デザイナーズブランド「ヨシエイナバ」が2024年秋冬シーズンで終了する。創立は1981年だから43年という長い歴史に幕を閉じることになる。
ヨシエイナバは、1970年7月に誕生したデザイナーズブランド「ビギ」が2年目から破竹の勢いで売れ始める中、創業メンバーの一人で、代表の大楠祐二氏が派生ブランドを次々と増やし独り立ちさせる戦略から生まれた。最初は1973年のメルローズ。ビギのニット部門からの独立だった。次いで77年にアクセサリーのクシュカ、78年にはカジュアル色の強いディーグレースやマドモアゼルノンノなどを傘下にもつBBKK、82年にはピンクハウスを独立させ、次々と別会社が誕生した。ビギグループ躍進の原動力を支えた分社経営とも言える。
ところが、誕生から5年目の1975年には状況が一変する。ビギの創業以来、デザインに携わってきた菊池武夫氏が妻である稲葉佳枝氏(その後、賀恵に改名)との夫婦生活に終止符を打ち、別居。同年10月、菊池氏はビギを退社し(株)メンズビギを設立した。だが、大楠代表は確信していた。「デザイナーが思い通りに作った服が売れるわけがない。ビギが売れたのは、俺が売場やお客の声を集めてマーチャンダイジングをやり、菊池がデザインを修正したからだ。失敗して必ず戻ってくるさ」。読みはズバリ的中。菊池氏はブランド事業に失敗し、1980年にはビギに復帰。メンズビギはビギグループの傘下となった。
一方、大楠氏は素早く動いた。菊池氏に去られたその月に、稲葉氏をチーフデザイナーに起用して体制の立て直しを図った。アパレルだけではない。東京・青山にフランス料理のル・ポアソンルージュを開店した。「次はいつ稲葉に去られるかわからない。デザイナーの知名度に頼りきったビジネスほどリスクがあるものはない」。大楠氏には常にそうした危惧があった。だからこそ、ビギの設立から3年目でメルローズを独立させ、菊池氏が去った後も別会社を次々と設立してブランドを増やしていたのだ。
(株)ビギ傘下には以下のようなブランドが名を連ねた。「ビギ」「モガ」「ジャストビギ」、そしてヨシエイナバである。文字通り、ヨシエイナバにはビギ、モガのデザインに携わった稲葉氏の服づくりのスタンスが細部にわたって浸透した。さらにヨシエイナバは既製服にはない手作りの1点ものに近い技術や品質をもとに最高のウエアを提案することを追求した。1981年といえば、デザイナーズブランドが最盛期に入ろうとした時期。にも関わらず、ヨシエイナバはクリエイティビティよりもクオリティを追求したのである。
それがどんな意味を持つのか。当時の洋服好きは「お洒落でカッコ良い服が着たい」とデザイナーズブランドを購入していた。しかし、そんな洋服好きも歳を取るごとに成熟し、「いい服を着続けたい」に変わっていく。ヨシエイナバが誕生した時、稲葉氏は42歳。デザイナーとして十分な経験を積み、服づくりでは油が乗っていた時期だ。にも関わらず、手作りの1点ものに近い技術や品質を重視したのは、自身のスタンスである「私はデザイナーではなく洋服屋。モードを意識しても、アブストラクトな服は作らない」からだったと思う。当然、自分の服を愛してくれるファンがやがて成熟することも想定していたのではないか。
もちろん、稲葉氏は夫だった菊池氏とは違い、ビギという会社に籍を置いて仕事を続けた。もし独立すれば、経営にもタッチしスタッフや取引先のことまで考えなければならない。ならば、ビギにいた方が服づくりだけに邁進することができるわけだ。それを特別に意識した訳ではないだろうが、大楠代表が持論とした「服は作りすぎても少なすぎてもダメ。感覚は新し過ぎてもいけない。一歩先より半歩先だ」というマーチャンダイジング重視の経営方針とシンクロした部分はあったと思う。
加齢を味方につけた服づくり
稲葉氏は、ヨシエイナバを終了する理由について、「満足のいくパフォーマンスが望めないことも出て参りました」と、語っている。これほど長きにわたって続いてきたブランドだから、社内には後継のデザイナーを立て今後も存続させていいのではとの意見もあったはずだ。だが、稲葉氏は「ヨシエイナバは自分が携わってこそ、ブランドとしての体を成す」との思いが強かったのかもしれない。だから、あっさりと身を引く決断ができたと思う。
もっとも、体調面では以前にも変化を感じている。「60代の半ば頃から、色が見分けにくくなりました」。会社に染色部屋まで造り、自分で染めて色の出具合を確認していたにもかかわらずにだ。長年の経験からこの色とこの色が合うと組みわせても、違和感ができてきた。自然光に晒したり、照明を変えたりして、ようやく決めるという状態だった。原因はやはり加齢による目の衰えにあった。
70歳になる直前、知人から白内障治療の専門医を紹介され受診したところ、水晶体の中心部が硬くなる核白内障と水晶体の後ろが濁る後嚢下白内障が併発していた。医者からも「微妙な色の違いがわかりにくかったでしょう」と言われたとか。そのまま放置して症状が進行すれば、デザイナーとしての生命を奪われるかもしれない。幸い、処置が早かったことで、両眼の水晶体を取り除き眼内レンズを移植する手術を受けることができた。術後は色もクリアに見えるようになり、視力も0.8から1.2に回復したという。
人間は加齢により、目の異状を感じることが少なくない。特にデザイン関連の仕事をしていると、色が見分けにくくなる人も多いようだ。知り合いのグラフィックデザイナーもそうだった。一方、服を着てもらう顧客は、加齢に伴って髪の毛の色や肌の色艶が変化するので、似合う色が変わっていく。ここがブランドビジネスとして、一番悩ましいところだ。マインドエージを頑なに守ってデザインをしていると、コアなファン客は歳を取っているのだから自分に似合う色がないと、ブランド離れを引き起こしてしまうこともある。
ヨシエイナバが43年もの長期にわたってブランドを維持できたのは、コアな客層に合わせて色やデザインをうまく微調整してきたからだ。これは簡単なようで実に難しい作業になる。そこには稲葉氏が直接デザインに携わり、それを後身のスタッフに委ねても自らディレクションに携わる中で、経験則や売上げデータをもとに決めてきたと思う。80歳を超えてもアトリエ作業の合間には必ず店頭に立って、顧客との会話も惜しまない。だから、身体にそいつつも、さりげなく体型をカバーし、ずっと着られる仕立ての良い服を作ることができる。ほんの一瞬だけでなく、変に目立つこともせず、シックで落ち着いた色合いがヨシエイナバの真骨頂でもあった。
稲葉氏は、あくまでヨシエイナバを着てくれる人が着ていて心地よくいられることを重視した。それを学んだのは専門学校時代に遡る。原のぶ子アカデミー(現在の青山ファッションカレッジ」での経験からだ。前にも書いたが1960年代前半は既成服はそれほど出回っておらず、少し違ったデザインにするには作るしかなかった。原氏は戦前にパリにわたり、本場のオートクチュール(高級注文服)の技術を学んでいた。学校ではクリスチャン・ディオールの美しい人台を揃えていた。それが稲葉氏が学ぶ理由にもなった。
入学直後の1ヶ月は床に落ちた仮縫用のピンを拾うことのみだった。それによりピンがどういうものかを覚えることができた。糸抜きも重要な学びとなった。ツィードからシフォンまで50cm四方の生地から横糸や縦糸を抜き、再び針で糸を入れる。まっすぐ抜くのも難しいし、よりがかかっている糸もある。そんな地道な学習によって布というものが理解できた。布目がよれたまま裁断したり、生地の特性を分からないまま縫製すると、予期せぬシルエットになってしまう。しかし、生地がどのように畝り、歪むかを知った上でなら、それをデザインに活かすこともできるのだ。そうしたノウハウがビギの服づくりにも表れている。
一世を風靡したデザイナーズブランドも1990年代に入ると凋落した。ビギもブランド名は残ったものの、往時とは似ても似つかない低価格・量産の産物に堕してしまった。2019年には三井物産がビギホールディングスの株式33.4%を取得し、24年6月には残りの株式66.6%も取得して完全子会社化した。これについて、ファッションライターを自称されたあるお方は「DCブランドブームという名残さえ消えたと感じた話」と論評されていた。俄か景気が萎んでいくのは当たり前だが、ビギから派生したwb(ダブルビー)やDÉPAREILLÉ(デパリエ)は顧客をつかみ、売上げも積んでいる。デザイナーズブランドが消え失せることはないのだ。
しかも、商社がブランドを買収したところで、彼らはアパレルのプロではない。せいぜい経営者を送り込んで量販体制を整えるか、ODMの会社を噛ませてブランドの体裁を取るのが精一杯だ。商売としてはユニクロを支えているのと同じで、1点あたりのマージンは低くても数が売れれば、儲けものとしか考えていない。商社のアパレルビジネスなんて所詮、そんな程度だ。ビギはブームが去って身売りしたが、その遺伝子を引き継いだDÉPAREILLÉ は、新たなクリエーションとクオリティを創出し、デザイナーズブランドを牽引している。そうした動きのリーダー的存在だったのがヨシエイナバと言っても過言ではないだろう。
会社は異なるが、beautifulpeople(ビューティフルピープル)やpasdecalais(パドカレ)、marcourt(マーコート)やplainpeople(プレインピープル)は、大人の洋服好きに愛されている派生系デザイナーズブランドだ。これらに共通するのは量販アパレルはもちろん、百貨店系の大手アパレルにも出せない生地の色合いや質感、そして個性的なデザインだ。小物やアクセサリー、テーブルウェアなどを組み合わせたライフスタイル提案も上手い。数を売ろうとしない分、コストがかかって価格は割高になるが、他にはない世界観がファンを惹きつけていく。いい服を着たいお客にとっては、選びたくなるブランドと言える。
メンズでも、2022年にはアダストリアの子会社で、CURENSOLOGY(カレンソロジー)、CHAOS(カオス)といったレディスブランドを運営するエレメントルールがHUM VENT(ヒューベント)をスタートさせた。ブランドは23年シーズンで一旦終了したものの、(株)ブルーレーンがHUM VENTブランドの商標権を取得。(株)ヒューベントを設立し、24年8月よりブランド事業を再開した。アメカジが主流のメンズに飽きたりない一定のニーズは底堅いと見たのだろう。商品のラインナップを見ると、デザインはもちろん、色や質感と洋服好きの男性に響くものがある。
ヨシエイナバが43年もの長きにわたって存続したのは、適度なクリエイティビティをキープしながら、クオリティに主眼を置いたからだ。そこにデザイナーズブランド存続のヒントがあるように感じる。ブームは去っても、デザイナーズブランドのDNAは誰かが引き継いでいくのである。
ヨシエイナバは、1970年7月に誕生したデザイナーズブランド「ビギ」が2年目から破竹の勢いで売れ始める中、創業メンバーの一人で、代表の大楠祐二氏が派生ブランドを次々と増やし独り立ちさせる戦略から生まれた。最初は1973年のメルローズ。ビギのニット部門からの独立だった。次いで77年にアクセサリーのクシュカ、78年にはカジュアル色の強いディーグレースやマドモアゼルノンノなどを傘下にもつBBKK、82年にはピンクハウスを独立させ、次々と別会社が誕生した。ビギグループ躍進の原動力を支えた分社経営とも言える。
ところが、誕生から5年目の1975年には状況が一変する。ビギの創業以来、デザインに携わってきた菊池武夫氏が妻である稲葉佳枝氏(その後、賀恵に改名)との夫婦生活に終止符を打ち、別居。同年10月、菊池氏はビギを退社し(株)メンズビギを設立した。だが、大楠代表は確信していた。「デザイナーが思い通りに作った服が売れるわけがない。ビギが売れたのは、俺が売場やお客の声を集めてマーチャンダイジングをやり、菊池がデザインを修正したからだ。失敗して必ず戻ってくるさ」。読みはズバリ的中。菊池氏はブランド事業に失敗し、1980年にはビギに復帰。メンズビギはビギグループの傘下となった。
一方、大楠氏は素早く動いた。菊池氏に去られたその月に、稲葉氏をチーフデザイナーに起用して体制の立て直しを図った。アパレルだけではない。東京・青山にフランス料理のル・ポアソンルージュを開店した。「次はいつ稲葉に去られるかわからない。デザイナーの知名度に頼りきったビジネスほどリスクがあるものはない」。大楠氏には常にそうした危惧があった。だからこそ、ビギの設立から3年目でメルローズを独立させ、菊池氏が去った後も別会社を次々と設立してブランドを増やしていたのだ。
(株)ビギ傘下には以下のようなブランドが名を連ねた。「ビギ」「モガ」「ジャストビギ」、そしてヨシエイナバである。文字通り、ヨシエイナバにはビギ、モガのデザインに携わった稲葉氏の服づくりのスタンスが細部にわたって浸透した。さらにヨシエイナバは既製服にはない手作りの1点ものに近い技術や品質をもとに最高のウエアを提案することを追求した。1981年といえば、デザイナーズブランドが最盛期に入ろうとした時期。にも関わらず、ヨシエイナバはクリエイティビティよりもクオリティを追求したのである。
それがどんな意味を持つのか。当時の洋服好きは「お洒落でカッコ良い服が着たい」とデザイナーズブランドを購入していた。しかし、そんな洋服好きも歳を取るごとに成熟し、「いい服を着続けたい」に変わっていく。ヨシエイナバが誕生した時、稲葉氏は42歳。デザイナーとして十分な経験を積み、服づくりでは油が乗っていた時期だ。にも関わらず、手作りの1点ものに近い技術や品質を重視したのは、自身のスタンスである「私はデザイナーではなく洋服屋。モードを意識しても、アブストラクトな服は作らない」からだったと思う。当然、自分の服を愛してくれるファンがやがて成熟することも想定していたのではないか。
もちろん、稲葉氏は夫だった菊池氏とは違い、ビギという会社に籍を置いて仕事を続けた。もし独立すれば、経営にもタッチしスタッフや取引先のことまで考えなければならない。ならば、ビギにいた方が服づくりだけに邁進することができるわけだ。それを特別に意識した訳ではないだろうが、大楠代表が持論とした「服は作りすぎても少なすぎてもダメ。感覚は新し過ぎてもいけない。一歩先より半歩先だ」というマーチャンダイジング重視の経営方針とシンクロした部分はあったと思う。
加齢を味方につけた服づくり
稲葉氏は、ヨシエイナバを終了する理由について、「満足のいくパフォーマンスが望めないことも出て参りました」と、語っている。これほど長きにわたって続いてきたブランドだから、社内には後継のデザイナーを立て今後も存続させていいのではとの意見もあったはずだ。だが、稲葉氏は「ヨシエイナバは自分が携わってこそ、ブランドとしての体を成す」との思いが強かったのかもしれない。だから、あっさりと身を引く決断ができたと思う。
もっとも、体調面では以前にも変化を感じている。「60代の半ば頃から、色が見分けにくくなりました」。会社に染色部屋まで造り、自分で染めて色の出具合を確認していたにもかかわらずにだ。長年の経験からこの色とこの色が合うと組みわせても、違和感ができてきた。自然光に晒したり、照明を変えたりして、ようやく決めるという状態だった。原因はやはり加齢による目の衰えにあった。
70歳になる直前、知人から白内障治療の専門医を紹介され受診したところ、水晶体の中心部が硬くなる核白内障と水晶体の後ろが濁る後嚢下白内障が併発していた。医者からも「微妙な色の違いがわかりにくかったでしょう」と言われたとか。そのまま放置して症状が進行すれば、デザイナーとしての生命を奪われるかもしれない。幸い、処置が早かったことで、両眼の水晶体を取り除き眼内レンズを移植する手術を受けることができた。術後は色もクリアに見えるようになり、視力も0.8から1.2に回復したという。
人間は加齢により、目の異状を感じることが少なくない。特にデザイン関連の仕事をしていると、色が見分けにくくなる人も多いようだ。知り合いのグラフィックデザイナーもそうだった。一方、服を着てもらう顧客は、加齢に伴って髪の毛の色や肌の色艶が変化するので、似合う色が変わっていく。ここがブランドビジネスとして、一番悩ましいところだ。マインドエージを頑なに守ってデザインをしていると、コアなファン客は歳を取っているのだから自分に似合う色がないと、ブランド離れを引き起こしてしまうこともある。
ヨシエイナバが43年もの長期にわたってブランドを維持できたのは、コアな客層に合わせて色やデザインをうまく微調整してきたからだ。これは簡単なようで実に難しい作業になる。そこには稲葉氏が直接デザインに携わり、それを後身のスタッフに委ねても自らディレクションに携わる中で、経験則や売上げデータをもとに決めてきたと思う。80歳を超えてもアトリエ作業の合間には必ず店頭に立って、顧客との会話も惜しまない。だから、身体にそいつつも、さりげなく体型をカバーし、ずっと着られる仕立ての良い服を作ることができる。ほんの一瞬だけでなく、変に目立つこともせず、シックで落ち着いた色合いがヨシエイナバの真骨頂でもあった。
稲葉氏は、あくまでヨシエイナバを着てくれる人が着ていて心地よくいられることを重視した。それを学んだのは専門学校時代に遡る。原のぶ子アカデミー(現在の青山ファッションカレッジ」での経験からだ。前にも書いたが1960年代前半は既成服はそれほど出回っておらず、少し違ったデザインにするには作るしかなかった。原氏は戦前にパリにわたり、本場のオートクチュール(高級注文服)の技術を学んでいた。学校ではクリスチャン・ディオールの美しい人台を揃えていた。それが稲葉氏が学ぶ理由にもなった。
入学直後の1ヶ月は床に落ちた仮縫用のピンを拾うことのみだった。それによりピンがどういうものかを覚えることができた。糸抜きも重要な学びとなった。ツィードからシフォンまで50cm四方の生地から横糸や縦糸を抜き、再び針で糸を入れる。まっすぐ抜くのも難しいし、よりがかかっている糸もある。そんな地道な学習によって布というものが理解できた。布目がよれたまま裁断したり、生地の特性を分からないまま縫製すると、予期せぬシルエットになってしまう。しかし、生地がどのように畝り、歪むかを知った上でなら、それをデザインに活かすこともできるのだ。そうしたノウハウがビギの服づくりにも表れている。
一世を風靡したデザイナーズブランドも1990年代に入ると凋落した。ビギもブランド名は残ったものの、往時とは似ても似つかない低価格・量産の産物に堕してしまった。2019年には三井物産がビギホールディングスの株式33.4%を取得し、24年6月には残りの株式66.6%も取得して完全子会社化した。これについて、ファッションライターを自称されたあるお方は「DCブランドブームという名残さえ消えたと感じた話」と論評されていた。俄か景気が萎んでいくのは当たり前だが、ビギから派生したwb(ダブルビー)やDÉPAREILLÉ(デパリエ)は顧客をつかみ、売上げも積んでいる。デザイナーズブランドが消え失せることはないのだ。
しかも、商社がブランドを買収したところで、彼らはアパレルのプロではない。せいぜい経営者を送り込んで量販体制を整えるか、ODMの会社を噛ませてブランドの体裁を取るのが精一杯だ。商売としてはユニクロを支えているのと同じで、1点あたりのマージンは低くても数が売れれば、儲けものとしか考えていない。商社のアパレルビジネスなんて所詮、そんな程度だ。ビギはブームが去って身売りしたが、その遺伝子を引き継いだDÉPAREILLÉ は、新たなクリエーションとクオリティを創出し、デザイナーズブランドを牽引している。そうした動きのリーダー的存在だったのがヨシエイナバと言っても過言ではないだろう。
会社は異なるが、beautifulpeople(ビューティフルピープル)やpasdecalais(パドカレ)、marcourt(マーコート)やplainpeople(プレインピープル)は、大人の洋服好きに愛されている派生系デザイナーズブランドだ。これらに共通するのは量販アパレルはもちろん、百貨店系の大手アパレルにも出せない生地の色合いや質感、そして個性的なデザインだ。小物やアクセサリー、テーブルウェアなどを組み合わせたライフスタイル提案も上手い。数を売ろうとしない分、コストがかかって価格は割高になるが、他にはない世界観がファンを惹きつけていく。いい服を着たいお客にとっては、選びたくなるブランドと言える。
メンズでも、2022年にはアダストリアの子会社で、CURENSOLOGY(カレンソロジー)、CHAOS(カオス)といったレディスブランドを運営するエレメントルールがHUM VENT(ヒューベント)をスタートさせた。ブランドは23年シーズンで一旦終了したものの、(株)ブルーレーンがHUM VENTブランドの商標権を取得。(株)ヒューベントを設立し、24年8月よりブランド事業を再開した。アメカジが主流のメンズに飽きたりない一定のニーズは底堅いと見たのだろう。商品のラインナップを見ると、デザインはもちろん、色や質感と洋服好きの男性に響くものがある。
ヨシエイナバが43年もの長きにわたって存続したのは、適度なクリエイティビティをキープしながら、クオリティに主眼を置いたからだ。そこにデザイナーズブランド存続のヒントがあるように感じる。ブームは去っても、デザイナーズブランドのDNAは誰かが引き継いでいくのである。