%、ビギグループが51%を出資して日本法人「ザラジャパン」が設立された。初代の社長には、ビギグループの販売会社「BMD」で代表を務めた城尾卓佳氏が就任した。大楠代表とともにビギグループを成長軌道に乗せた一人である。この話題も意外に知られていないが、業界ではエポックなネタだから、付け加えておく。

 ビギが誕生して50年近くを経過した今、そのブランド開発の手法や経営哲学が時代に合っているかどうか。それは別にしてもDCブランドの一時代を作り上げたのだから、もう一度そのスタイルを見つめ直しても良いのではないか。それでなくても大手アパレルは組織が肥大化、硬直化して新たな才能を開花させられず、新しいブランド育成もできていない。おまけに機動力や柔軟性まで失って、閉塞感ばかりが漂っている。

 買収に当たった三井物産は商社として、ビギグループとはブランドライセンスやOEMで付き合いがあったわけだ。ただ、メンズビギやメルローズは完全にお兄系のプチプラなブランドに成り下がっており、テイストも往年のDCとはかけ離れている。大人の女性向けで上質な「wb」が好調をキープしているのを考えると、素材調達や工場確保などネットワークに長ける商社の力が加わると、メンズ再生にも期待できるのではないか。

 そのためには人材が必要だ。かつてのビギで仕事をした人間は還暦を過ぎたり、定年を迎える年齢。いや70代に達している。しかし、DCブランドで磨いた若い感性やカッコいい服を作り出すことへの情熱は、決して冷めてはいないのではないかと思う。今でも時々PinterestやInstagramに登場されている菊池氏が何よりの証拠だろう。三井物産やMSDファンドがブランド再生にそうしたマグマのような力をどう掘り起こすかである。

 ビギグループは大楠代表のビジネス重視、やもすると拝金主義的な姿勢に反し、商品づくりに対しては確かな基盤を有してきた。自社にはデザインチームがあって企画に携わっているところは、安易にODMに走る大手アパレルとは一線を画す。それだけを見ても、買収の価値は十分にあったということだ。商社とファンドの資金が良い方向に投資され、是非ともメンズビギやメルローズのリニューアル、新たなブランドの構築を断行してもらいたいものだ。



 東京渋谷のJR恵比寿駅から駒沢通りを上り、旧山手通り一帯に広がるエリア。そう、代官山である。古くは外国大使館や教会、関東大震災の復興住宅・同潤会アパートなどが木々の緑と一体化した静かな街だった。ここをファッションストリートに変貌させたのは、何を隠そうビギグループである。

 母体の㈱ビギが原宿から移転し、その後にディ・グレースやピンクハウス、キャトルセゾン、P・3などのグループ企業が次々と本拠を構えていった。一時期、旧山手通りは「ビギ通り」と呼ばれていたこともある。今から30数年前、こうした店舗に商品チェックや市場調査を兼ねて通ったのが懐かしい。

 筆者にとっては現在のようなメジャーに開発された代官山ではなく、木立の中にある朽ちかけたアパートや不味い食堂の方がよほどお洒落に感じたものだ。ただ、一つだけ達成していないのが、ビギがプロデュースしたホテル「ロテル・ド・ロテル」での宿泊。何とか札幌に行く機会を作り、実現させたいと思っている。

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